ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


私の取材余話 の記事一覧に戻る

改革開放の号砲(松尾 好治)2013年10月

経済大国に躍進した中国の目覚ましい経済発展の原点は、1978年末の改革開放への歴史的な大転換である。私は当時、共同通信北京支局長としてその前後の動きを二年余にわたりつぶさに見た。それ以来、高速成長で経済規模は米国と覇を争うほどまで拡大したが、当時から引きずったまま解決を待つ問題も少なくない。原点を振り返って見ることも、これからの中国の動向を探る上で有意義と思う。


北京赴任に先立って私は日本の政財官界のトップレベルの方々の中国観を聞いて回った。当時のメモからいくつか発言を拾い出してみよう。


「中華思想は体制が変わってもなくならない。いやな国だが、誠心誠意付き合う以外に方法はない。重要性が飛躍的に高まるのは確かだ」

「中国は近代化を急がなければまた四人組が出てくる。仮に日中平和友好条約の締結が遅れたとしても、日中経済関係に影響することはあり得ない。影響は考えられない段階まで既に来ている。中国は日本の技術を必要とするし、米国と結びつきの深い日本の力を必要とする。中国は日本の協力を求めているのだから、この際助けてやればいいではないか」

「中国は四つの近代化を急ぐため60年代の日本の高度成長に学びたいと言っている。合理主義、商業主義を前面に出す一方で、政治による調整を続けながら、どのようにして近代化を達成していくかが今後の見どころだろう」

「世界戦略の立場からソ連の軍備増強に対応して米中日の軸が必要だ。アメリカの銀行はいざとなったら20億ドル、30億ドルという具合に10億ドルの単位で中国に金を貸すようになるだろう。まごまごしているうちに米中の方が先に進む可能性もある」

「日本の中国観は情緒的で、他の国に対するようにクールになれないという面がある。劣等感の裏返しかもしれない」

「中国は米国市場に代わり得るほどのものではあるまい。長期的には分からないが-。日米首脳会談の席上、ブレジンスキー大統領補佐官が福田首相に日中条約の締結を強く勧めたという。対ソ戦略上の政治的、軍事的色彩が極めて強い。最近中国は非常に謙虚だというが、いつまた高飛車にならぬとも限らないという見方はある」

「本来中国人はインターナショナルだ。中国人の発想は日本人とは違うし、大人だよ。日清戦争で日本は勝った、勝ったと喜んだが、長い歴史の中で見ると、結局は日本に何も残らなかった。大人の気風を学んできなさい」

「中国には技術だけでなくマネージメントを学びたいという希望がある。近代化を急ぐ中国にとって、かつてのような日本と違い、モデルがない。戦艦大和、武蔵クラスが大方向転換しようとしている。長い過渡期と試行錯誤が避けられない。地方では売買結婚がまだ残っている」


いずれも非常に率直で、含蓄に富み、傾聴に値する発言だ。大別すると、財界は対中協力に熱心で中国に好意的な姿勢が目立ち、官界はOBを含めかなりクールであり、中国の事情に精通した経営者は中国の抱える難問の解決は容易ではないと慎重な分析をしていた。


ここはどうしても1972年9月、外相時代に田中角栄首相とともに日中国交正常化を果たした、大平正芳自民党幹事長の意見を聞いておく必要があると考え、女婿で大蔵省出身の秘書、森田一さんの取り計らいで超繁忙の中、大平さんに時間を割いていただいた。私が北京に出発する一週間前のことである。「日中平和友好条約調印後は経済協力をどのように具体化するかが大きな課題だ。金利をどこで折り合うか、共産圏国への優遇という問題はあるが、海外経済協力基金からの援助も中国側が受け入れれば検討課題となる。日中間では表口の付き合いと古い友人のツウウエイズがある。古い友人の方は今後なるべく少なくしてもらいたい。中国とは二国間だけの問題でなく、朝鮮半島とかインドシナ問題とかマルチラテラルな問題、アジア問題を話し合うようになりたい」。そして大平さんの私自身に対するアドバイスは、主体性をもって報道の任に当たってほしいということだった。古い友人の付き合い云々は、国交を正常化した以上は表口の付き合いが中心になるべきだということなのだろう。また古い友人の付き合いの方の比重が大きすぎると、客人の接遇に長けた中国側のペースに巻き込まれやすいのでは、という思いも大平さんにはあったかもしれない。

大平さんは1979年12月、首相として訪中した際、中国国民向けに「新世紀をめざす日中関係」と題して重要な演説をした。この問題は後述することにしたい。


◆◇国内体制固めに四苦八苦◇◆


1978年はいわゆる四人組が逮捕され、文化大革命が終息してから二年、三度も失脚した鄧小平が党長老を後ろ盾に党副主席、副総理、軍総参謀長に復活してから一年。世の中はまだそう落ち着いていたわけではないが、急速な近代化へ方向転換しつつあって外国への門戸開放は急ピッチで進み、いろいろな外国との協力情報が飛び交う騒ぎとなった。この年8月の日中平和友好条約の締結によって日中関係が完全に正常化したのを受けて、日中経済関係も勢い上滑りムードになりがちで、政策転換の速さに驚愕した日本人関係者の多くが「中国は社会主義経済としての歯止めをどこに置くのか」「右への揺れ戻しが心配だ」などと懸念し始めていた。国内体制が一体どこまで安定しているのか疑念があったのだ。私は北京支局長のバットンタッチを受ける前に8月下旬から9月上旬にかけて共同通信経済記者訪中団に加わり中国の主要各地を視察したが、この中で四人組による生産破壊、企業管理の混乱が非常に大きく、多くの幹部の思想行動は政治優先主義に縛られたままで、四人組勢力を一掃するところまで至っていないことが見て取れた。


当時瀋陽ナンバーワンのホテル、遼寧大廈に宿泊した。ばかでかいだけで何の情緒も感じられない。服務員の数は少なく、サービスは徹底して悪い。スーツケースを運んでくれる服務員はだれ一人としていない。電話のオペレーターは全くつっけんどんで中国側通訳を通してくれとそっけないことおびただしい。夜の宴会の食事もまずい。ホテル側にサービス精神はまるでないのだ。部屋にかぎはあるが、かからないという始末。現地の世話役、新華社遼寧分社の副分社長は「遼寧省では四人組の害毒がとりわけひどかったので」と弁解におおわらわだった。日本語に堪能な新華社国際部の高地さん(後に東京特派員として来日)が訪中団に付いてくれた。彼の説明はこうだ。「各省の収穫状況を見ると四人組の影響を完全に排除できていない省が分かる。例えば山西省の収穫状況はよくない。指導層に最大の問題がある。物資の流通、生産状況は中央が完全に掌握しているが、各省はメンツの問題もあり、(本当は必要としているのに)他省の援助を積極的に求めることはしない」。文化大革命による停滞と混乱が尾を引き、指導層はばらばらの状態が続いている。


