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続・ロッキード事件余話(村上 吉男)2012年3月

2012年の年明けの1月19日。朝日新聞の朝刊経済面で、「丸紅、42億円で和解」という見出しが目にとまった。記事の内容は、ナイジェリアでの液化天然ガス(LNG)プラントの建設工事をめぐって、丸紅がナイジェリア政府関係者にワイロを贈った疑いがあるとして調べていた米司法省が丸紅との間で和解に合意し、丸紅が米政府側に5,460万ドル(約42億円)を支払うことによって起訴猶予されたというものであった。


米司法省がこのケースで援用したのがThe Foreign Corrupt Practices Act of 1977(1977年の米海外腐敗行為防止法)である。略称FCPAとして知られ、1976年2月に米議会の公聴会で暴き出されたロッキード事件が引き金となって急きょ翌年に成立した連邦法である。


それにしても、また丸紅である。ロッキード事件の時も、ロ社にワイロを求めたのは当時のロ社の日本代理店の丸紅だった。田中角栄元首相(故人)や元国際興業社主の小佐野賢治氏(同)に渡ったとされる各5億円をはじめ、自民党の政治家(当時)や、大物右翼のロ社秘密代理人、児玉誉士夫氏(故人)などがロ社から受け取った不正な支払いの総額は、当時の為替レートで、合わせて30億円近くに達した。丸紅は今回、海外不正支払いを行った側として、米当局から目を付けられたのである。毎年、各国の企業がやり玉に挙げられている中で、調査対象にされるようなことに気付かなかったのだろうか。


実際、米司法省はFCPA法違反の疑いで毎年、200件を超える調査を行っているといわれる。ロ事件がきっかけとなって成立したこのFCPAは、米国からの海外不正支払いを防止するため極めて厳しく適用される。日本から米国以外の第三国への不正支払いであっても、その相談が米国内で行われたり、メール連絡が米国を経由したりするだけで、「犯罪の一部が米国内で行われた」と解釈され、米国が司法権を主張してくる可能性があるという。


ロ事件が米議会で明るみに出された1976年から36年も経った今も、同じようなことが繰り返されているのは驚くばかりである。


◇◆ ワシントンで夜討ち朝駆けを展開 ◆◇


そのロッキード事件については昨年、日本記者クラブ会報の「書いた話、書かなかった話」の11月号に、コーチャン元ロ社副会長(事件当時は社長)が亡くなった時のいきさつなどを書いたところ、もっと取材にからんだ話を知りたいとの声がいくつか寄せられた。どこまで明らかにできるか、以下は「余話」の続報である。


1976年2月米議会でロッキード事件が暴露された時、主要国の大報道陣が連日のように、この事件を調査している米上院のスタッフに何とか接触しようと米議会に押しかけていた。中でも日本の報道陣は東京から数十人の応援組が続々と到着。日本の集中取材方式がワシントンにまで持ち込まれ、激しい取材合戦が繰り広げられた。議会の関係スタッフや司法省、米証券取引委員会(SEC)などの関係者の自宅電話番号や住所を片っ端から調べ上げ、自宅に電話したり、スタッフの帰宅後に自宅に押しかけたり、いわゆる夜討ち朝駆け戦法を展開したのである。


これには米側もびっくり仰天。急きょ自宅電話番号を変えたため、この手は直ぐに使えなくなった。新しい番号はすべて非通知だったからだ。1970年代にアメリカではすでに電話番号の変更などは簡単にできるほど進んでいたことも、当時の日本記者団にとっては驚きだった。


自宅強襲方式は、さらに厳しく規制された。夜間、記者が車で住宅街にある米議会スタッフなどの自宅付近をうろついたり、彼らの帰宅を待ち構えたりするだけで、直ちに家人に911番(日本の110番)され、パトカーに追い払われる。夜討ち作戦もあっという間に封じられた。


