ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


私の取材余話 の記事一覧に戻る

海、港、船・・・国際畑50年(パート2) 横浜 中南米 南極 カリブ海(平山 健太郎)2013年12月

第二次大戦の激戦地ガダルカナルからソロモン諸島伝いに、ココナツ運搬船で南太平洋を航海したのが、私にとって初めての海外取材であり、私の経歴の言わば「国際化」の出発点であったという拙文を、先日このブログに掲載していただいた。以下はその続きである。ココナツ船に敬意を表し、できるだけ海や港や船に関連した体験を主体に、まとめてみたい。


◆◇思い出遥か・・・客船沖乗り取材◇◆


私のNHK入局は昭和31年(1956年)。初任地は大阪中央放送局で、早速、近畿海運局、海上保安監部、大阪市港湾局、水上警察署などの担当を命じられた。私のジャーナリストとしての後半生を振り回すことになる中東ではこの年、ナセルによるスエズ運河の国有化をきっかけにした、英仏イスラエル三国のエジプト攻撃(第二次中東戦争・スエズ戦争)が起きており、スエズ運河の閉鎖による日本の海運への影響など、多少の関連取材をした記憶はあるが、新米の私の日常は、大戦中、南方の海域で沈められていた大型船舶が浮揚され、くず鉄の素材として大阪港に曳航されてきたといった種類のひまダネや、水上警察の、淀川下流での水死体の引き揚げや司法解剖などの取材が大部分だった。1年後には、海のない滋賀県の大津に転勤。県庁のヨットクラブに入れてもらい、帆と舵を操ってジグザグに風上に向かう「間切り」の面白さを琵琶湖で堪能した。


次の転勤先は横浜。2年間在勤の2年目は、またもや海事記者クラブ(通称「海クラ」)の担当になった。海外への出入りは、飛行機が主役になりかかっていたが、客船の定期便もまだ残っていた。まずサンフランシスコと横浜、神戸を結ぶアメリカン・プレジデント・ライン。ウイルソン、クリーヴランドなど、米大統領の名が船名に付けられていた。スエズ運河を通り、マルセイユとの間を片道40日で往復するフランスのメッサジェリ・マリティムは、ベトナム、ラオス、カンボジアと旧仏領インドシナ三国の名が付く姉妹船を毎月一便就航させていた。津軽海峡経由でナホトカと往来するソ連の定期便。太平洋を横切ってロサンゼルス、パナマ運河と大西洋を経てブラジル、アルゼンチンに至る大阪商船(あるぜんちな丸、ぶらじる丸、さんとす丸)。同じ南米にインド洋、喜望峰を回って到達するオランダのローヤル・インターオーシャン。・・・これらの定期便に加え、春秋の観光シーズンには英国海運界の老舗PO社が超大型の豪華な観光船を、アメリカの客を乗せて就航させていた。


これらの外航船は、客船も貨物船も、入港に先立ち港外の沖合で検疫や入国管理、通関などの手続きを済ませるため、関連する職員が小さな通船(つうせん)で、これら外航船に乗り込む。客船の場合、入港はほとんどが早朝。私たち「海クラ」の記者たちは、こうした通船で、目星をつけた船に乗り込み、インタビューするのが仕事だった。速度は落としながらもまだ航行中の大型船に、波のうねりを見計らいながら舷側のはしごに飛びつき、甲板や舷側の乗船口にたどり着くのはスリルがあった。海に落ちればスクリューに巻き込まれて死んでしまうからだ。(大阪在勤中、シベリアなどから舞鶴港に戻ってくる帰国船の取材でこの種の乗船、一度だけ体験している)。


船会社の多くは、私たちが関心を持つ可能性の高い乗客のリストを用意していた。PR効果を狙ってのことだろう。これら客船の乗客は、航路によりそれぞれ特徴があった。ナホトカ航路は、そのままシベリア鉄道でモスクワや欧州諸国への速くて安上がりなルートとして人気があった。開高健氏との初対面も、ナホトカに向け出港を待つソ連船の船上でのインタビューであった。20年後、開高氏とはサイゴンで数か月にわたって親しくしていただいた。NHK支局で中国系のまかない婦が作る日本料理を食べてもらったり、開高氏の勧めでサイゴンの古い阿片窟を体験取材したりした。


マルセイユ航路の方は、フランスなど欧州への留学生の往復や、装備など荷物の多い遠征登山隊などが多かった。米英船に比べ、法令順守が融通無碍なフランス人気質が幸いしてか、入港後も船内のバーが閉鎖されず、横浜市内の酒屋やバーに比べ驚くほど安いコニャック類を、朝から堪能する至福の時を楽しめたからだ。ただし運賃の方は、横浜からマルセイユまでの片道が、日本円に換算して11万円。2万円そこそこの当時の私の月給にくらべると溜息が出た。「コンビニのバイトでひと月稼いでヨーロッパに遊びに行ってきました」など後年、ゼミ生の報告を聞いて、旅を巡る環境の激変をしみじみ感じたものだ。


