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私とベトナム⑥  シハヌークの笑顔(田中 信義)2012年10月

カンボジアのシハヌーク元国王が10月15日北京で亡くなった。享年89。ニュースで知った。いささか驚いた。このところすっかりニュースに登場しなかったので、もうとっくに亡くなったとばかり思っていたからだ。


舞台は50年前にさかのぼる。


シハヌーク殿下(あえて殿下という)を最初に直接に取材したのは1962年10月。私はNHK海外取材番組「胎動するアジア」の取材班の一員として、アジアを駆けめぐっていた。

カンボジアに入ったのは10月半ば。当時のカンボジアは、王室を中心にして社会主義と中立主義を標榜しながら国造りを進めていた。カンボジアはまさに東西両陣営の対立する世界情勢の谷間にあって、いかに独立を維持するか躍起になっていた。王室中心主義と中立主義という一見矛盾した政策も苦肉の策だった。


シハヌーク殿下は張り切っていた。陣頭指揮をとるシハヌーク殿下は39歳。全国をヘリコプターで駆けまわり国民との直接対話に懸命だった。


ある農村にシハヌーク殿下がヘリで訪れた。私たちの取材班も別のヘリで追いかけた。広場に老若男女が群れをなして出迎えていた。着地すると、どっと押しかけヘリを囲む。殿下は一人一人に両手で包むように握手をする。年寄りは感激で涙を浮かべていた。シハヌーク殿下は笑顔を忘れない。農民に用意した反物を手渡ししていた。


やがて殿下はシャベルを手に土を掘り起こす。心憎いまでのパフォーマンスだ。殿下は逆にカメラ(フィルモ)をもって、農民の姿を撮影していた。彼の趣味は映画づくりだという。演説会場がつくられていた。壇上に立った殿下の演説は次第に熱くなった。マイク片手にぐるぐるまわりながら、時には聴衆に語り、時には諭すように熱弁を振るった。


シハヌーク殿下は輝いて見えた。あどけない笑顔が印象的だった。時代の寵児でもあった。


その後シハヌーク殿下の苦難の歴史が始まる。1970年のロン・ノル将軍によるクーデターで国外追放となる。ベトナム戦争のさなかにあって、彼はアメリカのカンボジア爆撃を非難したことなどからアメリカから容共主義者と見なされた。


シハヌーク殿下は北京で亡命政権を樹立、ロン・ノル政権打倒を訴える。1975年にクメール・ルージュがカンボジアを制圧。ポルポト派が殿下を国家元首に祭り上げる。民主カンプチアの登場である。しかし一切、国家元首としての権限はなく王宮に閉じこもったままだった。


翌年1976年に国家元首を辞任。78年にはポルポト派の大虐殺が始まる。79年、ベトナムがカンボジア侵攻を試み、プノンペンに迫る。シハヌーク殿下は家族と共に国外に逃れる。2004年にカンボジア国王を退位、以後はガン治療に専念した。


事ほど左様に、めまぐるしい波乱に満ちた一生だった。いわばシハヌーク殿下は東西冷戦、東西対立の落とし子だったともいえる。それにしても、当時のシハヌーク殿下の無邪気な笑顔は忘れられない。


(2012年10月20日記 元NHK記者)

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