世の中はまだ、毛沢東主席の決めたことはすべて断固として守らなければならず、毛沢東主席の下した指示はすべて変わることなく守らなければならない、とする華国鋒主席の提唱した「二つのすべて」が幅を利かしていた。こうした現実から著しくかけ離れた毛沢東思想一本槍の教条主義を排除したい改革派と、毛主席の権威に累を及ぼすことを強く警戒する毛沢東護持派の党内権力闘争は予断を許さないものがあった。私が正式に北京支局長を引き継いだ9月上旬は真理の基準論争たけなわのころである。これは改革派が5月からスタートさせた「実践は真理を検証する唯一の基準」キャンペーンである。年末にかけて人民日報をはじめとする国内メディアは、明けても暮れても「実事求是」(事実に即して問題を処理する)をスローガンとして真理の基準論争を派手に報じた。改革派としては、四人組粉砕後、鄧小平批判をしたこともあり風見鶏とも揶揄された華国鋒主席をも引っ張り込み、「安定と団結」の掛け声の下、混乱を深めるようなことは極力避け、プラスの力を近代化に発揮することに狙いがある。だから、もちろんばっさり切るようなことはしない。それだけに絶えずもやもやとしていて上から下まで踏ん切りの悪い面が感じられた。


毛沢東護持派の中心人物と目されたのは、汪東興(党副主席)をはじめ紀登奎(副首相)、陳錫聯(副首相)、呉徳(全人代常務副委員長)のいわゆるミニ四人組と陳永貴(副首相)の面々。特に汪東興は劉少奇国家主席時代から毛主席のボディーガードとして権力闘争に手を染めてきており、むざむざと権力の座から追い落とされる人物ではないとされ、隠然たる勢力を維持し続けていると見られていた。これに対峙したのが鄧小平はじめ趙紫陽(四川省党委第一書記、後に首相、党総書記)、万里(安徽省党委第一書記、後に副首相)、胡耀邦(党中央組織部長、後に党主席、党総書記)、胡績偉(人民日報総編輯)らだ。この綱引きの中で文化大革命中に失脚した幹部たちを続々復活させたことが改革派の支持拡大に有利に作用したのは疑いない。11月ごろ、突如北京の西単や王府井などに壁新聞が貼り出されるようになった。これは真理の基準キャンペーンと密接な関係があったのだが、北京駐在の外国特派員にとっては誠に厄介な仕事が増えたことになる。いつ、どこで、どのような壁新聞が現れるか絶えず神経を尖らせていなければならない。巻紙に長々と書いたものやら、便せん一枚に小さな字を連ねたものやら、種々雑多で、これはというものをメモに取る。


ある夜、今度は何と天安門広場の東側壁面に長大な壁新聞が貼られたという情報が入り、朝日新聞支局長の近藤龍夫さん(千葉敬愛学園前理事長)の車に同乗させてもらって見に出かけた。内容をチェックするにはコンクリートの壁の斜面を素手で触ってよじ登らなければならない。凍てつくような寒さの中、斜面は前に登った人たちの“発射”したタンやツバ、手鼻の“盛大な”痕跡だらけで、最初のうちはこれらを何とかよけようと頑張ってみたものの、ついにはあきらめざるを得なくなり、手は汚れ放題という始末だった。


壁新聞を読めるところまでたどり着いて内容を確かめ(驚くようなめぼしいものではなかった)、当時北京特派員の必需品だったポラロイドカメラで状況を撮影し、地上に降り立ってカメラから印画紙を取り出した途端、十数人の若者に取り囲まれ、あっという間に印画紙を奪われてしまった。彼らは物珍しさのあまりこういう行動に走ったのだろうが、あまりにも過激だったので、当方は茫然自失の体だった。


西単近辺の壁新聞が貼られる壁は、いつの間にか象徴的に“民主の壁”と呼ばれるようになった。これら壁新聞は、文化大革命が民族の災難だったと論じたもの、毛沢東の功績の再評価を求めたもの、汪東興、呉徳ら指導者を激しく攻撃したものが目立った。当時北京では党中央工作会議が延々と開かれており、改革派が抵抗勢力に対して圧力をかけるため“民主の壁”を意識的に利用したことが歴然としている。改革派の攻勢が功を奏し、11月中に真理の基準キャンペーンに対する支持表明が29(当時)の一級行政区のうち25以上に達した。ただ軍では改革路線に対する抵抗がかなり強かったと見え、支持表明は捗っていなかった。だが11月10日に始まった党中央工作会議が12月13日に終わるまでに改革派による体制固めがほぼ確定したのである( 当時党の重要会議の開催はベールに包まれており、この日程も後に判明した)。


◆◇夜8時のラジオニュースで重大発表◇◆


党中央工作会議が終わった三日後の12月16日、米中国交樹立(1979年1月1日を期して)がワシントン、北京で同時発表された。日中平和友好条約の締結に続く米中国交樹立は、中国にとって近代化をスパートさせるための国際環境がほぼ整ったことを意味した。政治的には日米と呼吸を合わせて脅威を受けていたソ連を抑え込む形になり、経済的には近代化実現のためのどから手が出るほど欲しい資金、技術を日米から導入する幅広いルートが築かれたのだ。こうなったら一気呵成に国内条件の仕上げに前進するのみである。


これも後で分かったことだが米中国交樹立発表の二日後の12月18日、なだれ込むようにして党第11期3中全会が開かれていた。

当時中国では重要発表は午後8時の北京ラジオ放送のニュースの時間にあるのが常だった。12月22日夜、北京駐在日本記者団は市内で会合を開いていた。重要発表の予告はないので、午後8時のニュースは連日チェックしなければならない。この日、二人支局の共同通信(他の社は各一人)では重要発表の可能性が極めて強いと見て支局員の辺見秀逸君(後の芥川賞受賞作家の辺見庸)が支局に残り北京放送をウオッチした。案の定というか勘が当たって飛び込んだのが党第11期3中全会の閉幕とそのコミュニケの発表である。「1979年から全党の活動の重点を社会主義現代化の建設に移すべきである旨決定した」と改革開放への歴史的な大転換を告げたのだ。号砲は鳴った。



