ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


私の取材余話 の記事一覧に戻る

独裁者、その最後の時 パート3  フィデル・カストロ議長のキス(千野 境子)2012年2月

チュニジアの独裁者ベンアリ大統領を追放したジャスミン革命に触発されて、独裁者と呼ばれた指導者への単独会見を回顧する「独裁者、その最後の時」を書き始めた。とはいえ2011年に世界から独裁者たちがあれほど次々と姿を消して行くとは、想像をはるかに越えるものだった。


逃避行中に拘束されたリビアのカダフィ大佐は混乱の中で惨殺され、暮れには北朝鮮の金正日総書記の死亡も突然、もたらされた。こちらは病死ではあるようだ。また2012年初め、自らの公判にベッドに横たわったまま出廷したエジプトのムバラク前大統領は、死刑を求刑された。その姿に往時の権勢はつゆほどもなく、サングラスの奥の表情はまったく伺えなかった。


一連の出来事は冷戦終結への序曲となった東欧諸国崩壊のドラマを連想させ、歴史が内包するモメンタム(弾み)の力を感じずにはいられない。


独裁者といえどもどうにもならぬもの、それはモメンタムかもしれない。あの時も東独のホーネッカーやルーマニアのチャウシェスクなど、社会主義政権で権勢を謳歌した指導者たちがドミノ倒しのように失脚し、葬り去られたのだった。


その意味では、いま私たちは再び大変革期に直面しているのかもしれない。

冷戦時代からいまも残る独裁者は、もはやキューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長くらいになってしまった。議長の座こそ2008年に弟ラウルに譲ったものの、キューバの“顔”は依然としてカストロ前議長である。

独裁者取材シリーズのパート3はカストロを取り上げたい。


◇単独会見は空振りに終わる◇


1989年11月末、私は初めてキューバの土を踏んだ。ニカラグアの首都マナグア発の飛行便が首都ハバナに到着したのは夕刻を過ぎていたと思う。


どこの国でも国際空港には国柄が凝縮されているものだ。入国手続きから荷物受け取りカウンターまで「まるでソ連みたい」というのがキューバの第一印象だった。そして事実、ソ連の影はその後、行く先々、至るところで感じられた。


マナグア経由になったのは、第一回で書いたように今回の取材が中南米の三人の指導者への単独会見が目的だったからだ。最初から空振りでは士気も阻喪するので、取材の順序は実現性の高い順にした。そしてパナマのノリエガ将軍を皮切りに、ニカラグアのダニエル・オルテガ大統領にも何とか会え、残るはカストロ議長(当時)というわけだった。


日本で取材の準備をしているときに抱いた、現地へ行けば何とかなるのでは…という一縷の期待は、到着するや甘かったことがすぐ分かった。しかも誰もがカストロ議長の単独会見は難しいと考え、それを疑いもしていなかったのが不思議といえば不思議だった。


例えば当時のK日本大使は取材の狙いを聞くや、「私だって単独で会うのはまだですからね、無理ですよ」とにべもなかった。そしてあとはハバナ駐在がいかに大変か、またカストロ議長と会うために自分はいかに想をめぐらし頑張っているかなど、自慢も入り交じっての体験談に終始した。


私はといえばもっぱら聞き役で、けれど内心では初対面の記者に外交官がこんなに開け広げでよいのかしらと思っていた。


初めてのキューバは、単独会見の可能性がほとんどゼロに近いほど閉ざされていた点を別にすれば、何もかもが新鮮でエキサイティングだった。取材も完全には自由でなかったものの、大方の要望は受け入れてもらえた。人々の明るさや人懐こさ、それに美しい海に白砂、カラリと晴れ渡った自然も気に入った。


またもっとも印象に残ったのは、町の至るところにチェ・ゲバラのあのベレー帽姿のお馴染みの写真やポスター、看板などが見られたことだった。ゲバラがボリビアの山中で亡くなって当時ですでに20年以上が経っているというのに、まるでまだ生きているかのような扱いに感じられた。ところがカストロの方は、銅像はもとよりポスターにも看板にもお目にかからない。


