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「60年安保」から半世紀(堀越 作治)2010年12月

 新聞社のデータベースを見ていたら、若い日の拙稿に出くわした。「60年安保」が調印された1960年1月19日(火)から朝日新聞千葉版に連載された「基地」という6回の続き物である。私が政治部へ来る前の年、千葉で県政キャップをしていたころだから、まる50年になる。

 前書きがふるっている。というより、ものすごく肩に力が入っているのがわかる。若気の至りだったのだろうか、あるいは岸内閣に対する世の中の空気を反映していたのだろうか。

 まず「ごうごうたる賛否の議論をしり目に、きょう19日、新安保条約は調印される」と始まり、次いで、「これとしめしあわせたかのように、自衛隊の指揮命令系統もさる14日、旧軍隊の姿に似たものに大幅に変わった」と続く。そして、「10年前、警察予備隊として発足、その後、違憲論をはじめ批判的な世論の中で着実にふくれてきた自衛隊も、いよいよ法衣をかなぐりすて、名実ともに軍隊であることを誇示する時が来たかのようだ」と、自衛隊に対する記者の目はますますとがってくる。そのうえで、「昔から軍隊に縁の深かった本県には、主なものだけでも下志津(高射砲)、木更津(航空)、館山(海上航空)、習志野(空てい)、松戸(軍需品補給)、白井(海上航空整備)の6基地がある。さらに、柏(航空)、四街道(海上)には連絡所が、嶺岡には米軍との共同のレーダー基地があり、これは近く全面的に自衛隊のものになりそうだ。千葉市には鉄道部隊をおくという話しもある」と軍隊とつながりの深い千葉県に矛先を向け、「一体、隊員たちはどんな生活をし、どんな考えをもっているのか、周辺の人々の見方はどうかーこうした、ふだんはあまり目を向けられない面を、この機会にとりあげてみた」と結ぶのである。

 連載の①と②は「その陣容」というタイトルで、自衛隊の駐屯する各基地がいかに広大な用地と、整った施設に恵まれているかを指摘し、「金持ちの駐屯地」という小見出しまでついている。

 そういえば前の年の暮、下志津駐屯地で突然、ロケット実験訓練隊の結団式があったという情報が伝わり、寝耳に水だった地元の住民が騒ぎだしたのを機に、安保改定阻止共闘会議の労組員ら多数がデモをかけて大騒ぎになったことがある。その時の写真が、ひときわ目を引く。
 「核弾頭をつけたロケットではないか」との抗議文を司令に突き付けたデモ隊は、「アメリカ第二軍」と罵声を浴びせた、とも書いてある。

 記者が司令にあって、「自衛隊を災害救助隊とか国土建設隊としたら、という向きもあるが」と聞いたのに対し、司令は「いや、国防という信念で鍛えられていなければ、献身的な災害救助などできない」と答えている。当時の社会党や労組などの主張を下敷きにした質問であることは明白である。

 ②の大見出しは「木更津は五大飛行場の一つ」、「習志野、地上でも降下訓練を」となっていて、県内の自衛隊施設がいかに全国規模の大きさであるかを強調している。写真は、「ヘリコプター訓練の館山航空隊」と「非常呼集―木更津基地」の2枚だ。
 ③と④は「自衛隊員は何を考える」というタイトルで、大見出しは「例外なく生きがい」と並んで「徹底した教育の画一性」、そして小さく「ハンコで押した答え」とある。③の写真は「パラシュートで降下して突撃=習志野演習場で」と「下志津基地の高射砲訓練(標的は上空を通る民間航空機)」の2枚だが、わざわざ民間航空機を標的にしていると書いたのがミソだ。
 ④で、「何より身に技術を」「40歳の定年に備えて」と指摘したのは常識的だが、つづいて「ひがむ下級隊員」「一般教養が不足」となると、やはり批判の目がきつくなる。写真は「飛行機の整備訓練=木更津基地で」と「盛んな食欲=下志津基地の食堂で」。2枚とも平凡だ。
 ⑤は「地元の明暗」を取り上げているが、暗い方の「食われる零細農漁民」を主見出しにし、明るい「商店・飲み屋は息づく」を一段下げているところに、筆者の主張が透けて見えはしないか。写真は「町へ出た自衛隊員=船橋市内で」。1枚だけで、ぱっとしない。
 ⑥は「これからのこと」として、「いつか、戦う部隊に」「米軍施設、自衛隊に」「気づかぬ間に成長」「案外少ない応募者」「除隊者で再び帰るのは何人か」と、前途に不安を抱かせる。写真は「同僚に見送られて出て行く除隊者」だ。