コミュニケは真理の基準キャンペーンを高く評価し、「二つのすべて」が退けられたことを示していた。党内路線闘争に一応カタを付け、毛思想一本槍でなく実践で検証していくことに落ち着いたのだ。近代化建設に取り組む大前提となる安定した政治局面がひとまず作り出された。だがコミュニケは「いまなお実事求是の態度で大胆に問題を提起し解決する勇気を持たない同志が少なからずいる」とし、抵抗勢力がしぶとく存在し続けていることを示唆した。いつ揺れ戻し、ごたごたが発生してもおかしくない危険な要素を抱えた上での妥協の成立だったと言えるだろう。改革派にしてみれば、それは百も承知、決して一本筋にはいかないだろうし、それでもはらはらしながらも危ない道を渡らざるを得ない。「資本主義と言われようと何と言われようと、耳を塞いでとにかくやってみよう。生産性が上がらないことには話にならない」という切羽詰まった危機感があったように見える。


揺れに揺れながら改革開放時代が走り出した。この政策大転換によって国中が興奮して沸き返るという現象は一切なかった。大衆の参加、民主化とは関係がなく、下からの盛り上がりがあったわけではないから、当然である。上でできるだけやるという権威主義が改革開放の原動力だ。ところで改革派は絶えず抵抗勢力の存在を意識して行動しなければならなかった。指導幹部から極左派は依然として一掃されていない。


文革時代十年間に共産党に入党した党員は1800万人、彼らは一体どういう行動を取っていたのだろうか。当時北京特派員が中国内部のいわば襞の部分まで自らの目で見、触れることは叶うはずもなかったが、確かに信頼できる筋から情報を集めることはできた。そうした情報を総合すると、輪郭はかなりはっきり浮かんできた。要するに、実際に改革開放の掌に当たる中級幹部は四つの近代化のお題目を唱えても決して積極的に動こうとはしない。自発的には何もしないのである。命令一下、打って一丸となり、整然として動き出す状態からは程遠い。明確な指導性、皆を心服させる力が欠けている一方、党員幹部が住宅の配分、身内の者の抜てきなどで不正を働く現象が早くも目につき始め、指導層の特権化、特権階層化が進む気配が出てきた。党の指導から離れたりする動きも現れ、最高指導部は社会主義の道を堅持するなど四つの基本原則を打ち出し、締め付けに必死になるのだが、党員、庶民の間には反修正主義とは言いながらも実際にやっているのは修正主義ではないのか、という疑惑が消えない。しかも修正主義とは何か、正確にはだれにも分からないものだから、混乱は深まる一方である。


中国のメディアは1979年の年明け後も四人組摘発批判運動の継続を主張し、抵抗勢力の排除が容易ではないことをはっきり示した。こうした一連の動きの中でこの年5月、四川省党委全体会議で趙紫陽第一書記(後に首相)は「当面左翼的思潮と右翼的思潮の二つの思潮を克服しなければならない。指導幹部としては四つの基本原則の堅持は理解できるが、思想解放は不得手のようだ」と述べ、各クラスの指導幹部が勝手気ままに風を吹かしていることを非難した。中級幹部がなかなか改革の促進派になろうとしないのを嘆いたのである。9月下旬には人民日報が社説で「肝心なのは指導グループの整頓だ。大多数は歓迎しているが、少数は懐疑的態度で臨んでいる。整頓に反対もある」と指導グループの整頓の必要性と反対派の抵抗を取り上げた。11月の上海市党委工作会議では経済工作に対する妨害が焦点になった。会議は経済工作には妨害と阻止力が右からも左からもあるとして、不安定の原因について林彪、四人組がもたらした悪い結果である、人民生活に困難が 残る、活動中に欠点がある、社会に下心を持つ“害群之馬”(群れに危害を加える馬、団結を損なう者のたとえ)がいる、などの点を挙げた。党内に改革に前向きでなく、すきを見て抵抗を試みる一派がいるのだ。“害群之馬”という表現は日本語にはないが、改革派から見た当時の党の内情を言い得て妙である。


こういう情勢だから、改革開放といっても大胆な政策に一気に踏み切るのは到底不可能である。抵抗勢力に反撃のチャンスを与えないようにするには、抵抗力の大きい内核を攻めるのは後回しにし、既得利益を適当に維持しながら、たやすいところから改革していく、いわば“天窓”を開けるような局部作業から始める漸進改革路線しか選択肢はなかった。計画経済を主とし、市場経済を従とした二つの体制の結合が体制改革の中心だ。具体的には計画経済の“傍ら”“隙間”に市場経済の新成分を注入していくという方式である。これは差し当たり体制内の不満分子を沈黙させ、政治的動乱の発生を阻止する効果はあったのだろう。超安定勢力の農民の基盤、農村から始まった改革の重点が、核心部分の都市、工業に移ったのは1984年に入ってからである。


◆◇強い権力と弱い市場の結合へ◇◆


改革開放への政策転換後、中国を訪れた日本の代表団に鄧小平ら最高指導部は繰り返し外国からの資金、技術、管理ノウハウの導入についての期待を表明した。中でも余秋里副首相は1979年5月末、日中経済協会調査委員会の代表団と会見した際「中国は外国資本を利用せざるを得ない。長期的に中国は返済能力があり、外国融資を相当受け入れられる状況にある。われわれは日本の資金、技術の支援を非常に求めている。また中国商品をもっと買ってほしいと政府、財界に伝えてほしい。われわれは助けを必要としている。技術、経済面でも助けてもらいたい。政府、関係機関、財界に伝えていただきたい」と極めて率直に低姿勢で日本の支援を要請した。同副首相は8月末、日本の論説委員訪中団との会見では「多くの外国の友人と会ったが、中国に皆金を貸す意思がある。借りようと思えば10億ドル、20億ドルでも簡単に借りられる」と外資導入に自信を強めてきたことをうかがわせた。


このころ中国には「二十年一貫制」という言葉があり、中国が二十年も経済が停滞したままの遅れた開発途上国であることを示す意味で使われた。確かに計画経済の下で農民は搾取される一方で生産意欲ががた落ちしていたから農業生産力の発展水準は非常に低い。工業生産力の水準もかなり低く、大工場の生産性は先進国の五分の一ないし十分の一にとどまる。国有企業は収入の全部または大部分を政府に上納し、資金運用の責任はなく、経営内容の如何にかかわらず給与基金などは国から支給される。だから企業は大がまの飯を食べ、労働者職員は「鉄の茶碗」(食いっぱぐれのない職業)と言われていた。これでは企業、労働者ともに生産の増大、製品の品質改善、品種の増加に努める内発的な力を持ちようがない。それに加えて家父長的な支配、封建的なお役所管理が根強い社会的基盤が人々をがんじがらめにする。