カストロは革命を共に戦った盟友チェ・ゲバラの生と死をどのように思っているのだろうか。革命の労苦は生きていればことそと思って日々、戦っているのか、先に逝ったチェをうらやましいなんて思ったりすることもあるのだろうか、何ともミーハー的なことを思ったりもしながら、以来、二人の関係についてはずっと気になりながら、確たる答えは見つからないまま今に至っている。


少し横道に入るが、何しろ私の世代は好悪を越えてチェ・ゲバラ世代と言ってもよい。大学のクラスメートにはサトウキビ刈りにキューバへ出かけた人や、ゲリラ戦で消息を絶ったゲバラを探すと言って大学に来なくなってしまった人もいた。そしてゲバラの死から早半世紀近い今日、ジャスミン革命でも、その後の「アラブの春」でも、いや昨今の格差反対デモにも、あのベレー帽のチェのポスターが目立つ。そう、年末訪れたミャンマーの国民民主連盟(NLD)の事務所でも見かけた。チェとは一体何者なのだろう。


ハバナ滞在中、カストロ会見の朗報を待ちながらも、こんな風に日々、さまざまな取材をこなし、幸い退屈することはなかった。


もっともある日、同行の後輩女性写真記者から「千野さん、カストロ会見は諦めちゃったんですか。パナマやニカラグアの時のような執念がないみたいです」と言われたときには、一瞬ドキリとした。ある意味で図星だったからである。例えカストロが空振りに終わっても、三人の目標に二人は成功したのだから、野球ならば三割打者どころか六割強で、タイヘンなものではないかなどと勝手な理屈をつけて、自らをナットクさせようとしていた心の緩みを、後輩に見透かされてしまったなと思った。


その代わりと言ったら何だけれど、記事は随分とたくさん書いたように思う。何しろ初めての国だから、この際書いておきたいと思ったことは行く前から山ほどあった。敢えて言えば、原稿のラインナップは出張前には大方出来ていて、現地ではその確認作業をするという格好だった。思えば余裕があったのか、真面目だったのか、その後のその日暮らし的かつ綱渡り取材を思うと「初心忘れるべからず」はやっぱり大切なことだとあらためて思う。


帰国後に産経新聞夕刊一面に連載した「カリブ革命残照」は、東欧社会主義国が変革を迫られる中、なお革命を進めるキューバ社会の点描だった。

今回、スクラップを取り出し、カラー写真のカットに懐かしさを覚えつつ①モノ不足②知識と労働③外貨獲得④時の停止⑤ソ連の影-の五回連載をあらためて読むと、何とも複雑な思いにとらわれた。


その後に起きたソ連邦の消滅とか少々の齟齬に目をつぶれば、20年以上が経過したいまも、キューバ点描の連載として通用しそうに思えたからである。相変わらずモノ不足が伝えられるし、外貨獲得はますます至上命令となり、そう、キューバはまさに時の停止に見舞われているのではないか。それにもかかわらずキューバは国際社会で一定の存在感を示しつつ、生存している…。


◇約半年後、日本人記者団の一人として会見へ◇


さて、時計の針を元へ戻して、単独会見が出来なかったキューバ初取材から半年後のこと。日本人記者団によるカストロ共同会見が実現することになった。K大使のアレンジであった。


すでにニューヨーク支局に赴任していた私の元に会見の連絡が届いた時、私はK大使とこんなやりとりをしたことを思い出した。


「カストロ会見が難しいと大使がおっしゃるのは分かります。けれどそれでも会いたいし会う意味がある、そう考える日本人記者は少なくないと思います。対ソ関係はどうなるか、社会主義キューバは生き残れるのか、カストロはどうなるのかなど、私のように東京からやって来るくらいですから、中南米に駐在する特派員なら誰もがカストロの単独会見を狙っているでしょう」


すると大使は「そうですか、そんなに会いたいなら、記者さんたちをキューバに来させるにはカストロが会見すればいいわけだな。いや、よい話を聞きました」と独り言のように語り、私も「そうですよ。大使も頑張ってください」と相槌を打ったのだった。


まさか事が本当にそのように運ぶなどとは、当時はもちろん夢にも思わなかった。


1990年4月17日夕(日本時間18日朝)、日本人記者団によるカストロ会見はハバナ市郊外のキューバ国立植物園の中にある日本庭園で行われた。日本からの花と木、造園機材の贈呈式に出席したカストロ議長が式典の後で記者団と会見するという段取りで、K大使の作戦勝ちである。


