ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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私が会った若き日の野沢那智さん(伊波 新之助)2011年3月

記者クラブへ 弁当配達の少年だった

一家の柱が亡くなると今でも大変だが、年金が制度化される前は一層厳しかった。当時は子どもも多かったから奥さんは翌日から生活に窮した。そのころの話である。

 

声優野沢那智さんの父嘉哉さんは時事新報の記者だったが、会社の経営困難から陸直次郎という股旅物の作家に転じて間もなく、川で溺れた息子を救おうとしてかえって自分が水死してしまい奥さんを途方に暮れさせた。

 

歴代首相の似顔絵つきの茶碗などを売る国会の売店にも、記者未亡人の経営になる店があったが、野沢家が始めたのは霞ヶ関官庁街での弁当屋だった。街角のこうした即席の店はいまでこそ珍しくないが、当時としては斬新な企画で、いなりずし、天ぷら、かつ、コロッケ、にぎりずしなどをお役人やサラリーマン向けに売り出し、事情を知った記者仲間の応援もあって官庁脇のテントの店は大繁盛。兄弟は朝から自宅で母親の手伝いに忙しく立ち働き、那智少年は配達にも走った。

 

おかげで少年の弁当にはごちそうが並び、うらやましがられたが「実は前日の売れ残り。嬉しいものではなかった」とはご本人の後年の述懐。

 カップラーメンもおにぎりも店頭にはまだない時代だったから、夜食の調達に苦労していた記者たちにこの弁当屋は歓迎された。

 

遺族はこうして新しい生活に入ったが、流行の店には追随する業者が現れるのが世の常で、弁当屋の屋台骨を揺るがす敵が思わぬところから現れた。

 

「野沢弁当店」の売り子として記者クラブを中心に回っていたおばさんがある時をかぎりに売り子をやめ、なんと独立して自分で「すし」をにぎり、記者クラブを回り始めたのである。売り上げのいい夜の記者クラブ専門で。

 

どうも様子がおかしいと見回りにきた野沢家のゴッドママ・清子さんとおばさんが、一夜、警視庁の記者クラブ「七社会」で出会ったからたまらない。清子さんの「お前だねッ」という言葉をきっかけにつかみ合いの修羅場を現出したそうで、「生活をかけた女の闘いはすごい」という伝説は長く語り伝えられた。

 

結局、テントの弁当屋は5年ほどで終わり、お母さんは堀小代清という小唄の師匠に転じて成功し、芸の道は息子の那智さん、孫のタレント野沢直子さんに継がれた。

 

一方、おばさん・飯島せんさんの方もそれからは大繁盛。背中の大きな荷物の中にはにぎりずしのほかに、記者の注文に応えての外国たばこ、高級ライター、万年筆など御徒町辺りから仕入れたものも。

 

ただ1回しか贈らなかった家内への僕の指輪も、実は怪しげなおばさんルートの品だったなあ。

 

おばさんの記憶に鮮明なのは、開業当日に、外務省のクラブで読売の渡辺恒雄記者から「ばばあのすしは大きくてにぎり飯のようだなあ」(ママ)と言われたこと。そう言えばおばさんから「渡辺さんが社長になったねッ。テレビでやってたよ」という電話をもらったことも、わが記憶の片隅に新しい。

 

禁制品の外国たばこを運悪く警察にみつかり、各社のキャップ連がもらい下げに行ったこともあったっけ。

 

記憶は少しずつ遠のいていくが、野沢家の皆さんもおばさんも、みんな夜討ち朝駆けの激しい記者生活を支えてくれた人たちだった。

 

ほかに万年筆、印鑑専門のおじいさん「吉田さん」や戦災孤児の面倒をみていた靴磨きのおばさんも警視庁へ来てたなあ。

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