ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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元モスクワ特派員の体験回想アラカルト(中澤 孝之)2011年2月

(その1) 「プラハの春」直後 電報・電話送稿で悪戦苦闘

 

モスクワには2回勤務した。最初の駐在経験は1968年秋から72年春までで、着任したのはちょうど「プラハの春」事件直後であった。当時、支局にはかろうじて、タス通信のチッカーがガタガタと大きな音を立てて動いていたが、ファックスはもちろん、まだテレックスもなかった時代。送稿は電報か電話だった。

電報の場合、タイプライターでローマ字に直した紙を電報局に持って行く。クレムリン近くの電信局まで、急ぎ足で約30分かかったろうか。東京との6時間の時差の関係で、夜中に送ることが多かった。

冬のモスクワ。しんしんと粉雪が降りしきるなか、ほとんど人影もなく、車もめったに通らない幅広いゴーリキー通り(現在のトヴェルスカヤ通り)の車道のど真ん中を、独りとぼとぼと歩いて、電信局に着く。この建物だけは24時間営業で、真夜中でも煌々と明かりが点いていた。

小さな窓口の向こうに受付嬢が座っているはずだが、奥にいて姿が見えないことも多かった。大声で「ジェーブシカ!」と呼ぶ。ジェーブシカとは普通は年頃の若い女性を指すのだが、年配の女性を呼ぶときも使うのがロシアでのしきたりだ。のっそりと窓口に出てきた彼女に「これを早く東京に送ってください」と懇願する。彼女はゆっくりと一字一字、字数を数えて、決められた料金を大きなソロバンで計算する。彼女たちは交代で寝ずの番をするらしかった。何回も通ううちに、顔なじみのジェーブシカもでき、こちらの希望どおりに手早く処理してくれたときは、嬉しかった。

電話送稿の場合は、まずロンドン支局に電話して、支局員に原稿を口述筆記してもらう。それをロンドン-東京の専用線で本社に送るというのだが、ロンドン支局の忙しいときは、ただただお願いするしかなかった。それよりも、自動ダイヤルではなかったから、モスクワの国際線担当の交換手を呼び出してからの送稿となるので、繋がるまでに時間がかかることがしょっちゅうだった。1回や2回ダイヤルを回しただけでは、交換手に繋がらない。急ぎのときなど、いらいらして頭を抱えたものだ。

あるとき、多くの外国人記者と一緒にヤルタ視察旅行に参加したことがあった。ソ連外務省の招待だった。60年代から70年代にかけて、ソ連外務省もモスクワ駐在外国人記者に気を遣ってか、国内旅行を企画して参加者を募集したり、ソ連芸術家・芸人の演芸会などを外務省別館の小劇場で催して、家族同伴で招待してくれたものだ。恐らく、外国人記者団が冷戦時代のモスクワでそのような歓待を受けていたことはあまり知られていないに違いない。

閑話休題。そのヤルタ旅行の前に宇宙に飛び立ったソ連の宇宙飛行士が(多分予定より早く)地球に帰還したが、地上で宇宙船のハッチを開けてみたら飛行士が死んでいたという事故が、何と私たち記者団がヤルタ滞在中に起きた。当時は一人支局だったので、急いで原稿を書いてモスクワの自宅にいる家内に電話で送稿。彼女がロンドンに、また電話でそれを送るという離れ業を演じたのもなつかしい思い出である。

 


(その2) モスクワ駐在外国人との交流 秘密文書や陰の顔?

 

日本との時差を気にしながら、官報のような味気のない日刊紙に目を通し、タス通信の公式発表を追うのがモスクワ特派員の日常的なルーティンだったが、この国ならではの興味ある仕事が別にあった。一つはモスクワ駐在外国人との交流だ。欧米の記者や中国大使館員、中国人記者、さらに東欧諸国の記者や大使館員との情報交換である。

当時、モスクワ勤務のジャーナリストとして、西側では比較的大きく扱われたソ連国内の反体制派の言動にも注意を払ったが、日本人記者団の取材力には限界があった。どうしても欧米の記者諸君を頼りにせざるを得なかった。