日本庭園はK大使によれば「おそらく米州大陸で最大」で、私がキューバを訪れた約半月前にオープン、カストロ議長は開園式典で来賓としてテープカットをしており、お馴染みの場所でもあった。


K大使はうれしそうだった。カストロ議長はまた来てくれたし、日本記者団もやって来たといったところだろう。私が保証?した通り、全国紙はすべて顔を揃えたのではなかったかと思う。


カストロ議長も会場で日本酒を口にするなどご機嫌のようだった。おそらく息抜きも兼ねていたに違いない。レセプションと会見を終えるや、側近に急き立てられるようにして会場を後にしたのだから。


わが会見記事は産経新聞19日付朝刊一面と国際面で報じられている。


一面記事の見出しは“キューバ、改革の意思なし”“東欧情勢は静観、対ソ関係「満足」と配慮”の二本、国際面は「カストロ首相」の横見出しと縦に「奴隷より死」「国土守り抜く」“革命になお執着”“「疎遠な日本」に無念さも”の三本のほか会見要旨も掲載されている。


また一面の写真はお馴染みのグリーンの戦闘服に帽子姿、国際面には帽子を脱ぎ、日本庭園の一角にどっかりと腰を下ろしたポーズ写真が載っている。白さを増した髭や、贈呈式で何度もあくびをかみ殺す場面を目撃し、カストロも年を取ったなと当時は思ったものだが、いま写真を見れば若い。若いはずだ。時に63歳である。


中身は見出しから大方予想がつくだろう。東欧・ソ連関係が目立つのは、折しもソ連のアバルキン副首相率いる通商代表団が貿易交渉のために滞在中だったこともありそうだ。会見要旨には「(ソ連には)過去の経済、政治、文化、社会の固い関係に感謝する。アバルキン副首相らとの話し合いは友好的で理解と善意に満ちていた」とある。


いま読むと、感謝すると言いながらずいぶんと素っ気ない。ペレストロイカ(立て直し)を進めるゴルバチョフソ連共産党書記長の登場以来、両国関係が冷めつつあったというのはやっぱりその通りだったのである。


カストロ議長はその後も革命路線を基本的には捨てず、政治改革はもとより必要不可欠な経済改革も小出しで、大胆な改革は終に行われなかったといってよい。


89年4月、ゴルバチョフが初めてキューバを訪問した際、歓迎の群衆の中から女性が「ペレストロイカ・パラ・クーバ(キューバにもペレストロイカを)!」の声を上げた。カストロ議長を「フィデル」と愛しつつも、お腹を空かせた国民が政権に不満を抱いていたのは確かなことだろう。ただし、テレビはゴルバチョフの訪問を、女性の声を消して放映したのだという。


◇日本はわれわれを忘れてしまった◇


会見で米国批判には歯切れの良かったカストロ議長も、日本に対しては別のようだった。それが“「疎遠な日本」に無念さも”との見出しになった。


日本と中国への訪問の可能性について質問すると、カストロ議長は「この1年は非常に仕事がある。招待はうれしいが日程を定めての約束はできない」と答え、またその年の秋に予定された天皇陛下の即位の礼に元首として招待されたら日本を訪問するかとの問いにも「日本についてはかねがね知りたいと思っている。しかし経済困難や東欧の変化という新たな問題もあり、私が行きたいと思ってもできない」と消極的だった。会見要旨には「日本や中国は地球の三分の二を回らなければならないし、ガソリンも消費する」などともあって、意外に細かいというか台所の苦しい事情を伺わせる。


そして「以前は(日本が)砂糖の第一の購入者だった。われわれは日本を忘れないのに日本はわれわれを忘れてしまった」との台詞に「無念さ」も感じられたのだった。


一緒に会見に臨んだ読売新聞シカゴ支局長だった麻生雍一郎氏がその後に書かれた「海外回顧録」には、この間の描写がもう少し詳しい。カストロ議長の言葉を引用させて頂く。


《「かつてキューバの砂糖を一番多く買ってくれたのは日本だ。日本は我々を忘れたが、我々は忘れずに、日本との貿易に希望を持っている。建設機械、エレクトロニクス、人工授精技術など私は日本製品の崇拝者だ」。カストロ議長はこう熱っぽく語った後、「日本、ラテンアメリカ、第三世界と良好な関係を築きたい。日本はキューバに援助できると思うし、努力もしている」と持ち上げた。