これまでの社会主義的な制度では人は動かず、とても駄目だと最高指導部は痛感したのだろう。競争原理を取り入れ、個人も企業も業績に応じて自らの懐におカネが入る利益駆動の仕組みにし、新しい技術、設備、生産工程を導入して生産性を向上させなければならない。そのために先立つのは、外国からの資金、技術、管理ノウハウの導入だ。これこそ改革開放に踏み切った動機と言える。だが改革開放により欧米、日本に学ぶのは、やはり修正主義ではないのか、腐敗思想も入ってきて精神が汚染される、と疑問視する政治イデオロギーとの調整は非常に難しく、路線闘争がいったん収束しても底流では依然くすぶり続ける。政治的大激動を回避するには本格的な政治制度の変革は、棚上げするしか他に方法はない。もちろん意識改革も手つかずのままである。当時の第一線党員の意識を示したエピソードがある。1978年のある日、万里安徽省党委第一書記と長年農村工作に従事してきた老幹部の農家の生産責任制を巡る対話の一部である。これはだいぶ年を経過してから雑誌「瞭望」(2008年10月6日号)が掲載した。


万里「社会主義と人民大衆、あなたはどちらを取るのか?」

老幹部「私は社会主義を取る!」

万里「私は大衆を取る!」


この後に「瞭望」は「真理は万里の方にある。社会主義の目標は本来人の全面発展にある。大衆の支持を失った社会主義は本当の社会主義ではない」との杜潤生中共中央農村政策研究室元主任のコメントを付け加えている。老幹部の意識がその後どうなったのかは不明だが、指導者から言われたからといって、そう簡単に意識を改革するのが困難であるのは間違いあるまい。


非常に低い経済発展段階と封建的な社会的基盤を背景とした開発独裁によって、中国はまずは“貧困の落とし穴”の突破にチャレンジすることになった。政治制度も意識転換も根本的解決を先送りし、漸進的改革路線で既得権は適当に擁護されたので、これは後に“敗者なき改革”と称されるに至る。計画経済と市場経済の併存からスタートした経済改革は、最初の「計画経済が主、市場経済が従」から、「市場経済が主、計画経済が従」に逆転(1984年)し、やがて「社会主義市場経済の実現を目標」(1992年)に進む。このプロセスで中国は、グローバル経済の下、後発のメリットを生かして国際分業の波に乗って一斉に立ち上がり、経済が活性化していく。一貫して強大な国家権力が関与し続ける国家資本主義である。権力体制の維持と既得利益の死守、未成熟な市場を特徴とする。


この経済改革を実際に担った中級幹部たちは大人風を吹かせはするが、非能率、無気力で、型にはまった発想しかなく、機能的、合理的な考え方が不得手というのが一般的な相場だった。うっかり創造性を発揮すると刺されてしまう恐れが強いから無理もないところもある。意識改革のプレッシャーは無論全くない。経済発展が軌道に乗るにつれて、彼らに権力を利用して豊かになれるチャンスが訪れた。その気になれば都合よく自主性の低い市場を動かして利益をむさぼることができる。「中央の統一指導の下に適当に地方の権限を拡大する」という改革開放後の指導部の方針によって、特に地方政府がその恩恵に浴することになった。

1980年代前半の改革ブームが到来するや、地方政府は先を争って地域の経済発展にダッシュした。投資と輸出主導で低コストの工業化を推進し、中国を貧困から脱却させることに貢献したのは地方政府に他ならない。彼らは行政手段と市場化をうまく利用し、地方財政の直接出資で建設投資公司を設立して都市インフラ建設と不動産開発を進めたり、企業の投資に影響を与えるいろいろな誘導策を取ったりした。その際、外資の導入や企業誘致には特に熱を入れた。これら政府関与はマクロ的には量的な拡大と模倣に終始し、技術革新は伴っていない。伴ったのは、行政権力の無秩序な拡張だろう。何も制約を受けない権力と未熟な市場が結び付けば、腐敗が芽を出し大きく伸びるのは必然だ。官僚は中国語でいう“権銭交易”あるいは“権力資本化”(権力や金銭がらみの裏取引)を通じて開発すべきでないプロジェクトまで開発し、全く不必要な建設工事までするようになり、大いに懐を肥やすチャンスを手に入れた。党中央が叫ぶ「不正の風」の是正もなんのその、まさに“馬の耳に念仏”である。地方政府の行為と官僚の直接的な経済利益が深く結び付いているのは、だれの目にも明らかだ。彼らは市場化が進んでも、彼らにとってうま味のある産業独占や経済統制を決して放棄しようとしない。権力がすべてのお国柄である。権力体制の維持と既得権の擁護という構図は、改革開放後いまに至るまで一貫して変わりはない。


◆◇古い硬直体制引きずる◇◆


1980年の秋が深まるころ、私は離任を真近に控え、関心のある問題について中国側要人の話を聞いた。中日友好協会会長の廖承志さんとは北京在任中、廖さんの大好物の刺身を一緒につまみながら何度か懇談する機会があった。恰幅が良く,悠揚迫らぬスケールの大きい人物で、結構茶目っ気もあり、話し相手を自然に和ませる人柄だった。廖さんは懇切丁寧に質問に答えてくれた。


「日中平和友好条約批准後二年間の両国関係は満足すべきものだ。中国は金も欲しいし、日本の協力も欲しい。実力相応に地道に関係を築き上げていくのが双方の利益になる。(上海の宝山製鉄所の建設は、工業をあまりにも性急に拡大させるもので、住宅建設、環境保護を優先させるべきだなどと中国国内に批判が出ていたことについて)宝山は中国の問題で、日本に責任はない。立地の選定も二万トンの船しか入れず、ミスだった。しかしこの工事は続行する。取り消さない。中国は計画経済であり、主要部門の国有化の原則は変えない。ある程度国家資本主義的な色彩は出てくるが、資本主義そのものに逆戻りすることはない。銀行、防衛産業などを除き、ほとんど株式会社になろう。労働者大会が権力を握り、工場長の罷免もできるので歯止めになる。株式会社組織で競争もするようになり、効率的だ。格差、賃金格差は構わない。経済建設の難関を越えれば安定する」