あるとき、カーボン紙でタイプ複写した反体制派の秘密回覧文書を入手したことがあるが、これは米国のある有力紙記者が入手して欧米記者同士で回覧していたものだった。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなど米国系の有力新聞や米国のAP通信社はユダヤ系記者を代々派遣して、独自のルートを引き継がせ、反体制派や人権活動家と絶えず接触していた。回覧された秘密文書はカーボン紙を数枚重ねてコピーしたもの。重ねの下に置かれたためか、ときにはカーボンの印字が薄くて読みずらいものもあった。当時はコピー機がなかったので、日本大使館に持ち込みコピーさせてもらった。お礼に、大使館に一部進呈したのはもちろんである。

ところで、西側新聞の特派員として異色だったのは、ビクター・ルイスという「知る人ぞ知る」の人物だった。彼は本名ビタリー・エフゲーニビッチ・ルイという1928年生まれのロシア人でありながら、英国イーブニング・ニュース紙記者だった。ソ連外務省の記者会見などで顔見知りだったので、出会うと簡単な挨拶はしたが、何か近寄りがたかった。

そのルイス記者はソ連国家保安委員会(KGB)、つまりソ連の秘密警察と繋がりを持っているというのが専らの噂だった。ソ連の対外工作の役割を演じていたというのだ。例えば、「フルシチョフ回想録」やソルジェニーツィンの「ガン病棟」などの原稿を国外に持ち出して、西側での出版を実現させたとか、中国に嫌がらせをするための台湾工作の根回しをした、イスラエルを自由に往復していた、といった伝説が残っていた。

ソ連で発禁の作品を西側に高く売りつけることにより、莫大な利益を得るとともに、著者の立場を悪くするという陰謀にルイス記者は加担したのだと説明された。ある資料によれば、66年と71年にホワイトハウスに招かれて、当時のハンフリー米副大統領やキッシンジャー大統領顧問と会っていたという。

英国人のルイス夫人ジェニファーさんは、夫のビクター氏と共同の名義で、かなり詳細な「インフォーメーション・モスクワ」(名前、肩書、住所と電話番号が記載されていた)という英文冊子を定期的に刊行していた。これにはソ連の主な官庁の住所や電話番号が記されていたほか、モスクワ駐在の各国外国人名簿、さらには隣国フィンランドの首都ヘルシンキ案内までも掲載していたので、駐在員には大変重宝がられた。モスクワ駐在の外国報道機関、外国大使館や商社・メーカーの事務所などが皆、買い求めるから、かなりの利益を稼いでいたはずだ。事実上、ジェニファーさんが責任監修していた。このような営利商売が独占的にできたからには、間違いなく、ソ連当局のお墨付きをもらっていたに違いない。

また、ルイス記者夫妻はモスクワ郊外に広大な邸宅を所有していたという。プール、テニスコート、それに何台も外車の並んだガレージがあり、そこに外交官やソ連の高官、ジャーナリストなどの賓客を招いて豪勢な接待をするのが彼らの趣味だと聞いた。

このルイス記者をモスクワの外貨(金券)ショップでしばしば見かけたことがある。外貨ショップとは、食料品も含めて主に西側製品を売っていて、外貨や金券を持てない一般ロシア人は立ち入れない特別の店だ。縁なしのメガネをかけた初老の彼の目は、何となく店内の外国人の目を気にしているふうだったのが印象的だった。



(その3) 共通語はロシア語 中国記者が接近


1969年春にダマンスキー島(珍宝島)で初めて中ソ軍事衝突事件が起きた。映画「大地の子」でもこのときの戦闘が描かれていたが、双方に死者が出るという本格的な紛争だった。両国の関係が最悪のときだ。確か軍事衝突の後だったが、多数のロシア人が中国大使館付近でデモをしているというので、急いで現場に駆けつけた。中国を誹謗するプラカードを掲げ、口々に中国非難の言葉を発して、女性も交じった数百人の群衆が大使館の周りを取り囲んで、気勢を上げていた。明らかに当局が組織した官製デモだった。ロシア人から見れば、日本人も中国人も区別のつくはずがない。東洋系の顔をしているというだけで、興奮したデモ隊から石を投げ付けられた同僚日本人記者がいた。とんだ災難であった。中国大使館員は階上のあちこちの窓からそっと顔を出して、デモ隊をじっと見守っているだけだった。