明治以来、多くの日本人が利用したこのマルセイユ航路、私はついに乗船の機会がなかったが、1980年代、モロッコへの取材旅行の帰路、マルセイユに立ち寄り、往時の客船埠頭を訪ねてみた。パリなどに向かう駅からかなり離れているため、下船した人々は馬車やタクシーで駅に移動したと聞いていたので、そのルートをたどってみた。上野駅とどこか似たたたずまいのマルセイユの中央駅は、メーンの出入り口がゆるやかな階段になっていて、その両側に一群の石像が並んでいる。アジアやアフリカの容貌を持つ人々の裸像で、一方には「コロニーダジ」(アジアの植民地)、他方には「コロニーダフリク」(アフリカの植民地)という文字が石に刻まれている。日本の留学生たちも、この群像を眺めながらパリやリヨンに向かったのか・・・と不思議な感慨があった。


南米航路は大阪商船もオランダ船もまだ日本からの移民を運んでいた。岸壁のブラスバンド、飛び交うテープ、「今生の別れ」という言葉が連想される中、拓大や東京農大の学生たちがシュプレッヒコールで移住する先輩たちを見送る光景を、興味深げに見ているポーランド船の船員に「面白いか?」と尋ねると、「とんでもない。感動的です」という答えが跳ね返ってきた。これら移民船のうちさんとす丸には、南米在任中、リオデジャネイロからサントスまで乗船する機会があった。喜望峰回りのオランダ船の方は、この船の折り返し港のブエノスアイレスに私が赴任した後、不思議なご縁に恵まれる。


アラン・ドロンに似た美丈夫の山室英男デスク、連日一緒に飲み歩いた伴野文夫記者、テレビカメラの操作を懇切に教えてくれた千代木信一カメラマンなどよい先輩や仲間に恵まれた思い出の深い横浜勤務の後、またもや国内地方局(仙台)に転勤が決まった。入局6年を過ぎ、4か所目の地方局。外信を希望していた私にとっては、残念でもあったが、仙台からの海外取材の成功が、門戸を私に開いてくれた。留学の帰国後すぐ外信部に転籍。半年後には、ブエノスアイレスに赴任した。緒方彰氏(のち解説委員長)の判断。選定の理由は、先に触れたように、ニューヨークでスペイン語を多少履修したかららしい。


◆◇ドミニカ内戦とアメリカ◇◆


赴任直後に中米のドミニカ共和国で右翼軍部のクーデターと、これに対抗する左派(護憲派)の蜂起が、首都サントドミンゴ一帯での内戦に発展。米軍が自国民保護を理由に直ちに介入した。取材を提案し、プエルトリコ経由で現地に飛んだ。内戦への中立を公言していたアメリカは、派遣された部隊(82空挺師団)の広報担当官がすぐさま右派軍を「友軍」と呼び始め、[護憲派]地域の封じ込めや、右派軍の作戦への事実上の協力に乗り出した。「キューバの影響力拡大を食い止める」大義名分だった。断続的な市街戦、OAS(米州機構)による調停などの後、早急に新しい選挙を行う線で妥協が生まれ、2カ月近い現地取材を終わった。初めての地域紛争取材だった。「撃つな! ジャーナリストだ」・・その後あちこちで私が長年繰り返す外国語のフレーズが身に着いた。


ブエノスアイレスへの赴任の直前に結婚し、一足遅れて私の任地に合流する予定だった妻をワシントンまで出迎え、ブエノスアイレスに帰任した。ワシントンでは、先輩の磯村尚徳記者の司会による座談会方式で、ドミニカ内戦やキューバのかかわり方などを放送用に録画したが、米国務省の外郭機関であるUSIAが、スタジオを提供してくれたり、アメリカにかなり批判的な映像なども検閲めいたことが何もなかったり、言論の自由というタテマエがきちんと守られているのはさすがと感心した。


NHKは当時、ブラジルのリオデジャネイロとアルゼンチンのブエノスアイレスに支局があった。のちオリンピックの取材拠点としてメキシコにも支局が一時置かれたことがあるが、中米やカリブ海地域を含め20か国内外が取材の対象だった。このため在任期間の多くの時間が、出張にあてられていたが、地元の取材もいろいろあった。ドミニカから帰任して間もなく、海上自衛隊の練習艦隊がラプラタ河を遡航して、ブエノスアイレスに入港した。取材のため乗船してきた海兵74期(予科)に在籍歴のあるNHK同期の高橋宏記者の手伝いで、私もアルゼンチン海軍の対潜哨戒機に便乗。南大西洋上での両国海軍の対潜合同訓練を空から撮影した。ボリビアなど貧しい内陸国から大都市ブエノスアイレスに仕事を求めて移住してくる経済難民の巨大な貧民街、首都周辺のパンパ(大草原)でじわじわ進んでいた宅地造成の様相など、テレビ向けの小番組を作り、地元の新聞や通信社の素材でニュース原稿を送る日常だった。