これは、もちろん発言の一部だが、国家資本主義という当時中国国内では聞きなれない言葉が飛び出したのは、やはり廖さんならではだろう。大胆な発言が廖さんの持ち味なのだ。格差の容認は、生産力が拡大してパイが大きくなればその果実は社会全体に行き渡るというもので、それは鄧小平の考え方でもあった。しかし市場化経済の下で経済発展と公平な所得分配を両立させるのがいかに難しいか、その後の中国で貧富の二極分化が激しくなったことがよく示している。


故周恩来首相の信頼が厚かった新華社社長の曽涛さんは、閣僚級で全人代常務委副秘書長の要職も兼ねていた。白髪に柔和な顔立ち、がっしりした体格で、国務院外事弁公室秘書長、アルジェリア、ユーゴスラビア、フランス各駐在大使を歴任した当時の中国きっての洗練されたセンスの紳士だった。彼はジョークも交えながら腹のうちを割って話してくれた。


「揺れ戻しがあるという考え方は中国にもまだある。しかし、すべての問題は生産力の発展にかかっている。政治もすべて生産力の発展にかかる。(日中間に将来摩擦の起きる可能性について)摩擦が生じても、これを小さくすることができるし、なくすこともできる。日本が中国を攻撃することはあり得ないし、中国が日本を攻撃することもあり得ない。互いに問題なのは北極熊(当時のソ連を指す)だ。北極熊が攻めてくる恐れを注目しなければならない。摩擦が生じた場合、冷静に対処する必要があり、報道機関の責任は大きい。毎年一回は中国を見に来てください」


党内にくすぶる路線対立も生産力が拡大するにつれて解決できるということなのだろう。曽涛さんに以前会った時中国の指導者はあまりにも忙しすぎるのではと尋ねたところ、返ってきた答えは「ご存知のようにわが国の官僚主義のおかげでみんな忙しいのです」。国際派だけあって中国の官僚制度の悪弊も常に意識していたようである。


外交部新聞司副司長の王珍さん。党中央の方針にきちんと沿いながらも、威勢のよい奔放な雄弁家。自信たっぷりの外務官僚だった。



「第12回党大会は周到な準備が必要なので、その前に6中全会(1981年6月に開催した)または中央工作会議をやることになろう。建国後三十年の政策を全面的に総括する。毛沢東主席の評価に触れざるを得ない。だが全面的な否定はない。建国後も正しかった政策もある。正しかったのは7割または6割という評価の仕方はできない。コンピューターで毛主席を評価するわけにはいかない。さらにこれからの展望としては長期経済計画の承認がある。四人組粉砕後の四年間、あまりにも焦りすぎた反省はある。この後の一、二年間は大きく変化することを希望している。一にゆっくりーというわけにはいかない。一に速くだ。だが『多快好省』(多く、速く、立派に、無駄なく)ということは、なかなか難しい。『多快』だと『好省』にならない。中国は資本主義になることはない。大きいのは所有制、労働に応じた分配、計画経済ということだ。公有制の原則、生産手段の公有制の原則は変わらない。工場長が労働者を搾取する事態にはなり得ない。中国式の社会主義だ。中国は外国と付き合う場合、外国にいじめられた経験があるので、だまされるのではないか、という警戒心が付きまといがちだ。これからの世界は社会主義国家にせよ資本主義国家にせよ、相互依存関係が大きい。資源、原料の問題、みなそうだ。資本主義経済が悪化した場合の影響で、中国は外国に頼り、依存するというのでなく、自力更生、そのうえで援助を求める、ということだ」


王珍さんの「多快好省」についての発言は、的を射ている。この四字は1950年代、中国政府の国家建設の方針である。王珍さんの発言の三十年後、中国のある経済学者は経済発展を振り返り「今日改めてこの四字を思うに『多快』の二字は既に解決した。『好』の字は非常に大きな疑問符を付けなければならない。『省』の字は既に不可能である」と辛らつなコメントをした。


中国の代表的な経済学者、薛暮橋さんとは初対面だった。周恩来首相、実力者の陳雲党副主席の片腕として経済建設に取り組んだ経歴があり、当時国家計画委員会研究所長を務め、経済政策の策定、実施に当たる主要責任者の一人だった。印象は、実直そのものの穏やかな好人物。


「経済改革の構想は文革中持っていたが、発表する勇気はなかった。頭にあるだけで口には出せない。党第11期3中全会で思想解放、実事求是のスローガンが出され、全国的に大討論が繰り広げられた。経済体制の改革はたいへん複雑な問題で、目指す方向ははっきりしているが、実現する過程は一歩一歩でなければならない。落ち着いた足取りで前進しなければならない。そうでないと大混乱が起きる。3中全会の決定はたいへん正しい決定だが、決定したからといって全国人民、国務院各部長がすぐに受け入れるとは限らない。相当時間がかかる。まだ決定通り運ぶところまで至っていない。最近北京の経済学者を集めて経済センターを設立した。そこでどうすればよいか毎日議論している。以前は上の者の一言で政策が決まったが、今は経済学者にまず案を出させ、十分議論したうえ上の者が政策を樹立することに変わった。北京の経済学者は昔は何もすることがなかったが、今はたいへん忙しい。日本が上海宝山製鉄所の設備に協力してくれたことに感謝している。建設時期が経済調整期に当たり、時期はよくなかった。建設場所も理想的な場所ではない。しかし日本の援助には感謝している」


漸進的な経済改革路線を薛暮橋さんら有力な経済学者が大いにバックアップしたことがうかがえる。話は当面した経済動向の分析    がかなりの比重を占める結果になり、本質的な構造問題について薛暮橋さんの腹蔵のない意見を聞いておきたかったところだ。


中国の指導者が異口同音に語った「資本主義にはならない」「資本主義に逆戻りすることはない」ということは、社会主義の特徴と定義された公有制と計画経済を守り抜くことと解釈される。

私は1980年11月、離任して帰国したが、在任中はそれまで経験したことのないてんてこ舞いの忙しさの連続で、その間積み重ねた経験は濃縮されてずしりと重い。帰国後も私は曽涛さんのアドバイスもあって、なるべく年に一回は中国を訪れることにした。