冷却した中ソ関係とは裏腹に、米中国交正常化の余波で日中関係がよくなると、中国人記者や大使館員がわれわれ日本人記者に積極的に近づいてくるようになった。大使館主催の国慶節や春節などのパーティーに必ず招待された。そうした場所で自ずから知人、友人が増えた。特に新華社記者との会話、情報交換の機会も多くなった。帰国に際して、新華社支局で内輪の送別会を催してくれ、子供たちも招かれて中国人コック自慢の料理で(子供向けの特別の品もそろえて)もてなしてくれたことは忘れがたい思い出だ。招かれるだけではなく、拙宅にも夫人同伴で何回か招待して、和気あいあいと交歓した。当方、中国語はできないし、先方は日本語を知らないので、共通の言葉はロシア語であった。

また、今では考えられないことだが、北朝鮮大使館から招待状が舞い込んだことがある。玄関の金日成の大きな肖像画を仰ぎ見た後、あまり飾り気のない大きなホールに入り、テンプラのようなものを御馳走になったが、深い付き合いはなかった。



(その4)
ポーランド入国ビザ取得のため東ベルリンへ

モスクワ特派員の取材カバー範囲は、ときにはソ連圏の東欧に及んだ。東欧駐在の記者を置いている社は少なかった。2回目のモスクワ勤務時代、80年代の初めにポーランドで自主管理労組「連帯」がグダニスクのレーニン造船所はじめ各地でストライキ騒ぎを起こした。80年代から90年代にかけて、ポーランドの騒動は、一時ソ連の介入を招く寸前まで、状況が悪化した。あるとき本社からワルシャワに入れとの社命を受けた。ところが、モスクワのポーランド大使館に行ったものの、入国ビザの発給をすげなく断られた。モスクワ駐在の報道各社とも、ポーランドの入国ビザをどこで取るかが大きな課題であった。いろいろな情報を集めた結果、東ベルリンのポーランド大使館ならビザを発給してくれるという。

たまたまY社のH記者が同じようにポーランド入国ビザの取得に苦労していると聞き、二人で示し合わせて東ベルリンに出向くことにした。わずか数日間であったが、「弥次喜多道中」としゃれこんだ。まずモスクワから空路西ベルリンに入って、そこから、東西ベルリンの境界のチャーリーポイントを通って東ドイツに入国した。東ドイツの入国ビザはモスクワで簡単に取れた。

東ベルリンの建物の壁にはまだ、第2次世界大戦の戦闘による弾丸の痕(あと)が残っていた。ポーランド大使館を探し当てて、何とかビザを取るという目的を果たした。東での長居は無用だと思ったが、モスクワで東ベルリンに行くならペルガモン美術館(博物館とも)をぜひ見てこいという親切な言葉を聞いていたので、同美術館を訪れた。確かに、一見の価値のある巨大な建物である。ナチスがエジプトから運び込んだという大掛かりな数々のモニュメント、特にヘレニズム時代の「ペルガモン祭壇」には圧倒された。

その日のうちに、東ベルリンからまたチャーリーポイントを通ったが、入国のときと違い帰り際の、東側の警備隊の厳重な身体検査には驚かされた。カバンはもちろん、服のポケットの所持品も全部広げろと言う。確か地図類は没収されたように記憶している。いったん西側に出た翌日、ベルリンの壁をゆっくり見物した。チャーリーポイントの西側には、小さな展示小屋があった。東ベルリン市民のさまざまな命懸けの西側への脱走の手段が展示されていて、興味深かった。また、西側から東ベルリンを眺めることのできる展望台がしつらえられていた。そこに立つと、東側の警備兵が銃をもって警戒している姿がよく観察できた。

町中が繁華街のように活気あふれた西ベルリン。対照的に不気味なほど静まり返っている東ベルリン。東西ベルリン両方を比較できるチャンスに恵まれて幸運だった。


(その5) KGB のCIA協力者リストに載せられてびっくり


2回目の勤務のある日、東京本社のT外信部長から、英文の文書を同封した私信が届いた。「・・・・それから、昨年(注・78年)10月ごろ、CIA文書なるフザケた文書が、いくつかの新聞社に出回り、入手したところ大兄の名が出ていたのでびっくりしました。しかるべき筋も『デタラメ』と確認していますので、気にすることは全くありません。ソ連側の文書と思われますが、コマロフスキーさん(同・当時駐日ソ連大使館参事官)にも『不満』を伝えておきました。彼はあんまり知らない様子でした。何かの参考になるかもしれませんので、同封します。繰り返しますが、気にする必要は全くありません。・・・・」