チリのフレイ大統領とインタビューしたこともある。同大統領に近い親日的なチリ人の老記者が「今からフレイに会いに行こう」と気軽に誘ってくれ、保安のチェックも皆無のまま大統領府の執務室に入ると、大統領がいた。録音機のマイクを大統領自身に持ってもらい、3分ごとにゼンマイを巻きなおさねばならないベルハウエル16ミリカメラを回しながら質問するという、今から思えば、ひどく失礼ながら牧歌的な「単独会見」だった。フレイ氏の後任アジェンデ大統領が、軍のクーデターで自ら銃を握ったまま殺害される以前の、比較的穏やかなチリだった。


アルゼンチンには日系人が2万人(80%が沖縄出身)。郊外での花の栽培や市内での洗濯業など移住当時の仕事を離れ、高学歴の三世、四世たちが各界に進出していた。この日系コミュニティは、私たち一過性の駐在員たちにとっては、味噌、醤油をはじめとする日本食材の供給原としても有難い存在だった。定期船を就航させていた大阪商船の現地支店が、在泊船の船上で和食パーティーを開いてくださったこともあるが、港には他にも思いがけない裏口(?)があった。オランダ船の下層甲板である。オランダ人幹部船員の見知らぬところで下層甲板の働き手である中国人船員たちが、寄港地で仕入れた、ポケットモンキーから食材に至る、雑多な個人的商品を売っていたからだ。


家内が親しくなった、道子さんという、旅行代理店に勤める日系の女性に案内され、家内と私も一度、オランダ船を訪れたことがある。下層甲板の狭い船室にいた中年の中国人船員が、ベッドの周りをもそもそかき回していると、あの赤い小冊子(毛沢東語録)がちらりと見え、続いて私たちの探していた商品が出てきた。もやしを作る緑豆。ささやかな密輸入だった。日本の家族からの小包でも、正規ルートの場合、港内の税関に受取人本人が出頭しなければ受け取れない。半日も順番を待ったあげく、税関職員の前でこじ開けられた小包の中から、糸で数珠つなぎになった干し栗が現れ、「故郷の母親からですよ」と苦笑しながら輸入税を払っている、スペイン人出稼ぎ労働者を間近に見たこともある。


ブエノスアイレスは、アマゾンに次ぐ南米第二の大河であるラプラタ河の港だが、50キロ余りも離れている河の対岸(ウルグアイ領のコロニア市)は見えない。地球が丸いからだ。ラプラタ河自体が、それぞれ長大な河川であるパラナ河とウルグアイ河が大西洋にそそぐ共通の河口部、つまり湾のようになっていて、海からの奥行きは200キロを越える。ブエノスアイレスからラプラタ河口にある隣国ウルグアイの首都モンテビデオへは、フェリーで対岸コロニアに渡り、そこからラプラタ河北岸沿いの国道を東に向かうのが通常だが、フェリーの船内では出港するとすぐ免税店が開き、ウイスキーやたばこ、香水など地元では高値の外国製品を無税で買える魅力があった。


ラプラタ河は、土砂の堆積で水深が浅く、大型船の座礁もしばしば起きていた。隣の大国ブラジル海軍の自慢の空母ミナスジェライス号(第二次大戦時の英空母)が、ブエノスアイレス港への親善訪問を終わって出港後間もなく、市内からよく見える水域で座礁してしまい、離礁に何週間もかかったことがある。互いにライバル意識が強かっただけに、アルゼンチンのメディアは、繰り返しその映像や写真を視聴者の目にさらし、内心の溜飲を下げていたようだ。アルゼンチン海軍もやはり英国製の空母ベインテシンコ-・デ・マージョ号を保有していたが、その後(1982年)のフォークランド戦争では、英国の原子力潜水艦に旗艦(巡洋艦)ベルグラーノを撃沈されたあと、港にこもりきりで終戦(敗戦)を迎えている。ブラジル、アルゼンチン双方ともその後代替わりして、いずれも外国製の中古の空母を使っており、ブラジルの方はフランスの元主力空母フォッシュだ。


◆◇初めてのキューバ◇◆


ブエノスアイレスに赴任した65年の暮れから翌66年の正月にかけ、初めてキューバを訪れた。アジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯会議の取材だった。バンドン会議や非同盟運動の流れをくむ、アメリカの覇権主義や、まだ残る植民地主義への抵抗を掲げた会議だったが、思いがけない先輩ジャーナリストに助けていただいた。第二次大戦当時の朝日新聞の欧州特派員だった甲斐静馬氏。退職後、アジア・アフリカ連帯会議の仕事をされてきたそうで、ハバナの会議には、取材陣ではなく日本の代表として出席していた。それだけに、表向きの発表には出てこない裏情報・・・「ソ連の奴らが昨夜、札びらを切って、アフリカ代表団をシラミ潰しに買収した」といった、ざっくばらんな話が面白かった。中ソの間で隙間風が吹いている模様がよく分かった。10年後、カイロに在勤していた時、甲斐さんは、NHK支局に私を訪ねてくださり、今度は私が中東の内情を説明して、少し恩返しした。開催国キューバのカストロ議長との単独会見はできなかったが、外国記者団の群がる場所にふらりと姿を見せた同議長にスペイン語で声をかけると、小柄な私の頭髪を片手でかきむしり、冗談を口にしながらの高笑い。無礼だなと腹が立ったが、親近感のあらわれだったかもしれないと、気を静めた。


