ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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カンボジア断想2 ジャーナリストの受難(友田 錫)2011年10月

1970年のロン・ノル・クーデターは、この国の「パンドラの箱」を開けてしまった。首謀者、ロン・ノル将軍ら軍部が南ベトナムと手を結び、その結果、シアヌーク殿下が苦労して守ってきた中立が吹き飛んだ。


カンボジア国境付近に根を下ろしていた北ベトナム軍と南の解放戦線軍を掃討するために、まず南ベトナム政府軍が、ついでアメリカの地上部隊が、国境を越えてなだれ込んできた。カンボジアは一夜にして、ベトナム戦争の新たな戦場になった。また、シアヌーク殿下の支持者たち、それに長い間シアヌーク殿下と対立していたポル・ポト率いる共産党が手を組んで、ロン・ノル政府軍に反旗を翻した。全土で内戦の火の手が燃え上がった。


◆日本人の犠牲者◆


当然、このカンボジアの新局面を報道するために、世界中から、ペン、カメラを問わず、記者たちが押し寄せた。その結果、多くの外国人ジャーナリストが内戦に巻きこまれて行方不明になり、あるいは死亡した。外国人ジャーナリストの犠牲者は、ベトナム戦争では全部で33人(ベトナム人を含めると63人)とされているが、カンボジアの内戦ではそれを上回る36人を数える。そのうち、11人が日本人だった。


ここでは、その中でわたしが直接関わりを持った、あるいはわずかながら接点のあった記者たちについて書きとめておきたい。まず、《カンボジア断想1》で触れたフジテレビの日下陽、高木裕二郎の両記者の捜索の顛末。


ジャーナリストの世界では、激しい取材競争に明け暮れる一方で、事、報道の自由や記者の命に関わる問題では、国籍はちがってもとことん助け合う。「ジャーナリストは仲間同士」という意識が、この世界に流れているからだろう。プノンペンでは、フランス国営テレビのクルーが、わたしと、もう一人、フジテレビ本社から派遣されてきたスタッフが日下、高木両記者の行方を探していると聞いて、捜索のかぎとなる貴重な手がかりを与えてくれた。


メコン川を渡ってさらに国道1号線を東に進むと、チプーという小さな町がある。南ベトナムとの国境はそう遠くない。4月5日、反政府ゲリラ部隊がこの町を攻撃、ロン・ノル政府軍が撃退した。翌日、プノンペンにある政府軍の参謀本部は、「戦果」を宣伝するために、外国の報道陣をこの町に招いた。しかし、戦闘、それも小競り合いが終わったあとの”戦場”ほど、無味乾燥なものはない。フジテレビの二人の記者は長居は無用と、チャーターした乗用車で町を離れ、ベトナム国境の方角に車を走らせた。


フランス国営テレビのクルーも、少しおくれて二人の後を追うように国道1号線を東に進んだ。しばらくすると、前方から猛烈な勢いでバイクが走ってきた。ハンドルを握っていたのは、ハリウッドの俳優、エロール・フリンの息子、ショーン・フリンだった。南ベトナムではかなり知られた戦場カメラマンだ。彼はすれちがいざま、後ろを指差して「パテト・ラオ!パテト・ラオ!」と叫んだ。パテト・ラオとはラオスの共産勢力のことで、パニックに陥っていたショーン・フリンは、カンボジアのゲリラをそう呼んでしまったらしい。


「緊張しながら少し進んだとき、前方の道路の両わきの水田との境に、黒っぽい服の男たちが伏せているのが見えた。ゲリラだ、とわかり、大急ぎで車をUターンさせ、全速力で引き返した」。


クルーのディレクターが話してくれた。彼らはさすがにテレビ報道のプロだった。Uターンするときも、助手席のカメラマンはカメラを前方に向けて回し続けていた。


そのときのフィルムを見せてもらった。数十メートル先に白っぽい車体の乗用車が一台、道路を斜めに塞ぐようにして止まっていた。フランス・クルーの行動との前後関係から推して、これは明らかに日下、高木両記者の車だった。一説には、フランスのフリー・カメラマン一人も同乗していたという。とにかく、車の窓ガラスは粉々に割られていて、内部に人の姿はなかった。