モスクワにいて「CIA文書」なるものを知るはずはない、何かのきっかけで知ってびっくりする前に、という「親心」で、T部長は社の通信郵便に紛れ込ませて、そのコピーを送ってくれたにちがいない。ご記憶の読者もおられるだろう。79年10月に日本経由で米国に亡命したKGB少佐レフチェンコ氏の事件。米議会証言(82年7月)の中で彼がこの文書について明らかにする前に、私はそれを手にしていたのだ。

「CIAインサイダー」(1978年第1号)と銘打たれたこの文書を見ると、各国のCIA協力者のリストに日本の項目があり、友人知人も含む名の知れた記者、評論家ら15人の名前と肩書が記載されている。その中に、何と「TAKAYUKI NAKAZAWA(JiJi Tushin・reporter)とあるではないか。天地神明に誓って、CIAの協力者などになったことはない。驚くというより呆れた。

今でも手元にあるCIA文書コピーの日本の項目に記載された14人(私を除く)のお名前を、ご参考までに、そのまま引用しよう(スペリングなど表記の間違いもそのまま)。この中には現役の方は少なく、物故者もおられる。「Shogun」とあるのは月刊誌「諸君」のことだと思われる。

▽AKIO KIMURA(Asahi Shimbun・advertising 
observer)
▽GOSUKE UCHIMURA(observer)
▽HARUO MORI(Asahi Shimbun・chief editor)
▽HAJIME SUZUKI(Sankei Shimbun・editor)
▽HIDEO MATSUOKA(Mainichi Simbun・managing editor)
▽KEISUKE SHIMIZU(Chuo Koron・chief editor)▽KOINJIRO HARA(Pen・journalist)
▽MASAO SASAE(Jiyu・editor)
▽NOBORU SATO(Shogun・observer)
▽TAKURO SUZUKI(Asahi Shimbun・reporter・managing editor)
▽TEIKICHI KAWAI(observer)
▽TAKASHI TACHIBANA(Shogun・observer)
▽YOSHIHISA OJITANI(Asahi Shimbun・observer)
▽YOSHIRO ROYAMA(Kyodo Tushin・observer。

前記公聴会でこの文書の存在について質問されたレフチェンコ氏は「大変よく知っております。私は東京のKGB支部にいたとき、その印刷物を読みました。多分私の判断では、これはCI(諜報対抗部でKGB第1総局にある)が作成したものと思われます。KGBの積極工作班がこれを手助けしたのでしょう」と答えた後、これを読んで「がっかりした」と付け加えている。つまり、出先のKGB当事者さえ呆れた、KGB本部の偽造文書であるというのだ。

レフチェンコ証言は、約200人もの日本人がKGB協力者(工作代理人)であると暴露し、日本中を震撼させた。その後日本のマスコミによってそのうちの何人かが実名で報じられたことがあったが、私自身、同じ濡れ衣を着せられるにしても、KGBではなく、CIAの協力者と名指しされたのがよかったのかどうか、今もってよく分からない。


(その6)サケマス交渉取材で「夜討ち朝駆け」

モスクワ特派員の仕事の最も大きなヤマ場の一つは、日ソ・サケマス交渉の取材であった。何しろ、日ソ交渉妥結・「日本の漁獲数何万何千トン」という数字が、各新聞の一面トップを大きく飾った時代である。交渉が長引いて、漁期が迫ると、農林大臣がわざわざ東京から出向いてきて、両国の大臣が頂上会談で打開策を探り、ようやく決着することもしばしばだったった。

モスクワでの交渉が行われる年明け早々から、何となく気が重くなった。お互い、ふだんは和気あいあいで、のんびりしている記者団仲間の、抜くか抜かれるかの取材競争が春先から始まるからだ。特に、地方紙の北海道新聞(道新)の場合、サケマス交渉のためにこそ、特派員をモスクワに置いているようなものだったから、代々の道新記者諸氏の神経のつかいようは並大抵ではなかったに違いない。通信社の記者もある意味では、重責を負わされた。「取材は通信社まかせ」という場面もあったからだ。