キューバ取材から戻った同じ年(66年)の6月、アルゼンチンでは、急進的市民同盟(急進党)のイリヤ政権に対する軍のクーデターが起きた。経済不振や学生の騒乱などで政情不安が続き、クーデターの前日、街で売られていたニュース週刊誌も、戦車の群れを全面に並べた図案を表紙に使った上、参謀総長のオンガニア将軍が政権を握るだろうと解説していた。その通りになった。早朝のことだった。支局の日本人スタッフ藤井政夫君にカメラを持たせ、大統領府「カサロサーダ」の様子を見に行ってもらった。藤井君は、現地のカメラマンらと一緒に、軍が包囲する大統領府の屋内まで入り込み、大統領が退去するまでの一部始終を撮影してしまった。大統領府を警備していた陸軍の指揮官の体面を考えてか、この小部隊の警備シフトが終わるとともに部隊は退出。交代する部隊の代わりに警察隊が建物の警備につき、イリヤ大統領を「保護下」においた上、市内の自宅に丁重に送り届けたのである。南米の「無血クーデター」というのは、こんな風に運ぶものかと、妙に感心してしまった。(7年後、隣国チリのクーデタ-では、アジェンデ大統領が自ら銃を採って軍と戦い、戦死している)。ブエノスアイレスでのこの早朝のクーデターを記録した藤井君の映像は、「ブエノスアイレスの朝」という話題物として放映された。新聞も、朝日の場合クーデターの事実を伝える短い記事のしっぽに「アルゼンチンは、南米大陸の南端にありタンゴの盛んな国」という説明がついていた。そんなものかと苦笑した。


軍事政権は、7年後の選挙で、帰国した、かつての独裁者ペロンを支持する勢力に敗れ退陣。その3年後(76年)には、再び軍のクーデターで以後6年間、ペロン派や左翼に対する残忍な弾圧(「汚い戦争」)が続く。フォークランド島を巡る英国との戦争を起こし、敗北するに及んで、ようやく民政が回復されることになる。


◆◇アルゼンチン海軍・・・南極取材と海図◇◆


アルゼンチンの歴史の暗黒のページとして悪評が高い軍事政権ではあるが、オンガニア大統領から私が受けた恩恵もある。海軍の補給船による南極取材だ。あるパーティーの席でオンガニア大統領と面談する機会があり、海軍の船での南極取材を認めてほしいと依頼したところOKの即答があり、以後、文字通りのトップダウンで、翌67年の1月(南半球では夏)実現にこぎ着けた。


アルゼンチンの南端と南極大陸から北に張り出した南極半島の先端とは、ドレーク海峡を挟んでわずか1000キロ。アルゼンチン最南端の港街ウスワイヤから船でも片道二日半の近距離にある。アルゼンチンは、南極半島の北端近くのエスペランサ(希望)基地など南極大陸や周辺の島しょに海軍の観測基地を置き、その領有権を主張してきた。しかし、アルゼンチンのこの主張を認めない英国やチリが、エスペランサ基地から双眼鏡の視野に入るほどの近距離に、それぞれの観測基地を設けて睨みあっている。そんな中での南極取材になった。


藤井助手とともに、輸送艦に乗り込み、ヘリコプターも搭載した砕氷艦に先導されて、ウスワイア港を出発した。「士官待遇」という約束だったが、食堂だけで、寝室の方は士官用の個室ではなく、へさきの錨収納庫に隣接した小部屋の階段ベッド。船の中で一番、タテ揺れのひどい部屋だった。南緯60度のドレーク海峡は、世界で最も海が荒れる海域で、しかも悪天候だった。ひどい船酔いに苦しんでいる私に、下士官の一人がついてきなさいという。甲板に出ると下士官が「何かにつかまり水平線を見つめ続ければ船酔いが止まる」と教えてくれた。暗示の効果もあってか、船酔いは止まっていた。流氷群が浮かぶ南極の水域に入ると海は嘘のように鎮まりかえり、船は鏡のような海面を滑って目的地に着いた。日中の気温は摂氏マイナス8度程度で、雪のない地表も見え、ウェットスーツとアクワラングを着けて海に潜っている観測隊員もいた。砕氷艦のヘリにも乗せてもらい、空からの撮影も満喫した。