このフィルムを手がかりに、わたしとフジテレビのスタッフは現地の事情に通じた在留日本人の手も借りて、現場付近に通った。近くの町の警察や農民の話から、拉致の状況の一端がわかった。ゲリラたちは道路に木を横倒しにして転がし、車を止めた。停車した車を取り囲んで、銃床で窓ガラスを叩き割り、乗っていた人間を外に引きずり出したという。二人と運転手はいったん南の方角に連れていかれた。三日後にふたたびゲリラが二人を連れて国道を横切り、こんどは北の方向に行った、という。残念なことに、二人の消息はそこでぷつりと途絶えたままだ。


話を戻す。ゲリラとおぼしき男たちの姿を見て猛スピードで引き返したフランス・クルーは、すぐショーン・フリンのバイクを追い抜いた。だが、ショーンはついにプノンペンに帰りつくことはなかった。おそらく、帰り道のどかで別のゲリラにつかまったのだ、とフランス・クルーは推測する。あとでわかったのだが、ショーンと一緒にアメリカのもう一人のフリー・カメラマン、ダナ・ストーンも現場にいた。だがフランスのテレビクルーがすれちがったのはショーンひとりだったというから、ダナ・ストーンはその前にゲリラの手に落ちていたのだろう。


◆流動する戦場◆


アメリカの3大テレビ網のひとつ、NBCでサウンドマンとして長くベトナム戦争を報道してきた和久吉彦氏についても、悲しい思い出がある。和久氏とは、サイゴン勤務時代からの旧知の仲だ。


「友田さん、ぼくはこわいんですよ」。


プノンペン市のほぼ真ん中にあるモノロム・ホテルで同宿だった和久氏は、5月のある夜、わたしの部屋にやってきた。狭くて余分のイスもないため、彼はベッドの上にあぐらをかきながら、小さな声でぽろっと漏らした。


テレビやスチールカメラのジャーナリストは、現場の「絵」を撮らなければならないので、活字ジャーナリストにくらべて戦場取材の機会が圧倒的に多い。それだけ危険な目にあうこともしばしばだ。南ベトナムでは、戦争が長く続いていたせいで、どこが危険でどこが安全か、およそ見当がついた。ところが、内戦がはじまったばかりのカンボジアでは、「戦場」がおそろしく流動的だった。それまで平和だった場所で数分後に交戦が突発する。二、三十分もすると、戦闘が止み、また何事もなかったかのようにのどかな風景にもどる。さすがの戦争報道のベテラン、和久氏も、「用心の仕様がない」というのだ。


プノンペンでの一夜から一週間ほどたった6月はじめ、帰国したばかりのわたしは、朝、新聞を広げて目を疑った。和久氏が5月30日にベトナム国境に近い町、タケオの手前の国道3号線上で、反政府ゲリラに拉致されたというニュースがのっていた。「こわい」ともらしたその恐れが、不幸にも現実になってしまったのだ。あのときの和久氏の声が、いまでも耳に残っている。


ちなみに、このとき、和久氏と一緒に、NBCテレビクルーの他の2人もつかまった。その直前、この場所に行き合わせたCBSのクルー5人も、同じ運命をたどった。その中には、日本人の石井誠晴カメラマンと坂井幸二郎サウンドマンもいた。この間の事情と状況については、ベトナムの戦争取材のベテランで、このときカンボジアで取材していたアメリカABCのカメラマン、平敷安常氏が、その著書『キャパになれなかったカメラマン ベトナム戦争の語り部たち』(講談社、2008年刊))で詳しく書いておられる。それによると、和久氏らは拉致の数日後に処刑されたという。


結末こそハッピーエンドだったが、戦場が流動的であるがゆえの「おそろしさ」を如実に物語るエピソードをひとつ、紹介しておこう。


たまたま北の隣国、ラオスに出張していた産経新聞の同僚、矢ケ崎誠治記者が、カンボジアで内戦が勃発したため、プノンペンにまわってきた。わたしがフジテレビ記者二人の捜索とニュース記事の原稿書きで手が離せないため、サイゴンからやってきた東京新聞の記者、鎌田光登氏と一緒に、4月25日、プノンペン近辺の状況取材に出かけた。わたしが何より心配したのは、二人が戦闘に巻き込まれたり、ゲリラに拉致されてしまうことだ。そこで、前日、政府軍の参謀本部に出向いて、付近の安全度を調べた。