改革開放は当初だれにも分からない未知の領域に挑んでいく側面があったが、指導部には社会主義の土台だけは掘り崩さないというコンセンサスがあったのは確かだ。さて、三十五年後には一体どうなったのか。二十一世紀にチャイナドリームの時代が幕開けしたとも言われる現在の段階で、中国が直面するチャレンジに触れておかねばなるまい。中国はいまや世界第二の経済体となり、“経済成長の奇跡”を成し遂げたのだが、強大な国家権力と既得利益の擁護が続き、本格的な政治制度の改革、意識転換を棚上げしたまま、重大なリスクが山積するに至っている。漸進改革で過去から引きずり温存した“魔物”が潜んでいるのが、いまの中国の姿という言い方もある。


市場経済化によって公有制と計画経済は大きく変わったと思われがちだが、実際にはある程度変化したものの、中途半端な「社会主義市場経済」の下でしぶとく生き続けている。公有制のシンボル、国有企業は重大な改革は免れ、資源配分、価格面などでかゆいところまで手が届くほど優遇され、まるで既得権の砦である。株式市場は国有企業を救済するため設けたようなものだ。行政と一体化しているから、権力者、特に地方政府にとって“甘い汁”を吸える存在で、腐敗汚職の温床にもなってきた。計画経済に関しては、産業独占、経済統制などうま味いっぱいの権限を政府は決して手放そうとはしないので、市場の中で公平な競争の環境はなかなか整わない。私営企業は除け者にされているようなものだ。これでは最も効率的な分野に資源は配分されず、需要を掘り起こせず、技術創造力の伸びる余地は限られる。権力と既得権の拠りどころであり、隠れ蓑になっているのが公有制と計画経済ということになる。


数千年以来衰えることなく続いてきた行政主導の国家管理体制はいまなお健在である。そこでは官の標準がすべての標準であり、官の利益がすべての利益であり、一切の目標が政治優先であり続ける。政治をチェックすべき効果的な監督システムは生まれていないと言って差し支えない。人口の大半を占める農民は相変わらず天に頼って飯を食べる受身の姿勢で、“父母官”(昔からある地方長官の呼称)への依頼心が強い。伝統的な社会心理は“政府は一層高明”、“上級は一層正しい”、“中央は最も英明”で、毛沢東を神格化したのも、こういう心理に根ざしているのかもしれない。大衆は絶えず上の顔をうかがうのが常で、自主性を発揮する余地は小さい。硬直化した体制は堅固な砦そのものである。


突出して強大な権力体制と既得利益が擁護されたところで未成熟な市場と結びつき、“権力資本化”“権勢資本主義”が生まれ、社会主義が事実上形骸化した感がある。問題は改革開放で大きな成果を上げた“高成長神話”が資源と環境の制約という厚い壁に突き当たり、また貧富の二極分化、社会の不公平など高成長の歪みが表面化し、従来の量的拡大路線から技術進歩の主導する質的な持続可能な安定成長路線への転換が不可欠の段階に達したことだ。この転換のためには政府の市場関与からの退場をはじめ生産要素価格の歪みの是正、独占の打破、競争の促進がぜひとも必要になる。処方箋としては公有制と計画経済に徹底的にメスを入れることしかない。社会主義の特徴とされてきた公有制と計画経済の中国語で言う「一統天下」(ひとり天下)を突き崩さない限り改革できないことがはっきりしている。これは官僚支配と既得権に直接関わるだけに、非常に難しい問題だ。政府権力が自らに手術を施して、うま味のある権限を手放すことができるのか、果たして自らの変革ができるのか、共産党は自浄力を持ち合わせているのか?強大な権力と既得権を死守するとすれば、質的な持続的安定成長路線への転換は望み薄となる。中国経済の脆弱性が表面化する可能性が出てきている。先を読んでのことかどうか、改革開放で巨大な利益を懐にした成功者グループが外国に利益を移して移民する“投資移民”が出現しているという。


中国は社会主義とは一体何か、原点に立ち返って問い直すことが必要になっているのではないか。中国の改革の行方は、グローバル経済の下、とみに中国との経済関係が緊密化している隣国日本にとって決して他人事ではない。


◆◇真摯な日本財界のアドバイスと大平ドクトリン◇◆


日本経済に対して改革開放はこれまでにないビッグチャンスを提供した。ひとまず政治の安定が保たれている中で巨大なマーケットが開放されたのだ。日本だけではなく米国経済、欧州経済にとってもボナンザ(福運)が訪れたのは間違いない。


日中平和友好条約の調印前後から日本の経済界は、次第に日中経済交流に熱を入れ始め、欧米諸国を一歩も二歩も引き離し、トップに躍り出た。中国ブームの到来である。1978年10月22日、北京の西郊飛行場から日本訪問に旅立った鄧小平を見送った人々の中に当時北京滞在中だった岡崎嘉平太さん(全日空相談役、日中経済協会常任顧問)がいた。日中覚書貿易を主導した高碕達之助さん(経済企画庁長官、通産大臣、日ソ漁業交渉政府代表、東洋製罐会長などを務めた)と並んで日中国交回復のため“井戸を掘った人”の一人である。この日、岡崎さんは「四つの近代化に対する協力でコマーシャルベースでやれない部門は、日本政府の役割が重大だ。精神的な賠償のつもりでやるべきだ。エコノミックアニマルで中国に乗り出すべきではない」と語った。岡崎さんの発言は後に対中政府借款の供与につながる。岡崎さんは旧制一高時代以来、中国との付き合いが七十年に及び、気骨のある謙虚な人柄で、在上海大使館参事官の時に1945年8月15日の敗戦を迎えた。この時、岡崎さんを深く感動させたことがあった。「その日、親しい中国の友人が訪ねてくれて、岡崎君、これから日本と中国は仲良くなれるよ、と言ってくれた言葉は忘れられない」。


改革開放への政策転換後になると、日中間の人事、経済、文化交流には一段と拍車がかかった。稲山嘉寛新日鉄会長、パナソニックの創業者・松下幸之助氏、五島昇東急電鉄社長、盛田昭夫ソニー会長、池浦喜三郎日本興業銀行頭取と大物財界人も続々北京入りし、中国の指導者たちにアドバイスした。


「バランスを取りながら経済発展をしなければならない。製鉄所ができたはいいが、動かす電力がないでは困る。計画的にやってもらいたい。もっと密接に日本と話し合っていこうではないか。合弁など可能性を研究したい。何をやるにも、まずはエネルギーだ」(稲山さんから康世恩副首相に)、「電子工業の発展がかぎである。近代化のため大企業も中企業も、広く世界の特徴あるメーカーをうまく活用するように。経営を評価することが必要だ。経営は総合芸術であり、たとえて言えば生きた総合芸術だ」(松下さんから鄧小平副首相に)。