「フォークランド」という英語の島名がスペイン語では「マルビナス」・・・スペインの航海者が発見し,名付けた同島を19世紀に英国が武力で占領し、違う名前を付けたというのが、アルゼンチン側の言い分だ。フォークランド戦争(82年)当時盛んに議論されたこと、ご記憶の方も多いはずだ。南極周辺の他の島々の多くも同じ問題を抱えている。ところが、である。南極からウスワイアへの帰路、輸送船の船橋で、面白いものを見つけた。航行中の海域を示す海図であった。世界的に定評のある英国海軍水路部の「アドミラルティ・チャート」が使われており、その片隅に「LO QUE SE LLAMAN](呼ばれている名)「LO QUE DEBE DE LLAMARSE](呼ばれるべき名)の対照表を正誤表のように記したごく小さな紙片が、魔除け札のように張り付けられているではないか。その機知の見事さに、思わず笑い出してしまった。「日本海」などの名称に目くじらを立てたがる韓国にも、この種の実際的なウイットをまねてほしい、と今思う。


下船したウスワイアの警察署には、「マルビナス解放」を呼号しながらフォークランドに着陸を強行して英当局に逮捕され、送還されてきたアルゼンチン極右の青年たち十数人が拘禁されているという話を聞いた。16年後のフォークランド戦争では、船酔いしないノーハウを私に教えてくれた中年の、あの下士官の安否がなぜか気になった。


◆◇六日間戦争とゲバラの死◇◆


この1967年、忘れがたい二つのことを体験した。その一つは6月、イスラエルの奇襲攻撃で始まった第三次中東戦争(六日間戦争)。イスラエルは圧勝し、エジプトからシナイ半島とエジプト軍政下のガザを、シリアからゴラン高原を、また東エルサレムを含むヨルダン川西岸をヨルダン王国から奪って、領土を4倍に広げた。ブエノスアイレスには当時50万人といわれるユダヤ系の人々が住んでいて、支局を兼ねた私の住居の家主も、同じ階の隣家もユダヤ系だった。19世紀にヨーロッパ各地の政治的な騒乱を避けて移住してきた人々の子孫だ。ナチスドイツ占領下のワルシャワで起きたユダヤ人ゲットーの蜂起を記念するブエノスアイレスでの集会を、赴任後、間もなく取材したこともあるし、ユダヤ人の大量殺害で訴追され、亡命先のブエノスアイレスで、イスラエルの秘密工作機関モサドに誘拐され、イスラエルで処刑されたナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの遺児とインタビューしたこともある。


六日間戦争に話をもどすと、そのブエノスアイレスのユダヤ人青年たちが、イスラエルの勝利に沸き立ち、車を連ね、警笛を絶え間なくかき鳴らし、カーラジオからイスラエルの行進曲や舞踏曲を大音響で放出しながら、街中を走り回ったのである。あこがれの地イスラエルへの移住の波が続いた。後年、私がイスラエルやパレスチナの取材に頻繁に訪れるようになって、イスラエル当局によるパレスチナ人家屋の取り壊しを、文字通り、体を張って阻止するイスラエル左翼の活動家の一人と親しくなった。元エルサレム市会議員のメイア・マルガリット氏。ブエノスアイレス市内を走り回ったユダヤ人青年たちの一人で、移住の当初はイスラエルの極右政党で活動していたが、73年戦争(第四次中東戦争)で負傷した後、アラブとの平和を説くハト派に変心したという。


この年(67年)、私の記憶に残るもう一つの出来事は カストロを援けてキューバ革命を成功させたアルゼンチン生まれの医師チェ・ゲバラが、潜入したボリビアでのゲリラ活動中、負傷して政府軍に捕えられ、処刑された事件だ。現場はアマゾン流域の低地にあるボリビア東部の都市サンタクルーズに近い山間部で、政府軍討伐隊との間で戦闘が散発していた。取材したかったが、ゲリラはもとより、討伐隊に同行することさえできない。この地域には、沖縄からの移住者の入植地があると聞いていたので、緊張が漂う、その入植地を取材する計画に狙いのレベルを落とし、ロサンゼルス駐在の小林大二カメラマンとともに現地に飛んだ。


入植地には討伐隊から「怪しい者を見かけたら直ちに通報するよう」という布告が回っていた。取材中ジャングルのはずれにある空き地で、ボリビア軍の兵士たちがレンジャーの訓練をしていた。少し離れた場所に車を止めて、小林カメラマンが望遠レンズで、ファインダーをのぞかずに撮影を始める中、私一人が訓練現場に近づくと、褐色の肌をしたボリビア兵の中に何人か背の高い白人のインストラクターがいた。私たちを見るなり急いでボリビア軍の軍帽をかぶったが、軍服の袖には「US ARMY」の標識。撮影許可を求めて拒絶される押し問答で、隠し撮りに十分な時間を稼ぎ、立ち去ろうとすると、「アメリカ兵」の一人が大声で[あいつらを捕まえろ]と叫んでいた。車を急発進させて逃げ出し、振り返ったが追跡はなかった。そのまま入植地にかくまわれるようにして取材を続けた。私たちを車で案内してくれた移住事業団事務所の現地雇員の青年は、サイパン島のサトウキビ農場で生まれ育ち、守備隊の「玉砕」と運命を共にすることをまぬかれた、数少ない生存者ということだった。