「ネアクロンまでなら大丈夫だ。でもその先は保証できないよ」。


担当の将校が教えてくれた。ネアクロンとは、プノンペンから国道1号線を東に約70キロ、メコン川を渡った向こう岸にある町だ。わたしは、二人に「ネアクロンから先には行かないように」と念を押した。当日の朝早く、二人は「昼までには戻ってくる」と言ってチャーターした中古のベンツでホテルを出た。わたしはニュース原稿を入れた封筒を手に、空港に行った。当時、ロン・ノル政権の検閲がきびしかったので、世界から集まった多くの記者たちは、空港で国外に出る「同業者」をつかまえて原稿を託すという手をよく使った。国外から原稿を本国に投函してもらうのだ。


正午前、空港からホテルに戻ったが、二人はまだ帰っていなかった。そこに顔見知りのAFP通信の記者がやってきてわたしに聞いた。「南の方で外国人記者がゲリラにつかまったという情報がある。日本人に該当者はいないか」。矢ケ崎、鎌田両記者はメコン川までという予定で出かけたのでおそらく大丈夫だろう、とは思うものの、にわかに不安がふくらんできた。思い切ってメコン川の町、ネアクロンまで行って見よう。わたしは、フォルクスワーゲンの「かぶと虫」を引っ張り出して、1号線をネアクロンに向かった。


◆間一髪◆


ほとんど人影も通る車もない国道。行けども行けども二人の車らしきものと行き会わなかった。心配がつのった。メコン川がもうすぐという地点で、前方から、見覚えのある中古のベンツが猛スピードでやってきて、わたしの「かぶと虫」とすれ違った。すぐUターンして追ったが、中古とはいえベンツにはかなわなかった。とにかく、二人は無事だった。


プノンペンのホテルに戻った二人から、この取材行の一部始終を聞いた。わたしは思わず身震いした。


二人はまず、ネアクロンの政府軍司令部で状況を聞いた。「この辺にゲリラはいないよ」というのんびりした答え。そこで少し先に行ってみることにした。道路わきに警備隊の屯所があった。そこでも「この辺は心配ない」という返事だった。もう少し、先に行こう。車を進めると、小さな集落にぶつかった。道路わきの檳榔樹の林の中に、軽い飲食ができる簡単な小屋掛けがあった。ベトナムでもカンボジアでも、国道ぞいにはよくある光景だ。服装がまちまちの男たちがイスとテーブルを占めていた。14、5人はいただろうか。


「このあたりは安全か」。道路わきに停車していたトラックの運転手に聞くと、運転手は「シーッ」と口に指をあてて、小屋掛けの方を目で示した。その瞬間、中にいた男たちがばらばらと飛び出してきて、二人と運転手にピストルを突きつけた。ゲリラだった。運転手が、すかさずポケットからシアヌーク殿下のブロマイドを取り出し、「サムデク(殿下)、サムデク」と叫んだ。自分はシアヌーク殿下の支持者だ、と訴えたのだ。


矢ケ崎記者も、とっさに機転をきかせた。「日本の記者だ。インタビューしたい」。運転手を通じて、隊長らしき男に要求した。インタビューなどされたことのない隊長は、一瞬、毒気を抜かれてしまったらしい。すかさず二人の記者はいくつか質問をあびせ、数分後に謝意を伝えるとただちに車に乗り込んで、もと来た道を引き返した。なんと、500メートルか1キロも行かないところで、国道を進んでくる政府軍の小部隊に行き会った。「インタビュー」の現場を離れるのがもう数分遅ければ、ゲリラたちはこの政府軍の接近に気がついたはずだ。そして逃げるとき、二人を連れ去った可能性は十分にある。


カンボジア内戦を報道するために世界から集まった外国人ジャーナリスト。その数は延べにすると千人を超えたのではないか。そして不運にも帰らぬ人になった36人。多くの場合、その運命を分けたのは、「偶然」の織りなす綾のほんの一筋のちがいだった。


当時、戦争取材の只中にあったときにはそんな感慨にふける余裕もなかったが、40年余を隔てたいま、振り返ってみて改めて愕然とする。取材記者の運命はもちろんのこと、戦争報道そのものの成否が、どんなに偶然に左右されるものなのか、と。


(元産経新聞、2011年10月27日記)

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