ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


私の取材余話 の記事一覧に戻る

カンボジア断想3 シアヌークは叫んだ(友田 錫)2011年12月

それまで穏やかだったシアヌーク殿下の声が、突然、一オクターブ跳ねあがった。


「アメリカ・ハズ・ネバー・アンダーストッド・カンボジア!アメリカ・ハズ・ネバー・アンダーストッド・インドチャイナ!」(「アメリカは一度もカンボジアを理解したことがなかった!アメリカは一度もインドシナを理解したことはなかった!」)


第三次インドシナ戦争ともいわれたカンボジア紛争が13年近く続いて、やっと和平が成ったのが1991年10月。それから一年足らずあとのある夜、新生カンボジアの暫定的な政府、最高国民評議会(SNC)の議長をつとめていたシアヌーク殿下が、アンコールワットに近いシエムレアプ郊外の王室離宮の一室で、わたしを含む日本の研究者5人との懇談に応じた。


「新しいカンボジアはアメリカにどのような役割を期待しますか」


研究者のひとりが質問した。その途端、ずっと愛想のよい笑みを絶やさなかったシアヌーク殿下の表情が一変した。その口からほとばしり出たのが、この言葉だった。外交的な配慮からだろう、シアヌーク殿下はそれ以上はつけ加えなかった。だが、このとき殿下の胸中に、インドシナが動乱の巷となって以来、カンボジアという国、それにシアヌーク殿下その人が遭遇してきた数々の苛酷な運命の記憶が、「アメリカ」が引き金になって一挙に噴き出たのではなかったか。


◆反米ではなかったシアヌーク◆


「わたしはアメリカ人にとってより害の少ない人間であり、共産主義がインドシナを席捲する以前の段階では、インドシナの均衡を保ちうるただ一人の人間であった。そしてアメリカ人はそのことを理解できなかった」。


かつてシアヌークは最初の回想録(邦訳『北京からみたインドシナ』1972年サイマル出版会刊)の中でも、アメリカの「無理解」をこう嘆いている。1970年3月に軍部の領袖ロン・ノル将軍らのクーデターで国を追われ、北京で亡命の憂き身をかこっていたときのことだ。


シアヌーク殿下の軌跡を振り返ってみると、たしかに、はじめから反米一辺倒だったわけではない。1953年にフランスからの独立を果たしたあと、殿下(当時国王)は外国からの援助のほとんどをアメリカに頼った。たとえば、プノンペンから南西へ、シャム湾に面したリゾート兼重要港湾であるシアヌークビルまで、交通と輸送の大動脈が走っている。この幹線道路はアメリカの援助で建設されたので、「アメリカ友好道路」と呼ばれた。


しかし隣の南ベトナムがアメリカの援助にどっぷり漬かり、事実上の属国となっていくのを目の当たりにして、殿下の対米警戒心は急速に強まっていった。折りしも、国内右派の「自由クメール運動」がアメリカのCIA(中央情報局)を後ろ盾に、シアヌーク政権へのクーデターを画策したことも発覚した。


もうひとつ、シアヌーク殿下のアメリカ離れの遠因として、見落とせないことがある。第二次世界大戦後、脱植民地、いわゆる植民地解放の運動が世界を風靡したが、殿下はその先頭走者の一人だった。若き国王のシアヌークは、戦後すぐに、「独立のための王国十字軍」を組織して世界中を行脚し、ついにフランスに独立を認めさせた。このとき、アメリカでシアヌーク殿下を応援したのが、のちに駐日大使もつとめた若き民主党の上院議員、マイケル・マンスフィールドだった。殿下はその後、「マイク(マンスフィールドの愛称)との友情は終生忘れない」と、ことあるごとに語っている。


また若い頃から、インドの独立の父で非同盟、中立主義を掲げるネルー首相(当時)や、自主、独立の権化といわれたフランスのレジスタンスの英雄、ドゴール将軍に傾倒していた。1955年にインドネシアの保養地バンドンで開かれたはじめてのアジア・アフリカ首脳会議、いわゆるバンドン会議では、スカルノ、周恩来、ナセルらとならんで活躍した。


だが、殿下は決して共産主義に共感していたわけではなかった。むしろ国内政治にあっては、王制を目の仇にするポル・ポト率いる共産党を徹底的に弾圧した。アメリカはこうした事実には目を向けず、頭から殿下を「反米主義者」と決めつけたのだった。