ブエノスアイレスのメディアがゲバラの死を伝えたのは、その4か月後、11月9日のことだった。現地紙「ラ・プレンサ」は、「全ラテンアメリカに衝撃」という大見出しで、その死を報じた。夕刻、激しい雷鳴が轟き、驟雨が街路を洗った。「風雲児の死を天が悼むかのようであった」と、私は当日リポートした記憶がある。超大国アメリカに楯突くキューバにとってソ連からの援助は頼みの綱であったが、ソ連の当時の対中南米政策は、革命輸出ではなく、右翼軍事政権をも含めた諸国との正常な関係を維持し、米国が期待する「反ソ連合」を切り崩すことにあった。その路線を尊重せざるを得ない盟友のカストロとも決別し、地元ボリビアの共産党からさえ支持されない中で、ゲバラは、39歳の命を散らせた。


◆◇アマゾンの船旅とメキシコ五輪◇◆


この年のNHKの人事異動で、仙台局時代の上司(報道課長)であり、私の「国際化」を後押ししてくれた山手勇氏が、ニューヨークからリオデジャネイロに転勤してこられた。翌年(68年)がちょうど「明治百年」に当たり、これを記念する一連の番組の中で、ブラジルの日系移民の歴史と現状をとりあげることになった。山手リオ支局長を団長に、小林カメラマンと私がチームを組み、アマゾン流域の日系入植地を取材して回った。両舷の間に、持ち込みのハンモックを張って休息できる小船で、大河アマゾンの本流や支流を旅した体験は忘れがたい。上流のアクレでは、定期の航空便の欠航が続き、4人乗りの単発セスナ機で、果てしなく続く熱帯雨林の上空を何時間も飛行し、サンパウロへの便がある地方空港にたどり着いたこともある。ジャンパー姿のパイロットは、操縦席に小銃を持ち込んでいた。不時着した場合の、敵意のある先住民や猛獣への安全対策であると説明してくれた。


翌68年の夏、私自身が、ブラジルに転勤を命じられた。中南米に「慣れているから」という理由だったらしい。ヨーロッパに行きたかったのにと、少し恨めしかった。


仕事はじめは、10月のメキシコ・オリンピック。参加国が初めて100か国を越え、また中南米で初めての開催だった。NHKも東京から100人を越える取材陣が参加したが、スポーツ音痴の私が「現地召集」されたのは、いわば場外遊軍の役回りだった。「貧困対策をないがしろにした無駄使い」として、オリンピックの開催自体に反対する学生たちの動きが、7月から続き、震源地の国立メキシコ大学は、軍により閉鎖された。この閉鎖が、逆に学生たちを街に送り出す効果を生んでいた。オリンピック取材班の応援にメキシコ支局が雇っていたメキシコ大のアルバイト学生たちが、反対運動を牽引している友人たちに頻繁に電話しては、情報を仕入れ、私に報告してくれた。


メキシコシティの都心に「三文化広場」がある。アスデカ、スペイン、現代の三つの文化遺産が折り重なる地域にあるこの広場は、外務省の庁舎と高層マンションのビルが鍵の手に囲んでいた。オリンピック開催十日前の10月2日、この広場で集会を開いていた学生の中に、軍用トラックから飛び降りた完全武装の兵士たちが、実弾を発砲しながら突入したのである。学生たちの多くは、兵士たちが突入した逆方向にある高層マンションに逃げ込み、武器を持っていた少数の学生が、窓から応射を始めた。これに対し、軍は装甲車から20ミリ機関砲で応戦。マンションの窓ガラスは次々に粉砕され、カーテンが燃え上がった。住民も巻き添えになり、フランスの女性記者を含む多数の死者が出た。


私が逃げ込んだのは、マンションとは鍵の手になった外務省ビルだった。銃撃戦をテニスコートの観客席から目撃するような幸運(?)な位置にあった。この建物に逃げ込んだ人々は、私を含め、金属製の事務デスクの下などに潜り込んでいたが、机上の電話機を手元に手繰り寄せると、回線が生きているではないか! メキシコ国営放送局の中にあるNHK取材本部に、進行中の惨劇を実況中継風にリポートすることができ、スクープになった。まだ銃声が続く中、現場を離れて取材本部に歩いて戻った。現場から2ブロックほど離れた場所で、軍が車の往来を封鎖していたが、驚いたのは封鎖地域のすぐ外側の繁華街だった。銃声など全く聞こえない日常があり、レストランでは大きなソンブレロ(日除け帽子)をかぶった楽師(マリアッチ)たちが演奏している。都市の騒音はすさまじいものだと感心してしまった。


