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ファン・ヴァン・ドン首相の握手(友田 錫)2010年12月

 取材相手のある仕草が、後になってから大きな意味を持っていたと知ることがある。もう四半世紀前、ところはベトナムのハノイ。ファン・ヴァン・ドン首相との懇談の席で、わたしの発言に首相が突然立ち上がり、やにわに握手をもとめてきた。瞬間、ひどく面食らったが、まさにこの握手が、そのとき進行していたベトナムの「ドイ・モイ(刷新)」、すなわち改革・開放路線への転換と関係があったとわかったのは、実は何年もあとのことだった。

 ベトナム戦争が終わってから10年後の1985年8月、日本とベトナムのジャーナリスト交流がはじまった。わたしは日本からの最初の訪越記者団に加わった。ベトナム戦争たけなわの頃、特派員としてサイゴン、いまのホーチミン市を拠点に南ベトナムを走り回ったが、「北」にはついに入れなかった。その「北」をふくめて統一後のベトナムの土を踏んだのは、このときがはじめてだった。ハノイ、ハイフォンとかつての「北」の二つの街を訪ねた後、「南」に飛んでむかし懐かしい旧サイゴンを歩いた。

                           ◇     ◆

 ハノイに入って三日目。かつてフランスへの独立宣言が行われたバディン広場に面する深い木立の中に、瀟洒なコロニアル風の首相府の建物がある。窓を開け放った広い応接間で、ファン・ヴァン・ドン首相がわたしたちを迎えてくれた。ここでひとこと、おことわりしておかなければならない。実はこの会見はファン・ヴァン・ドンという実名を書かない約束のものだった。だが、すでに25年の歳月が過ぎ、ドン首相も故人(2000年9月没)となり、しかもベトナムの内外環境もすっかり変わっているので、いま「ドン首相」と明記しても、もう許してもらえるだろう。

 細身で長身、やや丸い背中のドン首相。1906年生まれというからそのとき79歳のはずだったが、ゆったりとした動作を除けばその年齢のほどはどこにもうかがえない。穏やかな声音と眼差しは、ホーチミンの片腕として8年にわたる対仏独立戦争を率いた闘士、独立後もずっと首相をつづけてきた大政治家としての凄みというか、したたかさも、まったく感じさせなかった。そのドン首相が、開口一番、身を乗り出すようにしていった。
  「ベトナムは日本と良い関係を持ちたいと思っている。そのためにわれわれはどうしたらよいか、率直に、思うところを聞かせてほしい。」

 たまたまドン首相のほぼ真向かいのイスに座っていたわたしは、早速手を挙げた。
 「申し上げたいことがふたつあります。」
 こんなことをいうとドン首相は気を悪くするかもしれない、という思いがちらと頭をかすめたが、率直に、というのだから遠慮しないでおこうと自分に言い聞かせて、「思うところ」をこう披瀝した。

 《両国の関係改善を阻んでいる最大の壁は、ベトナム軍のカンボジア駐留が続いていることです。したがってベトナム軍がカンボジアから引き揚げることが、日本との関係を良くする第一歩でしょう。》
  《私は1960年代後半に、ベトナム戦争を取材するためにサイゴンに駐在しました。隣のタイのバンコクにもよく足をのばしましたが、そのころのサイゴンは戦火の中とはいえバンコクよりはるかに街並みが整い、きれいで活気がありました。しかしいま、バンコクはベトナムのどの都市よりも発展しています。この違いはどこからきたのでしょうか。思うに、タイはASEAN(東南アジア諸国連合)に入ってアメリカや日本と結び、その協力で経済発展につとめました。ところがお国(ベトナム)はソ連と結ばれているだけです。高い能力を持つベトナムが、ソ連よりもアメリカや日本と強い関係を持つようになれば、東南アジアのどの国にもまして大きく発展するのではないでしょうか。》

 わたしのことばの通訳が終わるか終わらないうちに、ドン首相はすっくと立ち上がった。足元に並べてあった日本人記者団の携帯テープレコーダが目に入らなかったのか、それらを蹴飛ばしながら早足でわたしの前に歩み寄り、手を差しのべた。あっけに取られたわたしがおずおずとその手を握ると、ドン首相はにっこり笑いかけたまま一言も発しないで、身をひるがえして自分のイスに戻っていった。

 握手、無言の微笑み。この謎めいたジェスチュアの意味を、ホテルに帰ってからもわたしは懸命に考えた。わたしの発言に賛成だという意思表示であったことは疑いない。しかし、なぜそれをことばに出して言わなかったのか。帰国してから書いた記事の中でも、このジェスチュアについてはついに触れずに終わった。

                           ◆      ◇

  「ドイ・モイ」。これは旧来の計画経済から踏み出して市場指向型の経済を取り入れるというもので、伝統的な社会主義経済モデルからの画期的な転換だった。市場経済の導入は必然的に対外開放もともなう。それを裏返せば西側との関係改善を目指すことでもあった。それだけに、1986年12月の第6回党大会でこの路線が決まるまで、党内では保守派と改革派との間で長く、激しい路線闘争がつづいた。ファン・ヴァン・ドン首相がわたしたちと懇談した1985年9月は、ちょうどこの路線闘争が改革派有利の方向にやや傾いた直後の時期だったが、まだこのことを外部の世界は知る由もなかった。

 わたしたちがベトナムを訪れたころ、「ドイ・モイ」という用語は少なくとも外には知られていなかったが、経済改革や西側との改善をめぐって党内で賛成、反対の路線闘争が繰り広げられているという噂はすでに流れていた。わたしたちのベトナム訪問の2カ月前、1985年7月にはついに食糧の配給制度が廃止され、価格、賃金、通貨の改革も決まった。しかし、この路線闘争の全容が外の世界にもれてきたのは、1990年前後からだったと思う。