そんな中にあって、ダメもとでいい、議会スタッフを直接招待してみようと試みた第2の作戦がズバリ的中したのには、われわれの方がびっくり仰天だった。


◇◆ 中央突破作戦:夫人同伴の夕食パーティー ◆◇


ロッキード事件を調査中の上院・多国籍企業小委員会の主だったスタッフ3人を夫人連れで松山幸雄・朝日新聞アメリカ総局長の自宅に招待し、こちら側も夫妻で参加して、仕事抜きの夕食パーティーをはたらきかけてみてはどうか。まさに、中央突破作戦である。取材が目的ではなかった。それだと、夫人連れでも招待を受けてはくれないだろうと思っていた。ただ、この事件が日本では大変な騒ぎになっているので、日本のことを知ってもらい、ワシントンで一大報道態勢を敷いた日本メディアのことを説明したいというのが、われわれの目的だった。


「事件についてはいっさい話題にしない。日本のことを知ってもらいたい」との趣旨を強調、約束し、招待状を送ったところ、ほどなくして「喜んでお受けします」との返書が届いたのである。驚きの中で、大張り切りで開いたパーティーは大成功だった。松山夫人をはじめ、女性陣が用意した日本色豊かなご馳走が功を奏したようだ。スタッフの2人は日本に行ったことがなく、大いに参考になったと喜んでくれた。夫人らが参加したため、女性の角度からもいろいろ話題が広がって、それが彼らの家族ぐるみの理解を深めたようだった。


夕食会で、こちら側は事件については、いっさい質問も要望もしなかった。また日本のメディアについて客観的に説明し、自社の売り込みなどしなかったことも、彼らの評価につながったのかもしれない。招待状は郵便で届けたため、電話線も使わないし、自宅を訪れる必要もなかった。それ以降、ロッキード取材では郵便にお世話になったことが幾度かあったように思う。


会報に書いた、筆者とコーチャン元ロッキード社副会長との夜毎の電話連絡という、第1の中央突破作戦は、この時点ですでに進行中だった。連日行われていたアメリカ総局での打ち合わせ会で、夕食パーティに続く第3の中央突破作戦を試みることが決まった。それは、多国籍企業小委員会の委員長、フランク・チャーチ上院議員(民主党)に直接取材を試みることだった。


ロッキード事件発生の1976年は米大統領選挙の年だった。そもそも上院多国籍企業小委員会がロ事件を取り上げた背景には、同小委のチャーチ委員長の大統領選への出馬計画と無縁ではないと見る政界通は少なくなかった。70年代に入ってチャーチ議員は、ベトナム戦争反対、CIAの海外不正活動の調査などで、リベラル派の若手上院議員として台頭してきた。選挙の年に、米大手多国籍企業、ロッキード社の海外不正支払いを暴くことによって脚光を浴び、全米の有権者に注目されることは、知名度を上げるうえで有利だと判断したに違いないというわけだ。


大統領選挙では、全米の多くの州で予備選挙があり、チャーチ議員は出身州のアイダホ州で正式の立候補表明をするため、チャーター機で同州に向かうことになった。この年の大統領選挙では民主党の候補としては、ジョージア州のジミー・カーター知事(結局、11月の大統領選で当選)が早くから有力視され、チャーチ議員は初めから苦戦が予想されていた。わがアメリカ総局も、チャーチ議員にチャンスはほぼ無いと見ていた。が、ロ事件の仕切り役であることから、そちら睨みでチャーター機への同乗を申し込んだ。


機内はほとんど、大統領選をカバーしている米人記者ばかりだった。空港からバス2台に分乗して高地のてっぺんにあるアイダホ・シティに着いてびっくりした。市とは名ばかりで、村みたいな町で、この時の人口は300人足らず。でも、1860年代にはゴールド・ラッシュに沸き、アイダホの名を広く知らしめたのがこの付近。チャーチ議員としては、この由緒ある町で、立候補の第一声を上げたかったようだ。標高千メートル余り、肌寒く、昼食に名産品のじゃがいも、アイダホ・ポテトが山のように出された。