いずれにしても、アメリカ離れの行き着くところ、殿下は1963年にアメリカの軍事、経済援助を拒否し、その2年後には、とうとう外交関係まで断絶するにいたった。アメリカとの関係悪化と並行するように、中国、ソ連、北ベトナムが殿下への接近を強め、カンボジアとこれらの国との絆が強まっていく。


時、あたかも国境の向こう側のベトナムでは、アメリカの北爆開始、海兵隊のダナン上陸にはじまる南での地上軍本格参戦によって、戦争の黒雲がにわかに猛烈な嵐に変わりつつあった。シアヌーク殿下が、一方で中立の旗を掲げ、他方で東側との関係強化に乗り出したのは、ひとえに、国境の向こう側からカンボジアを戦争に巻き込もうと迫ってくる巨大なアメリカの圧力に対抗して、バランスをとるためだったと思われる。だがその舵取りは、綱渡りにも似た危うさを秘めていた。


◆消えた「平和のオアシス」◆


いずれにしても、シアヌーク殿下の下で、カンボジアは独立から17年間、インドシナの中で唯一の「平和のオアシス」であり続けた。


1970年3月18日。ロン・ノル将軍らの起こしたシアヌーク殿下追放のクーデターは、この「平和のオアシス」を、一瞬のうちに吹き飛ばしてしまった。しかもこのクーデターは、カンボジアにとって、その後1991年まで実に21年間にもわたって続く血塗られた苦難の時代の幕開けでもあった。


まず、「捕虜の出ない戦争」といわれた皆殺しの凄惨な内戦が、5年も続いた。1975年4月、中国の肝いりで結成されたシアヌーク=ポル・ポトの連合勢力の勝利で内戦が終わった。だがそれは、平和なカンボジアへの回帰にはつながらなかった。過激な共産主義を信奉するポル・ポトらの新しい支配の下で、国民の大量虐殺が繰り広げられた。その規模と残虐さは、世界でも、ほとんど類を見ない。虐殺の規模については政治的な立場によって諸説が流布したが、のちにアメリカのエール大学が行った学術調査は、当時のカンボジアの人口約500万人のうち170万ー180万人の命が奪われたと推計している。


内戦中、ポル・ポトの「盟友」だったシアヌーク殿下とその家族も、「封建制度の象徴」として王宮に軟禁され、あわや粛清されるところだった。14人の子と孫、数多くの側近が殺された。のちに殿下は自著(邦訳『シアヌーク回想録』中央公論社1980年刊)で、生き延びることができたのは中国が待ったをかけてくれたおかげだった、と明かしている。


そしてカンボジア紛争。1978年のクリスマスを期して、こんどは南北統一を成し遂げたベトナムが、かつての共産主義の同志、ポル・ポト率いるカンボジアに攻撃の火蓋を切った。このカンボジア紛争は実に13年も続いた。この間、ポル・ポト政権のスポンサーだった中国が、「懲罰」と称してベトナムに戦争を仕掛けたことは記憶に新しい。シアヌーク殿下は、中国に説得されて、カンボジアをベトナムの占領と事実上の支配から奪い返すために、倶に天を戴かぬと思い定めていたポル・ポトと、またもや手を組まされた。


1989年、世界の政治構造に一大変動が起きた。第二次世界大戦後の世界をかたどってきた東西冷戦と中ソ対立が、相次いで正式に消滅したのだ。ソ連を頼りにカンボジアで中国=ポル・ポト勢力と張り合っていたベトナムは、そのソ連が中国と和解してしまったために孤立無援となり、カンボジアから撤兵せざるを得なくなった。こうして、果てしなく続くかと思われたカンボジア紛争も、ついに終わりを告げる。


カンボジアがどん底の運命にあえぎ続けたこの21年間、シアヌーク殿下は、ポル・ポト政権下の一時期を除いて、亡命政権の中でいつも最高の肩書きを与えられていた。だがそれは表向きの顔でしかなかった。中国と、その説得に応じたポル・ポトは、殿下の国際的な知名度とカンボジア国民から広く敬愛されている事実を利用しただけで、ほんとうの権限は何一つ、与えることはなかった。


◆シアヌーク殿下の意外な顔◆


余談をひとつ。


ロン・ノル・クーデターでカンボジアを追われたシアヌーク殿下は、いったい何を考え、何をしようとしているのか。クーデターの「前」から「後」へのこの国の劇的な変わりようを思い返すにつけて、わたしの中で、殿下にインタビューしたいという欲求がつのっていった。だが、亡命先の北京にいる殿下にどうしたら会えるか。