そして「アメリカが日本とキューバの関係に圧力を加えているが、日本には国際的な力がある。キューバとアメリカの関係改善にも何かできるはずだ」と期待をにじませた。》


質疑応答は内政外交問題が中心で、個人のことにはほとんど言及はなかった。ただし会見要旨によれば、自らの「引退・後継問題」を次のように語っている。


「だれでも一生健康で働きたいだろう。それに引退は個人で決められない。党や人民(が決める)という事情もある。自分のやっていることは有用だ。この確信なくしては良心の呵責に苦しむことになるが、それはない。仕事は革命家の天命であり義務だ。働くのをやめたら墓場へ行くしかない」


カストロ議長は本当にこれ以外に個人的なことは語らず、記者たちも聞かなかったのだろうか。念のため当時毎日新聞のメキシコ特派員だった中井良則・日本記者クラブ専務理事に確かめると、やはりそうだったらしい。


良くも悪くもそれが合同記者会見というものなのかもしれない。個人的会話はやはり一対一の単独会見の方が聞く方は聞きやすいし、話す方も話しやすくあるだろう。


また中井氏によると、当時ハバナに集まった(集められた?)中南米担当記者たちの関心事の一つは、この会見が日本人記者のカストロ初会見であるか否かだったそうで、調べて見ると過去にカストロに会見した記者がいたことが分かり、“初”ではないので一同少しがっかりしたということもあったらしい。私には初耳のエピソードだが、要はカストロ会見は日本のメディアにはそれほど珍しかったという話である。それに共同会見と言えども、実はそう簡単ではなかったのである。



ハバナ入りしてから何日も待ちぼうけを食わせられ、実現性に段々半信半疑になる向きも出てきた。これも中井氏の回想になるが、折しもペルーでは、大統領選で泡沫と見られていた日系二世アルベルト・フジモリ候補が本命視されていたバルガス・リョサを脅かすほどに人気が急上昇し、にわかに投票が注目され始めていた。「あてもなくハバナにいてよいのか」「リマへ行くべきではないか」と中南米担当の記者は気が気ではなかったらしい。だから会見を終えたその足でリマへ飛んだ記者もいたようだ。


フジモリ候補が6月の決選投票でリョサ候補を抑えて、事実上日系初の大統領に就任したことは周知の通りだ。そしてここではこれ以上は言及しないが、いまは厳しい闘病生活を強いられていることも、外電などを通じて伝えられる。


◇もじゃもじゃヒゲは柔らかかった◇


ところでカストロ議長は、会見を終えるに当たり記者一人ひとりと握手をした際に、私だけは抱き寄せ両ほおにキスをした。


以下はわがコラム、アイ・ラブ・NY「カストロのヒゲ」から。


「わずか二メートル弱の至近距離で一時間半接したカストロ首相は、孤塁を守る勇ましい社会主義者の印象よりは、超大国アメリカを前にして必死にキューバのプライドを守ろうとするナショナリストの感が強かった。


会見の間、同意を求めるように何度もじっと見つめられ、目のやり場に困ったものだが、他社の男性記者も後で同じような感想を漏らしていたから、女性のせいかと思ったのは、こちらの思い過ごしだったようだ。


もっとも紅一点ならではの“特権”もあった。会見後、記者一人ひとり握手したのだが、カストロ首相は私にだけはグッと近づき、抱き寄せて両ほおにキスをした。


ロイター通信がその瞬間をパチリ、写真に収めたが、残念、世界には配信されなかったみたい。


あのもじゃもじゃヒゲは、思いのほかにふわふわで柔らかかった。」(1990年4月26日付)


柔らかかったのは実はヒゲだけではない。握手した手も柔らかかった。当時、そういえばノリエガの手もきゃしゃで柔らかかったなと思い出したものだ。独裁者というと勇ましいイメージが先行しがちだが、実は人の上に立って命令はするが、自ら額に汗し肉体労働をするなどということがあまりないからではないか。そう言えば金正日や毛沢東、そしてカンボジアのポル・ポトなどは握手したことのある日本人記者はいるはずだが、彼らの手はどうだったのだろうか。


