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ベトナムと私--女性ジャーナリスト、ウェブ・ケイトさんの場合(田中 信義)2013年7月

シリアの戦場取材中、銃弾を浴び死亡した女性ジャーナリスト・山本美香さんの取材活動をたたえ、山本美香賞なるものが創設された。それで思い出したことがある。ニュージランド出身の女性ジャーナリスト、ウェブ・ケイトさんのことだ。


彼女はベトナム戦争さなかの1967年、初めてレミングトンタイプライター片手に南ベトナムに入った、女性ジャーナリスト第1号だった。


彼女は、初めはフリーランサーでUPIにニュースを送っていた。やがてUPIプノンペン支局長となる。私がサイゴンに駐在していた70-71年にはプノンペンにいた。時々、プノンペンのプレスセンターやホテルで彼女の姿を見た。彼女は颯爽としていた。


ケイトさんは1971年4月8日、プノンペン郊外で取材中、北ベトナム軍に捕まった。彼女の他5人のジャーナリストが捕まった。そのなかに、日本電波ニュースの鈴木利一記者が含まれていた。


彼女たちの行方不明のニュースは大騒ぎになった。中にはジャングルで殺された、遺体が見つかったなどの噂が広がった。ニューヨークタイムズは死亡記事に加えて弔文まで掲載した。


ベトナム戦争を取材した9人の女性ジャーナリストの書いた本がある。『War torn』。この中で、ケイトさんは北ベトナム軍に逮捕された模様を書いている。


―――4月7日、シアヌークビルに通じる国道4号線の戦闘を取材中だった 。防弾チョッキもなければヘルメットもなかった。隠れていた道路わきの溝からジャングルの中をさまよった。横を北ベトナム軍兵士が通った。話し声がした。息をひそめた。のどが渇く。カンボジア軍の砲弾がさく裂した。


翌朝、いきなり兵士2人が現れた。ライフル銃を構えていた。両手を挙げた。私たちはクメール語で「Kasset」,ベトナム語で「Nhat bao」と叫んだ。「プレス」の意味だ。


兵士は身に着けているものをすべて脱げと命じた。カメラ靴、ノート、メガネ、双眼鏡などがとりはずされた。


水を飲みたいと懇願した。兵士が茶碗に水を入れて持ってきた。一口飲んで次に回した。一巡すると、茶碗はからっぽになった。


夕方出発し、朝まで歩く夜間行軍が始まった。ワイヤーでつながれた腕にワイヤーが食い込んだ。


尋問が始まった。名前、年齢、国籍など、とめどなく聞かれた。めまいがした。10回目だった。鈴木利一記者が私の足が化膿しかかっているのを手当てしてくれた。


逮捕されてから23日たち、わたしたちは奇妙な形で解放された。兵士が耳元で突然「さようなら」とささやき、ジャングルの中に消えていった。私たちは道路わきにたっていた。まわりには誰もいなかった。私はテレビのライトを浴びた。そして、私たちが殺され遺体が発見され遺族が葬儀まで行っていたことを知った。――――


ケイトさんはその後、インドのラジブ・ガンジー首相暗殺事件や東チモール紛争、フィリピンのマルコス大統領追放劇、湾岸戦争、ソビエトのアフガニスタン侵攻、香港の中国返還など、数多くの大事件を取材して、女性ジャーナリストとしてその名をジャーナリスムの世界にはせた。


ケイトさんは1985年からAFPに移り、2001年退職した。


AFPはケイトさんはもっとも勇敢な優秀な女性ジャーナリストだと称え、後輩のためにウェブケイト賞を創設した。


退職後、ケイトさんはシドニー近郊のハンターリバーに住んでいたが、2007年5月大腸がんで亡くなった。64歳だった。


ケイトさんは退職後も、アフガンの難民家族を引き取ったり、孤児を大学に入れたり、社会貢献を行っていた。


ケイトさんたちが北ベトナム軍になぜ逮捕されたかは不明だ。しかし、当時のカンボジア取材はすべて自己責任で紛争地域の取材を行うのは当たり前だった。


私もこのころ国道4号線ピクニル峠作戦を取材していた。いつの間にか、カンボジア政府軍の小隊の先頭に立って、政府軍に向かってカメラを回していた。いきなり背後から射撃された。夢中で道端に転げおちた。


助手にカメラを渡し、それに向かってレポートした。間一髪だった。すべてが自己責任だった。


(2013年7月7日記 元NHK記者)

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