「鉄道の近代化に協力する。太平洋経済委員会(五島昇議長)は中国に対しオープンドアだ。ホテルはゆったりしたビジネスホテルを作ることが必要だろう。高層はやめた方がよい。都市の環境破壊になる。ゴルフ場は作ったらどうか。経済界全体として中国との経済交流をどう進めていくか、高いレベルで会合を持ち、下から積み上げて(案を)出していきたい」(五島さんから李先念副首相に)、「急速に近代化をする場合、大きなプロジェクトをやる時個々の技術者の趣味に走らせずに、技術的なマネージメントが必要になる。エンジニアリング・マネージメントが必要だ。縦割りすぎると、コントロールする横の力がないと危険だ。電子工業はすそ野の広い産業で、すそ野の広い部品が全部必要となる。テレビ工場だけ作っても駄目だ。ただ中国には膨大な市場が国内にある」(盛田さんから鄧小平副首相に)。


池浦さんは産業金融についての豊富な経験知識に基づいて中国金融界トップを通じ極めて貴重な助言をし、日本企業の対中投資にも一役買った。将来を見据えて日中交流に携わる後継人材の育成にも心を砕いた。稲山さんが指摘したバランスの取れた経済発展は、当時中国経済のアンバランスが表面化しつつあっただけに、時宜を得た非常に適切なアドバイスだった。現在中国の都市という都市に超高層ビルが無秩序に乱立しているのを見るにつけ、これは環境破壊なのではないかと思わざるを得ない(特に西湖のある杭州は醜悪)。北京、上海は許せるとしても、中国のすべての都会が香港スタイルに右へ倣えをする必要はないだろう。「高層はやめた方がよい」という五島さんのアドバイスにいまも共感を覚えるのである。日本の財界人は中国の近代化を願って誠心誠意有益な提言をした。


改革開放への大転換の翌日、1978年12月23日、新日鉄が全面的に協力した上海宝山製鉄所起工式での稲山嘉寛新日鉄会長の心のこもったあいさつは忘れられない。


「宝山プロジェクト発足から今日の起工式を迎える間の広範な中国側の努力に深い敬意を表する。今年8月に日中平和友好条約が締結された。これによって日中間の友好往来、貿易経済交流は怒涛のような流れになって発展することは言うまでもない。中米国交正常化のビッグニュースが全世界に公表された。日本と中国、米国の友好関係が相互に大きく発展し、アジア、世界の平和に大きく貢献することを信じて疑わない。1978年は日中友好の歴史の中で史上不滅の輝かしい年として記念されることになろう。世界史上、日中関係史上、重大な歩みを記した年に、四つの近代化の先駆的使命を持つ宝山製鉄の建設に参加、喜びを共にできることは光栄であり、またとない。規模の壮大さ、技術水準の高さ、建設速度で世界の製鉄所建設史上、前例のないものである。未曾有の建設なので、困難もあろう。四つの近代化に対する燃えるがごとき情熱で双方が協力するなら、いかなる困難も乗り越えられよう。中国側の協力の下に重要任務を成功させることを約束する。工場建設にとどまらず、操業技術、生産管理技術に至るまで、日中新時代にふさわしい心の通う協力を惜しまない決意だ」


それこそ燃えるような稲山さんの情熱あふれるあいさつだった。こうして日中双方はこの時期、相互依存関係の構築に力を注いだ。宝山製鉄所については建設途上から中国国内で様々な異論も出たのだが、いまや世界有数の製鉄所に発展しているのを見るたびに、聞くたびに、稲山さんのあいさつがよみがえってくるのである。


日本の中国との関係は、改革開放への大転換で一層緊密化した。緊密化すればするほど、今度は摩擦も生じやすくなる。尖閣問題も当時日中双方の神経を苛立たせる問題として登場している。1979年初夏のころ日本側閣僚から尖閣諸島にヘリポートを建設するとか、調査船を出すなどの発言が続いた。折しも佐藤正二駐中国大使が離任する直前のことである。佐藤さんは重厚で寡黙、存在感のある大物大使だった。「『身は事の外にありて』というが、身を現実の中に置く以外になかった(洪自誠著<菜根譚>の一節に、身は事の外にありて宜しく利害の情をつくすべし、とある)。中国人はウソを言わない」と中国勤務を振り返った。尖閣問題では「あまり(日本側が)やると怒るかもしれない。いまのところ中国からは何も言ってきていない。日本がヘリポートを作ったら、中国としてはこれを認めたということにはならない」という見解だった。この種の事件がいったん起きると、出先の大使館は大変である。神経がぴりぴりとした雰囲気に包まれ、極度の緊張を強いられる。佐藤さんのコメントから四日後に中国側の公式の反応が表れた。外交部の陳平アジア局長が5月29日、日本大使館の伴正一公使を呼び、日本側閣僚などの発言は法的価値を有するものとは認めないとしたうえで、大局的視野からの配慮を口頭で要望した。この後の伴公使の会見での発言はなかなか意味深長である。


「この問題はあげつらえばあげつらうほど日中間に害があるので慎重を期したかった。私の印象では、中国側はここで事柄を大きくしようということではなく、日中両国の大事な時だから、つまらぬことで友好関係を阻害することのないように、というアピールだ。陳平アジア局長の遺憾の意表明に対しては、理屈に入らぬよう対処した。日本の立場は言ったけれど論議に入らないようにした。中国側が口頭で言ってきたのは、返答を求めるものではない。言い方は、どぎつくない。中国側は日本側の行動の頻度から黙っているのは無理で、こんなことで事を荒立てないようにしよう、と断っている。この問題はニュースバリューが高まれば高まるほどよくない」


領土問題が存在するという前提の下で、日中双方の外交当局が偏狭なナショナリズムを刺激せず、極力事を荒立てないよう何とか穏便に済ませようと、並々ならぬ努力を重ねたことがうかがえる。この後8月29日に余秋里副首相が日本の論説委員訪中団と会見した際「尖閣諸島について私はまだ深く研究したことはない。両国の協力の下に可能な条件で話し合って共同開発、調整するのは、できない相談ではない」と一歩距離を置いた見解を述べている。