普段は観光名所である三文化広場は、オリンピックではマラソンのコースになっていたが、窓辺が一面に焼け焦げたマンションや、建物に残るおびただしい弾痕を、中継映像にさらしたくなかったからだろう。コースは変更された。


事前のこの騒ぎのほか、メキシコ大会をめぐる国際的な環境にも大きな波乱があった。チェコスロバキアの民主化運動を圧殺したソ連軍の介入、いわゆる「プラハの春」である。開会式から大荒れになった。ソ連の選手団が入場してくると観客席から野次が飛び、チェコ選手団には拍手と大歓声があがった。とりわけ数の多いアメリカ人観客からの野次は大きく、普段は反米的な言動の多い地元メキシコ市民も、この野次には同調した。この状態は、試合にもつきまとった。特に女子の体操で、チェコのチャフラフスカの平均台の演技ではもめた。審判が下した9・60という点数を、野次のため一度引っ込め、9・80に引き上げたのである。チャスラフスカは、個人の総合で堂々優勝を飾った。ソ連のポロニアは2位であった。双眼鏡で表彰台を見ていると、チャスラフスカは、掲揚されるソ連の国旗からは目をそむけ、チェコの国旗が上がると涙を流した。


◆◇黒海艦隊ハバナ入港◇◆


明けて1969年7月、再びキューバを訪れた。地中海で演習していたソ連黒海艦隊の一部、ミサイル搭載巡洋艦や潜水艦を含む10隻が、「親善訪問」の名目で初めてアメリカの庭先とも言える西大西洋を通って、ハバナに入港することになり、本社から取材を求められた。ソ連艦隊のハバナ訪問が、ニクソン米大統領のルーマニア訪問の発表直後だったため、「縄張り荒らしへの報復」と受け止める論評も目立っていた。前者が、ソ連を牽制する2年後の米中接近への布石となり、また後者がアンゴラ、エチオピアと続く、ソ連とキューバのアフリカへの共同軍事介入へと発展して行った歴史を振り返って見ると、いわゆる「冷戦チェスゲーム」の節目になるイベントを、幸い私は目撃したことになる。


リオデジャネイロからハバナへ直行便で飛べば7-8時間の距離だが、私の場合、四日がかりになった。ブラジルの当時の軍事政権は、キューバと断交しており、キューバへの渡航の事実が分かれば、再入国を拒まれる可能性が高かった。中南米諸国の中でただ一つキューバと国交があり、ハバナとの間に定期便を就航させていたメキシコも、アメリカへの気兼ねからか、この便の乗客の旅券には「キューバ向け出国」「キューバから到着」のひときわ大きなスタンプを押していた。(キューバ自体の査証は、旅券に記載されない別紙で発給していた)。


私は、遠回りを余儀なくされた。リオデジャネイロから大西洋を越え、スペインのマドリッドへ。ここでキューバの査証を取り、再び大西洋を西に横切ってハバナ。帰路はこの逆路という具合に、大西洋を二往復する回り道だった。ソ連艦隊入港(7月20日)の前日、私はハバナに滑りこんだ。


7月26日の革命記念日が近かったせいもあり、「招かれざる客」であった私も、容易に取材許可証を受け取ることができ、キューバのあの有名な望郷歌「ラ・パロマ」の舞台でもあるスペイン統治時代の要塞をかすめるように、浮上した潜水艦を先頭に一列になってハバナ港内に入ってくる、このミニ艦隊を岸壁から撮影した。


キューバと親密な北ベトナム(当時)のカメラマンと間違えられてか、ソ連艦隊の接岸は、最前列のかぶりつきでカメラを回すことさえできた。カストロ首相が出迎えに姿を見せず、サンタマリア海軍司令官やキューバ共産党の中央委員らだけが岸壁に並んだのは、ソ連艦隊の司令官が、一介の海軍少将であることに対して示した、国家の首脳としてのプライドからでもあったようだ。


この艦隊入港のわずか数時間後に、アメリカの宇宙船「アポロ11号」の月面着地が予定されており、「カストロ同志は、ハバナ大学に特設されたテレビの前に釘付けだよ」というキューバ人記者の説明が何となくおかしかった。「アメリカのものは、何でも素晴らしい。人間以外は」といった寸評を私に告げる地元記者もあり、長年アメリカの尻の下に敷かれてきたキューバ人たちの、アメリカへの屈折した憧憬と怨念が肌身に感じられた。


ミニ艦隊入港の数日後、艦隊はキューバ政府の要人や「友好諸国」からの来賓らを招いて、キューバ沿岸を航行しながら近代兵器の訓練を披露した。本物の北ベトナムのジャーナリストは招待され、私を含む西側ジャーナリストは締め出された。