 このころの外部世界のベトナム研究者の論文によると、ベトナム共産党創設以来の重鎮でかつては保守派の筆頭といわれたチュオン・チンが、経済のあまりの疲弊と地方の人びとの生活の悲惨さに驚愕し、考え方を180度変えて改革派の先頭に立った。これに対する保守派の中心人物は書記長(当時)のレ・ズアンだった。ドン首相は改革派の有力なリーダーのひとりだったらしい。

 こうした背景の構図にあのときのドン首相の「握手」と「無言の微笑み」をおいてみると、このジェスチュアに秘められた意味がはっきりと浮かび上がってくる。おそらくドン首相は党内論争のあらゆる機会に「ベトナムは社会主義一辺倒から一歩踏み出して、西側の“資本主義世界”とも、強い結びつきを模索すべきだ」と説いてきたのだろう。だからこそ、アメリカや日本と強い関係を、というわたしのことばに「わが意を得た」とばかり、つい握手をもとめたのではないか。そもそも「日本と良い関係をもちたい」と切り出したのはドン首相の方である。

 もうひとつの謎。なぜ一言も発しなかったのか。これはまったくの憶測だが、当時、まだ党内論争には完全にケリがついていたわけではなかったので、ドン首相のわたしたちへの発言が反対派に流れて悪用されることのないよう、用心したのではないか。無言の握手だけで、その気持ち、考えるところは十分日本側に伝わると思ったのにちがいない。

                           ◇     ◆

 と、ここまではドン首相の握手の謎解きだが、その後、ベトナムを何度か訪れ、当局者や研究者らとじっくり話し合ってみると、この国が、ドイ・モイにたどり着くまでの10数年間、想像を超えた苦難、困難に翻弄され、挫折と失望を味わってきたことがわかった。

 まずベトナム戦争中の1972年に、最大の支援国だった中国が、突然、アメリカと手を握った。いわゆるニクソン訪中だ。中ソ対立が激化して「ソ連の“社会帝国主義”こそ中国にとっての最大の脅威」と思い定めた毛沢東が、ベトナムにとっての交戦相手、アメリカと手を結ぶことにした。ハノイの指導者たちは切歯扼腕したが、中国に楯突くことはできず、1年足らずでアメリカに「名誉ある撤退」を許す和平協定を結んだ。
 
 ハノイの指導者が ベトナム戦争に勝って南北統一の美酒に酔ったのも束の間、中国の後押しを受けたカンボジアのポル・ポト政権が、「クメール王国時代の領土を取り戻す」と宣言してベトナムの南の国境地域に散発的ながら武力攻撃をはじめた。堪忍袋の緒を切ったベトナムが国内の華僑弾圧に乗り出し、さらにポル・ポト政権を打倒するためカンボジアに侵攻すると、中国は「ベトナムを懲罰する」と称し、人民解放軍がベトナム北部に雪崩れ込んだ。中越戦争である。このとき、鄧小平は「ベトナムという国の血の最後の一滴まで抜き取ってやる」と息巻いたという。インド人でインドシナ問題のもっとも優れたジャーナリストのひとり、ナヤン・チャンダは、この中越戦争やカンボジア紛争について著わした本のタイトルを「ブラザー・エネミー(敵になった兄弟たち)」とした。ニクソン訪中いらい中国と強い絆で結ばれていたアメリカ、それに日本をふくめた西側の多くの国が、ベトナムに経済制裁を加える側にまわった。
 
  国際的に孤立したベトナム。この国が唯一頼ることのできたのは、中国と対立するソ連だった。ソ連の援助だけがベトナムの支えだった。ところが、1981年 9月、こんどはそのソ連のブレジネフ書記長がインドシナ3国の共産党書記長を黒海に面したクリミヤ半島に呼びつけて「対中改善に乗り出す」と告げた。ハノイの指導者たちにとって、これは米中和解に次ぐ青天の霹靂だった。この転換は翌1982年のブレジネフのタシケント演説で公然のものとなる。ソ連は中国と足並みをそろえて、ベトナムにカンボジア撤兵を迫り、頼りの経済援助も先細りになっていく。ちなみに最終的に援助が打ち切られたのは1989年で、その年ベトナムはついにカンボジアから撤兵した。

                            ◆      ◇

  1985年9月。日本人記者団を迎えたファン・ヴァン・ドン首相率いるベトナムは、このような苦境の只中にあったのだ。カンボジア撤兵後のベトナムは、中国側から「反中的な政治局員(グエン・コ・タク外相)を解任しろ」という屈辱的な条件を呑まされて、やっと対中正常化にこぎつける。1990年代初め、わたしがハノイで会ったベトナム外務省の高官のことばが、いまも耳朶に残っている。「わたしたちは大国との関係を誤りました」。この人はささやくような声でいった。その意味は、という問いには、ただ微笑んで答えなかった。中国が、ソ連が、アメリカが、彼の頭を去来していたにちがいない。

 南シナ海の波高し。かつてアメリカと中国は肩を組んでベトナムとその背後のソ連に対抗した。いまそのアメリカと中国が、この東南アジアの「内海」を舞台に角を突き合わせ、逆にアメリカとベトナムの接近が目立っている。この8月には、中国をにらんで米越合同の軍事演習も行われた。ベトナム戦争が終わってからはじめてのことだ。中国のある学者は香港のテレビを通じてこれを「ベトナムの危険なゲーム」と決め付け、「ベトナムは将来後悔するだろう」と警告した。

いまは亡きファン・ヴァン・ドン首相は、この時代の移り変わりを、草葉の陰でどう見ているだろうか。 (元産経新聞、2010年12月8日記)
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