 全体を通じて、安保改定と自衛隊強化に反対するトーンが強く出ているのは、「警職法(警察官職務執行法)」改定以来、数を頼んだ岸内閣の強引な政治手法に対する世論の風圧が、それだけ強かったのを反映していたといえるのではないだろうか。
 もちろん支局長にも細かく相談して出稿したものであり、本社の編集者も「これは意欲的な企画だな」と、一目置いていたように思う。

 もっとも、私の場合、日米安保条約については、1950年前後の学生時代から因縁があった。結果的に単独講和(アメリカ陣営とだけ講和条約を結ぶこと)になった吉田首相に対して、南原繁東大総長が「ソ連圏もふくめた全面講和を」と強く批判。これを吉田は「曲学阿世」と悪口をいい、南原は反発した。当時の学生や労組員の多くが南原を支持したことはいうまでもない。ましてや安保条約にいたっては、反対が圧倒的だったといえる。
 学寮の委員長をしていた私は、「単独講和反対」「全面講和をかちとれ」という全学連のデモにも積極的で、あの食糧難の時代に、「参加者にはコッペパン2個ずつ特配」とあおり、実行した覚えがある。

 千葉で忘れられないのは、日曜日に妻と子供らをつれて「安保改定反対」のデモに参加したことである。記者がデモに行っていいのかなと大いに迷ったが、敢えて決行した。もちろん、非番の日である。ところが皮肉なことに、出番で取材していた同僚の石川真澄君とばったり出会ってしまったのだ。ニコニコとカメラを向ける彼に、
「おい、よせよ。それに、支局長にはいうなよ」と頼んだ。
 あとで何のお咎めもなかったところを見ると、彼が信義を守ってくれたらしい。後日、いっぱいおごらされる羽目にはなったけれども。

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 さて、時代は飛んで、政治部で外務省を担当したころに移る。気骨のある条約局の参事官と安保条約の話になり、「おかげで防衛費は安上がりだけれども、これじゃあ占領の継続ではないですか」と論争を挑んだ。さらに、
「吉田の著書“回想十年”によると、日米どちらかからともなく結ぶという機運になった、と書いていますね」といったら、
「あんたはそれを信じているの、不勉強だね。あれはワンマン(吉田)がダレスから押しつけられたんだよ」と、ぴしゃりやられたことがある。外務省にも侍がいるものかな、と感心したものだ。
 その後、事務次官をやり、最高裁判事にもなったが、残念ながら早く亡くなってしまった。

 もうひとり、安保で忘れられない人がいる。ほかでもない、岸元首相本人だ。政治部内で誰も担当する者がいないというので、私が手を挙げた。現役を引退していたが、弟の佐藤が政権についていたため、いろいろと情報が入ると思ったからだ。狙いは外れなかった。特に政変の時は重宝したものだ。
 こちらからのお返しは、趣味の能である。といっても、大したことではない。梅若能楽堂で簡単な解説をしてやるだけのことだ。たまたま岸は観世流の名人といわれた梅若六郎師の後援会長をしていたが、一度も見に行ったことがないという。「ぜひ頼む」といわれて、案内してあげたのだ。
 こうして、政治の舞台裏についてはいろいろ話を聞くことができたが、参ったのは、「安保堅持」「自衛隊強化」「憲法改定」を時折持ち出されたことだ。その場で反対論を唱えたら以後「出入り禁止」になるかもしれないし、かといって相槌を打つわけにもいかない。こちらの表情を読まれないよう、ポーカーフェイスで押し通したつもりだが、千軍万馬の老大家は、若造の腹のうちをとっくに見通していたのかもしれない。(元朝日新聞 2010年12月記)
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