この問題では引き続き1980年8月、中国外交部高官がこう発言している。「1970年代初め、中国は中国領、日本は日本領と主張、激しく論争した。当時は国交回復の前夜、正常化される前夜だった。周恩来総理が田中角栄首相との会談で釣魚島(尖閣諸島の中国名)の領土権問題はまず脇に置こう、これは小さな問題だ、と言った。小さいながら解決の難しい問題だ。鄧小平副総理は、次の世代は賢いに決まっているが、私たちの世代が賢くなれないだろうか共同開発しようではないか、と提案した。いったん(この提案を)実行に移す時多くの問題にかかわってくる。単純な油田開発の問題ではない」。領土権問題で日中双方に棚上げの暗黙の了解があったのは間違いあるまい。また中国側がこの問題の難しさを初めから十分理解していたことも、はっきりしている。何らかの妥協の道を探るのが日中双方の利益につながるはずだ。


また時計の針を1979年に戻そう。近代化を実現しようとすると、中国にとって頼りになるのは日米欧を除いて他にはない。日米欧としても開放された中国は魅力いっぱいの巨大市場だ。この中国市場レースで日本は当初トップを走り、1979年半ばには日中間の経済的補完関係が双方にはっきり認識されてきた。同時に欧米諸国の経済界が日本を激しく追い上げ始め、中国市場レースが熾烈化するようになった。そこで日本がさらにダッシュするきっかけを作ったのが大平正芳首相の1979年12月5-9日の中国公式訪問だ。この時日本は先進国の中で初めて中国に政府借款の供与を約束したのだ。中国ブームの時代を迎えたとはいえ、日本の経済界には「中国はまだ分からない国だ」「中国には一体契約概念があるのか」「中国政府はまた変わってしまうかもしれない」といった疑念が残っていた。政府借款の供与は政府が直接乗り出すことによって、こうした疑念を振り払い、経済界の対中進出意欲を一層盛り上げる効果があったのは確かである。これは1980年代にかけて日中経済関係がさらに「平等互恵、有無相通ずる関係」に発展する布石となった。


大平訪中は日中新時代を象徴していた。華国鋒首相との首脳会談はもちろん派手に報道されたが、実質的なハイライトは、訪中した日本の首相として初めての北京政協礼堂における「新世紀をめざす日中関係―深さと広がりを求めてー」と題した中国国民向けの講演(12月7日)だった。この講演の内容は大平さんが精魂込めて練り上げたものだ。大平さんは、ものの考え方、人間の生き方、物事への対処の仕方に日本人と中国人の間には大きな違いがあるのをしっかり認識しておく必要がある、と相互理解を深めるうえでの重要なポイントを指摘した。このことを忘れ、一時的なムードや情緒的な親近感、経済的利害だけで日中関係を築き上げようとすれば砂上の楼閣に終わると警告し、次のようにアピールした。


「二十一世紀に向かうこれからの時代にも数々の荒波が襲うだろう。日中間でもその荒波の中で両国が時に意見を異にし、利害関係を異にする局面も出てくるかもしれない。しかし両国が二千年来の友好往来と文化交流の歴史を振り返り、今日われわれが抱いている相互の信頼の心を失わずに努力し続けるなら、われわれの子孫は永きにわたる両国の平和友好関係を世界に誇ることになるだろう」


いわば“大平ドクトリン”である。この日夜、一年四カ月ぶりに再会した大平さん自身の解説を拝聴した。


「日中間では何から何まで永劫にわたって意見が一致することはあり得ない。いろいろな問題が出てくるだろう。『喧嘩することもあろう、意見が食い違うこともあろう』という点でも互いに同意した。それを乗り越えていこうという気持ちだ。よそ行きの美辞麗句を並べただけではない。中国べったりの行き方はしない。日本の立場でソ連ともやらなければならない。日本のベトナムに対する援助にしても、中国側は正しいとは認めないが、だからといって怪しからんと言うのではなく、余裕、幅が出てきている。中国外交の成熟を示す面ではないか。いままでの方式で押し通そうとするとうまくいかない。現実を直視せざるを得ない。同じことが日本でも言える。日本がある時期ある状況の下で反中国に突っ走るという極端な状況を想定しても、それでも驚かない。長期的戦略として日本は結局は中国と一緒でなければやっていけない。結局一時ぐらついても、いくら動揺しても、一番頼りになるのは中国だ」


二十一世紀に入り、日中両国関係は政治的にぎくしゃくすることはあっても、経済の相互依存関係は深まる一方である。政治的激動に妨げられない限り、この関係は一層発展するに違いない。大平さんの卓抜した識見と国際的センスには、ただ脱帽するのみだ。“大平ドクトリン”は日中関係史上、極めて重要な意義を持つものとして位置づけられるべきである。日中首脳会談を終え、12月8日北京空港から西安に向かう特別機のタラップの下で私は大平さんと固い握手を交わした。大役を果たした大平さんの顔に浮かんでいたのは、明鏡止水である。不思議に互いに一言も発しないまま心が通じ合うのを覚えた。これが大平さんとの最後の別れ(大平首相は翌年の1980年6月12日死去)になった。


鄧小平副首相は1980年9月4日、訪中した伊東正義外相と会見した際、冒頭で大平さんの徳をしのび「大平先生が亡くなられて一人の良き友を失い、私個人にとっても良き友人を失い、中国は痛惜の念を持っている。大平先生が亡くなられても中国人民は依然彼の名前を忘れない」と深い哀悼の意を示した。北京在任中、日本大使館の加藤吉弥公使の紹介で中国を訪問中のドナルド・キーンさんと夕食を共にしながら懇談する機会があった。キーンさんは相互理解について自著の中で「真の理解を可能にしようと思ったら、単に相手のことを知るだけでは不十分で、相手に対する深い関心もしくは愛情が不可欠である」(「少し耳の痛くなる話」より)と述べている。国際的なジャーナリストだった松本重治さんが訪中した際もその謦咳に接することができた。松本さんの中国観は「この大事な隣人と付き合うには、不幸な歴史を忘れないこと、気持を大きく温かくもつこと、そして親日的な中国人をふやそうとの長期的対策を持つこと、この三つが大切だと思う」というものだ。さらに「外国の言葉、文化、生活を愛情を持って理解し、そのうえで自分のこと、日本のことを考えてみなさい」(いずれも「国際日本の将来を考えて」より)と次の世代への期待を示している。この二人の傑出した相互理解の精神は、大平さんにも共通していた。

(元共同通信記者 2013年9月記)

前へ 2024年03月 次へ
25
26
27
28
29
2
3
4
5
9
10
11
12
16
17
20
23
24
30
31
1
2
3
4
5
6
ページのTOPへ