当時、わたしのいた産経新聞は中国政府と関係が悪化し、支局を置かせてもらえない「国交断絶」の状態にあった。中国が産経の記者であるわたしに入国ビザをくれるはずがない。だが、クーデターから1年半たった1972年9月、思いがけないチャンスがめぐってきた。


田中角栄首相(当時)が中国と国交を正常化するために、日本の首相としてはじめて訪中することになったのだ。日本の新聞、テレビの記者が大挙して田中首相に同行した。この画期的な訪問の同行記者とあれば、中国も入国ビザを拒否することはないだろう。わたしは社の同行取材のメンバーに加えてもらい、無事、北京の土を踏むことが出来た。


シアヌーク殿下は、北京市内にある旧フランス大使公邸を住まいにしていた。祖国を追われた落魄の身にとって、日本から記者が会いにきたことがよほどうれしかったのだろう、殿下はほぼ2時間にわたってインタビューに応じてくれた。この会見以後、カンボジア情勢が展開していく節目、節目で、わたしは殿下にインタビューをもとめた。おそらく8回にのぼったと思う。だが、殿下は一度も断わることがなかった。


なぜシアヌーク殿下はこのような好意を示してくれたのだろう。長い間、心のどこかでこの疑問がくすぶっていた。


カンボジアの悪夢がすべて終わって2年が過ぎた1993年9月、殿下は28年ぶりに国王の座に返り咲いた。わたしは早速祝電をファクスで送った。すると、殿下から返事がとどいた。その中に、「不幸なときにできた友への友情は決して変わりません」という一言があった。

これを読んで、長い間の疑問がいっぺんに解けた。同時に、内外の多くの政敵を相手に手練手管のかぎりをつくしてきたシアヌークという政治家に、意外に信義や友情にあつい一面のあることも知った。


◆燕雀(えんじゃく)と鴻鵠(こうこく)◆


中国の古人は言った。「燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠の志を知らんや」(史記)。燕や雀のような小さな鳥、つまり小人物には、鴻鵠(白鳥)のような大きな鳥、すなわち大人物の遠大な考えがわかるものか、というのだ。しかし、世界のいたるところで繰り広げられている大小さまざまな国の葛藤を見ていると、この決めつけ方に素直に「はい、そうですか」とうなずく気にはなれない。「燕雀」には、小さいがゆえに「鴻鵠」にはわからぬ望みや苦労、意地がある。日本の古人も「一寸の虫にも五分の魂」と言ったではないか。


インドシナの動乱にあっては、アメリカや中国、それにソ連といった大国が、まさに史記にいう「鴻鵠」の部類に入る。ベトナムとカンボジア、ラオスのような小国はまぎれもなく「燕雀」だ。その「燕雀」の中でも、ベトナムはやや大きい小鳥だし、カンボジアやラオスはほんとうに非力な小さい鳥でしかない。この三羽の「鴻鵠」は、「燕雀」に五分の魂のあることに思いをいたさず、ましてその悲哀をわかろうとはしなかった。


それどころか、大国のアメリカ、中国、ソ連は、巨大な力を背景に、それぞれの遠大な「志」をしゃにむに遂げようとした。実はそれが、国際政治の、美辞麗句を取り去ったほんとうの姿でもあったのだが。他方、ベトナムやカンボジアは、自らが非力であるがゆえに、知恵を振り絞ってこうした大国の力を利用し、あるいはそれに抵抗した。しかし、少なくともカンボジアのたどった道を振り返ると、抵抗の苦労の方がはるかに多かった。


そのカンボジアを率いたシアヌーク殿下は、かつてこう喝破した。「地理と歴史は人間の手で変えることはできない」。そしてつけ加えた。


「われわれはベトナムとタイという、ともにダイナミックで野心に満ちた民族にはさまれて生きるよう運命づけられている・・・われわれはベトナムという狼に食べられないように、ベトナムの向こうにいる巨大な龍、中国を見つめているのだ」。(前掲『北京からみたインドシナ』)


この半世紀、インドシナ半島を血で彩った動乱は、見方を変えれば「燕雀」と「鴻鵠」との間の、あるいは「鴻鵠」同士の、凄絶な争いでもあった。「アメリカはカンボジアもインドシナも理解しなかった」というシアヌーク殿下の叫びは、中国の古人がよしとした「鴻鵠」への、悲痛な異議申し立てではなかったか。


(元産経新聞記者、2011年12月20日記)

ページのTOPへ