記者団とテレビカメラの前で立候補声明を読み上げたチャーチ議員は、質疑応答のあと、近隣から馳せ参じた何百人もの支持者のグループの中に入り、次々と話し合っていた。一瞬、人の輪が途切れた時、近づいてロ事件のことを尋ねた。この日の話題が選挙一色の中にあって、ロ事件のことを聞く記者が居ることに、びっくりしたようだった。でも直ぐに、いつもの生真面目なチャーチ議員に戻り、海外不正支払い、つまり贈収賄が成立するのかしないのかを判断するのは、日米それぞれの司法当局の仕事だ、チャーチ委員会は不正支払いの実態を明らかにし、今後、そのようなことが再発しないための立法措置を考えることだと、明快な回答が返ってきた。


そこでさらに尋ねた。「収賄側に日本の政治家の名前が浮上してるんでしょう?」と、名前の部分を複数形で問うと、「無ければ不正支払いの効果も無いのでは?」と逆に質問しながら、次の人たちの輪の中に入って行った。何人かの日本の政治家の名前を把握していることは、もはや疑いの余地がないと確信した。東京には、チャーチ議員の大統領選立候補のことだけ、短い記事で送稿した。ワシントンへの帰りの機内でまた、同議員と話す機会があった。


◇◆ 幻となった「ロッキード売込み作戦―東京の70日間」英語版 ◇◆


76年8月にロサンゼルスでコーチャン会見が実現したことは、記者クラブ会報(2011年11月号)で書いた。8日間、60時間を超えるインタビューを記事にすることは大変だった。自分しか読めない取材メモの英語がびっしり。これをホテルの部屋のフロアいっぱいに並べ、番号やメモの位置で分類し、中身を組み立て、原稿用紙に書きなぐっていった。コーチャン側弁護士との折衝のため、ワシントンから同行してくれていた松山総局長が、東京と繋ぎっ放しの電話で、この原稿を大声で吹き込んでくれた。当時では、これが最速の送稿方法だったのである。一面本記、2~3面の見開き記事、それに総局長本人の解説記事など、松山総局長の声が次第にかすれていったのを覚えている。


この60時間に及んだ英語によるインタビューを10月末までに、コーチャン氏の著書として日本語で出版する作業が待っていた。総局員の協力によって、ワシントン特派員としての日常業務からはずしてもらい、2か月足らずで350ページの本を書き終えた。この本には、しかし、完全英訳が求められた。「ロッキード売込み作戦―東京の70日間」(朝日新聞社、1976年)の著者はコーチャン氏であるから、日本語で書かれた内容は、本人が詳細に確認する必要があったからだ。そのとき翻訳したA4タイプ用紙で254ページに及ぶ“英語版”は、いまに至るまで出版されることなく、私の手元にある。コーチャン氏は英語版の一部を「ニューヨーカー」という米国の雑誌に掲載を許したようだが、本として出版されることはなかった。米国の出版社は、田中元首相の逮捕で決着のついた日本よりも、イタリア、オランダ、西独(当時)などNATO諸国や中東など、もっと生臭い地域でのロッキード売り込み作戦の本を出せと求めたと聞いた。


ところで、ロッキード事件で、日本の検察当局はコーチャン氏らの証言を求めるため、検事総長が不起訴を宣言するなどして、日本の法律にはなかった「刑事免責」が実現。これによって、東京地裁の嘱託を受けたロサンゼルス連邦地裁による嘱託尋問でコーチャン氏が証言したいきさつがある。筆者は彼に、日本での刑事免責も実現したことだし、好きだった日本を訪れたらどうか、と何回か持ちかけてみたが、彼は決して応じようとしなかった。問い詰めると、弁護士が、訪日すると刑事訴追される恐れがあるとして、許さなかったようだ。コーチャン氏自身、世界各国で航空機の売り込みをしてきた経験から、国家の主権ほど強いものはないと、確信していた。「免責」と言われても、日本に到着した途端に官憲につかまる可能性はゼロではないし、つかまってしまえば、ロ社はおろか、米国政府でさえ如何ともし難いことを十分承知していたからだ。


実際、嘱託尋問から20年近く経った95年、田中元首相の最高裁判決で、76年に検察当局がコーチャン氏に与えた「刑事免責」のもとでの証言は、日本では証拠として採用することはできないと最高裁が結論づけた。「やっぱり」と、コーチャン氏と弁護士は受け止めたようだ。証拠としての採用が認められなかっただけで、コーチャン氏の免責自体が違法とされたわけではないが、国家主権の強さ、国家は何でもできる、という彼の信念がはっきりと裏付けられたと、あらためて確信したようだった。