それにしてもカストロはなぜかくも長く健在であり続けたのか。秘密が何かあるのだろうか。いや、カストロだけではない。社会主義国キューバも今に至るも潰れていない。


東欧そしてソ連の崩壊の後、次はキューバの番だとの見方が国際的に高まった。実際、あの頃がキューバには、もっとも苦しい時期ではなかったかと思う。その頃、何かと取材目的を作ってはニューヨークからキューバに出張した。国際面の連載のタイトルは「瀬戸際のキューバ」そして「続・瀬戸際のキューバ」だった。踏ん張るキューバに敬意?を表して、さすがに「続々」をタイトルに使うのはやめた。


パート3の最後に、カストロとキューバのサバイバルの秘密は何なのかを書いてみたい。と言ってもこんな大きな問いは専門家でもない私の任ではないから、あくまで「独断と偏見」とお断りした上で秘密もしくは理由を二点だけ指摘して締めくくりとしたい。


第一はアメリカの経済制裁である。


キューバでは政府も国民もアメリカの制裁を非難し、また苦しいのはアメリカの経済制裁のせいだともいう。確かにそうかもしれない。しかし私はこれこそが倒れそうで倒れない大きな理由ではないかと疑っている。キューバ政府の経済改革の遅れや失敗も、経済制裁がある故に、アメリカのせいに出来る、またこうした安易さが改革を遅らせる原因にもなっている。カストロもアメリカという敵がいるおかげで実は助かっているのではないかという気もする。敵がいなくなったらブーメランは自分に戻って来かねない。


その意味ではアメリカも政策を間違えている。もしアメリカが本当にキューバの独裁を終わらせたいなら、経済制裁はむしろ逆効果ではないかと思うし、冷戦終結のいま歴史的役割も終えている。


それにそもそも経済制裁(のみ)で潰れた国家があるだろうか。核開発を巡る北朝鮮への制裁、ミャンマー軍事政権への経済制裁…例は簡単に上げられる。経済制裁が必要な局面はもちろんあるだろう。けれどそれは絶対ではない。冒頭にも書いた歴史のモメンタムという大きな力が働かない限り、国家存亡の決定打にはならないような気がする。


そして第二にキューバには常にパトロンがいたということ。


最初はいうまでもなくソ連。1959年1月、バチスタ政権を打倒後、カストロは61年に社会主義路線を宣言する。米国の対キューバ断交と全面禁輸などが始まる中、カストロはすでに始まっていた冷戦体制でソ連陣営を選び、翌62年には核戦争への危機がもっとも近づいたとされるキューバ・ミサイル危機が起きたことは、あらためて書くまでもないだろう。それから延々30年、もちろん一方的に支援されるのではなく、アフリカなどで人民解放のための代理戦争も行ったけれど、基本的にはソ連頼みであり、ソ連依存だったといえる。


91年のソ連崩壊後、対岸の米フロリダ半島を目指してボートピープルが続出したことでも分かる。こうして「瀬戸際」に立たされた、苦難の90年代をカストロが何とかしのぐ中、新たなパトロンが登場する。南米の産油国ベネズエラで98年大統領選挙に大勝したウゴ・チャベス大統領だ。二人の親密ぶりは昨今の外電報道でもよく目にする。ソ連のフルシチョフやブレジネフといった革命旧世代の指導者たちには兄貴風を吹かされたであろうカストロにとって、まだ57歳のチャベスは弟どころか息子ほどの年齢だ。おまけにベネズエラにはキューバがもっとも欲しい石油がある。しかし石油はいつか枯渇するであろうし、その前にチャベスの政治生命がどうなるかはもっと分からない。


ではそのとき、新たな第三番目のパトロンは出てくるだろうか。


それよりはキューバが自ら立つ方が望ましいし、そうあってほしいものだと私は思う。キューバもパトロン頼みでない「キューバの春」よ来い、である。


(産経新聞特別記者 2012年1月記)

前へ 2019年01月 次へ
30
31
1
2
3
4
5
6
7
8
10
11
12
13
14
17
19
20
26
27
28
1
2
ページのTOPへ