例えば、チャイコフスキー・コンクールの取材がそれで、あるときなどは、審査発表が遅れて、深夜を過ぎると、審査会場前で立ちん坊をしている日本人記者のうちほとんどが、「後はよろしく」などと言って、帰宅してしまう。明け方になって、わずか2、3人だけが、会場から出てくる日本人の審査員を取り囲んで、眠い目をこすりながら、話を聞くといったこともあった。

サケマス交渉は文字通り「夜討ち朝駆け」の取材合戦だった。幸運なことに、ベテランの道新記者Oさんとは、たまたまモスクワ着任日が一緒だったよしみで特別、ずっと親しくしていただいた。サケマス交渉の取材の修羅場で、若輩の私がO記者と行動をともにした(と言うより、Oさんの尻にくっついていた)のは言うまでもない。

ソ連漁業省での交渉の期間中、交渉会場で取材はできない。最終的には公式の発表があるが、それまで待てないのが記者稼業のつらさ。正式発表前に数字をとるためにどうするか。北海道の漁業関係者の宿舎となったウクライナ・ホテルに夜遅くまで、二人は入り浸った。

あるとき、交渉終了間際に、競争通信社のU支局長から電話で、東京本社から(君が流した記事の)打ち返しがあったと、苦言を呈されたこともあった。Uさんは高校と大学の大先輩だっただけに、何とも複雑な思いにかられたものである。


(その7) モスクワ五輪の苦い思い出


1978年春からの支局長として2回目の勤務の最大の課題は、80年夏のモスクワ・オリンピック取材受け入れ態勢を準備することだった。4年に1度のこの大掛かりなスポーツの祭典の取材に抜かりがあってはならない。本社から社会部、写真部も加えて運動部総出でモスクワにやってくる予定だから、彼らの働きやすいように、万全の態勢を整えておく必要があった。

それまで東京本社では経済部記者として仕事をしたが、スポーツ取材経験は60年代半ばのクアラルンプール特派員時代に、一度あった。バンコクでの第5回アジア大会(66年12月)に応援で駆けつけたのである。連日、南方特有の強い日差しのなか、流れ出る汗を拭き拭き、「少数精鋭」の一員として約2週間の長丁場を何とかこなした。いろいろな苦労や失敗があった。この経験がモスクワで活かせるはずだった。

モスクワの内環状線のサドーボエ・カリツォーに面する場所にオリンピック取材記者会場となる大きな建物が新たに建設された。一番の難関は、いかにして有利な条件でそこにわが社のブースを確保するか、だった。ソ連側組織委員会のプレス担当者との交渉に心血を注いだ。ワイロと言ってしまえば聞こえが悪いが、それなりの供応、品物贈呈が効力を発揮するお国柄。苦労の甲斐あって、それなりのブースが割り当てられた。

ほっとしたのもつかの間、オリンピック開催前年の79年末、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したことで、すべての苦労が水泡となって消えた。英国、フランスやイタリアなど一部の国を除いて、カーター政権の米国はじめ西側諸国の多くが集団でモスクワ・オリンピックのボイコットを決めたのだ。日本も米国に追随した。中国も不参加だった。参加国・地域は81にとどまった。当初予定の本社からの大取材団に代わってモスクワに来たのは、わずか運動部員、カメラマン各1名。あとはモスクワ支局2名で、そこそこにカバーしろというのが社の方針だった。

閉会式のマスゲームで、大会マスコットの大きな縫いぐるみの「子熊のミーシャ」の両目から涙がこぼれ落ちるという演出が印象的だった。4年後の84年ロサンゼルス夏季オリンピックを今度は、ソ連圏の多くの国がボイコットした。前年の米国によるグレナダ侵攻を理由にしたモスクワの仕返しであった。

個人的にはモスクワ・オリンピックのお陰で、得難い収穫があった。オリンピック村に出店していた日本の運動器具メーカーMのショップで初めて、硬式テニスのラケット、テニスシューズなどを購入した。30年以上たっていまだに続いているテニス歴の始まりだった。
(元時事通信外信部長 2011年2月記)

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