コーチャン氏の“主権最強論”を証明するかのような出来事は、現実にその後に日米間で起こっている。それは、コーチャン氏が亡くなる10か月前、2008年2月22日のことだった。日本では“ロス銃撃事件”として騒がれ、81年ロサンゼルスで妻の一美さんを殺害した容疑で殺人罪などに問われながら、その後、日本の最高裁で無罪が確定した三浦和義氏(当時60歳)が、米自治領のサイパン島を旅行して帰国直前に、サイパン空港で米当局に突然逮捕されたのである。ロサンゼルス市警の殺人容疑による逮捕状に基づき拘置されたのだ。米国では殺人事件に時効はなく、新たな証拠に基づく裁判のため、2か月後にロス市警に護送された三浦氏は同市警の拘置所で自殺した。日本の最高裁が無罪判決した人物でも、米官憲は同じ殺人事件の容疑者として米領土内で逮捕したのである。当時、コーチャン氏は腰痛や足の骨折などで入退院を繰り返していて、筆者とのメールでも、この件については何もコメントしなかった。しかし、彼が日本を再訪しなくてよかった、と納得しただろうことは確かだと思う。


◇◆ 外国メディアの関心は軍用機支払い疑惑にも ◆◇


ロッキード事件は、日本ではロ社の大型旅客機、トライスターL1011の売り込みで、日本の政界などへ流れた巨額の資金をめぐる戦後最大の疑獄事件として知られている。しかし、西欧諸国、中東やアジアの諸国では、ロ社の軍用機をめぐる不正支払いが関心の的だった。ロ社はもともと軍用機を主体とする航空機メーカーである。そのため、イタリア、オランダ、西独(当時)などの記者は、筆者がコーチャン会見を行ったと知ると、自分たちの国への軍用機売り込みについて何か話していなかったかと執拗に尋ねてきた。日本で大騒ぎとなったトライスター機は、ロ社としては久しぶりに製造した旅客機だったのだ。


日本でも、トライスター機よりずっと前から、ロ社のC-130 輸送機やF-104戦闘機、P-3C対潜哨戒機などの軍用機が自衛隊に採用されている。日本への軍用機売り込みについても当然、コーチャン氏に質した。オフレコの条件付きではどうか、とも迫ってみたが、あまり話さなかった。1)軍用機については、米国防政策にかかわることなので話すべきでないと考える、2)そもそも自分は直接かかわっていないので、詳しく知らない、3)米議会で大型旅客機の対日売り込みをめぐる自分の発言が日本で問題を起こしているので、ロ社側の立場を明確にしておきたい――などが、その理由だった。その時点で追及は難しいと判断した。正直言って、それどころではなかった。日本の最高権力と政財界を巻き込んだ大型国際疑獄事件の解明で手いっぱいだった。


旅客機や軍用機に限らないだろう。グローバル時代の多国籍企業は自社製品の売り込みには、海外不正支払いも辞さないようだし、それ無くしては、売り込みレースに参加さえ難しいのが現状なのかもしれない。そのために、表面には全く現れない秘密代理人などが各国で必要となるのだろう。コーチャン氏も取材の合間にオフレコで他国のケースについては、驚くような話をしていた。冒頭で記したように、米国ではロ事件後に「海外腐敗行為防止法(FCPA)」が成立した。にもかかわらず、毎年200件を超える疑惑のケースがあり、調査が行われるという。海外不正支払い行為を見逃さないためにも、メディアの役割はいっそう重要となろう。


(元朝日新聞アメリカ総局長 2012年2月記)


(関連記事)

日本記者クラブ会報501号(2011年11月10日号)16ページ 「書いた話・書かなかった話 ロッキード事件余話 私とアーチボルド・C・コーチャンのこと」


会員ジャーナル「書いた話・書かなかった話 ロッキード事件余話 私とアーチボルド・C・コーチャンのこと」

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