水兵たちの市内見学に同行する機会には恵まれた。単独あるいは小人数で「紅灯の巷」に繰り出すことが多いアメリカの水兵とは対照的に、いつも集団行動。模範的な修学旅行とでもいえそうなのが、ソ連水兵たちの上陸風景だが、友好国への親善訪問ともなれば、なおさらである。迎えにきたバスに乗り込む「同志」たちに続いて、私も16ミリカメラを回しながら乗り込んでしまった。「チェルノモルスキー・フロート」(黒海艦隊)の文字入りのリボンを帽子に巻いた水兵たちは「セバストポリから出てきた」など、私の質問に屈託なく答えてくれる。


見学先は、ハバナ郊外の砂糖工場。バスから降りた水兵たちは、工場の従業員たちから一人ずつソ連とキューバの紙の小旗を手渡されたあと、「歓迎会場」に仕立てられた、体育館風の建物に向かった。儀礼的なスピーチの交換以外に趣向もない式典の後、甘酸っぱい匂いの充満する砂糖工場の工程を、水兵たちはぞろぞろと連れ回されたが、精白された砂糖の袋が山積みされている倉庫で、いたずら心が湧き、ソ連の小旗を持った水兵の一人に、その旗を砂糖の山の上に立ててみてくれと頼んだ。キューバ産の砂糖やコーヒーを、ソ連がほとんど独占的に運び去っている状況を端的に描こうと思ったからだ。無邪気に私の注文に応え、砂糖を指にすくってなめてさえ見せてくれた。この水兵に少し後ろめたさを感じながら、私のカメラは回っていた。


この年(69年)、私も海軍、今度はブラジル海軍の、補給船で南大西洋を航海した。行き先は、リオデジャネイロより1000キロほど北のブラジル東海岸から1200キロほど東の大西洋に浮かぶイーリャダトリニダヂという火山島で、第一次大戦初頭の1914年、英国とドイツの仮装巡洋艦同士が、この島の周辺で戦闘を交えたという記録はあるが、その後は注目されることもなく、ブラジル海軍の気象観測所がある。樹木もない険しい岩山の麓の砂浜におびただしい蟹がいたが、めぼしい撮影対象にも乏しく、士官室での雑談で隣国アルゼンチン海軍との気質の違いをゆっくり観察するのが楽しかった。この旅からリオに帰任してほどなく、長女が生まれた。ブラジルとの二重国籍を持つこの娘、新聞記者になった。


◆◇ペルー大地震とソ連の大遠征◇◆


キューバやソ連との私の関わりは、南米で翌年(70年)、もう一度生まれた。6月、ペルー中部のアンデス山麓で起きた大震災である。山間部のダム決壊による山津波のため5万余人が死亡。海岸部でも多くの家屋が倒壊した。落石の多い崖道を、余震に怯えながら全滅の村にたどり着き、取材した。各国からの救援活動が始まり、アメリカは、ベトナム沖から戻ったばかりのヘリコプター空母やヘリコプターを投入して、道路が寸断された山間の被災地に医療品や食料を運び、重傷者を搬出した。私もこれらのヘリコプターに乗り、被災地の取材を続けたが、パイロットたちの多くが、つい前月まで、メコンデルタの戦線で銃火をくぐっていたという。


キューバからも救援隊が来た。医師と看護婦をいくつかのグループに区分けした編成で、キューバ国営航空機で乗り込み、被災地に散って行った。アメリカの圧力などにより中南米諸国の間で孤立していたキューバにとって、この災害に際しての人道的な素早い対応は、中南米諸国との関係改善にとっての好機だった。現にペルーは、この援助をきっかけにキューバと復交しており、孤立からの脱出の引き金になった。


ソ連も参加した。災害後の初動で活躍したアメリカが引き揚げ始めた頃合いを見計らったように、大型野戦病院の人員、器材、医薬品一式をひっさげ、長期居座りの構えで乗り込んできた。ソ連空軍のアントノフ四発大型輸送機の塗装を民間航空「アエロフロート」のそれに塗り替え、後部の連装機銃を取り払った跡は、金属パネルでふさがれていた。アイスランド沖で遭難機も出るなど、犠牲をおかし、南北大西洋、南米大陸を斜めに横切る「バルチック艦隊」(1905年)さながらの大遠征であった。


同じアントノフ輸送機群が、5年後、これよりやや短いもう一つの遠征につき、ハバナからアンゴラへキューバの「義勇兵」をピストン輸送することになる。


リオデジャネイロ在勤最後のこの年、サンパウロの大口信夫総領事が、軍事政権に抵抗する都市ゲリラに誘拐され、この事件の取材に当たった私が、7年後アンゴラ内戦の取材中キューバの公安に逮捕、追放され、ポルトガル駐在大使の大口氏に大変お世話になった。(会員エッセー「旅券と私」に拙文寄稿)
(元NHK記者・解説委員 2013年12月記)


注・スエズ運河再開やペルシャ湾でのタンカー同乗記など中東関連はパート3に寄稿予定。

ページのTOPへ