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私とベトナム-その① レ・カオ・ダイの『ホーチミン・ルート従軍記』を読んで(田中 信義)2010年12月

友人がこの本を読んだか、読んでなければぜひ読むようにと言ってきた。早速読んだ。その本とはレ・カオ・ダイ著『ホーチミン・ルート従軍記~ある医師のベトナム戦争~』(岩波書店刊2009年4月)。
1965年から1973年の北ベトナム人医師自身の戦争体験記だ。思わずうなった。これまで謎に包まれていたホーチミン・ルートの実態が明らかになった。私は1970年71年南ベトナムに駐在、ベトナム戦争を取材していた。当時西側のジャーナリストにとってホーチミン・ルートの取材は最大の関心事だった。何とかホールートに近づこうと機会をねらってスクープ合戦が繰り広げられていた。



この従軍記を読んで偶然に驚いた。著者レ・カオ・ダイが軍医としてチームを引き連れホーチミン・ルートを南下した時期と、私がサイゴン駐在だった時期が重なりあっていたことだ。特に私にとって忘れられないのは1971年2月8日から始まったラオス侵攻作戦である。従軍記にラオス侵攻作戦の記述を見つけたときはいささか興奮した。1971年2月13日付けの彼の日記は次の通りだ。(P238)

「ここは四季のすべてー春、夏、秋、冬―が1日に集まっているようなものだ。まだ行進しているときラジオ放送で聞いたところによると、2月6日、敵はクアンチから南部ラオスへ9号線沿いに進出する作戦に3万人以上の部隊を動員し大規模な攻勢を展開した。
上級リーダーの最初の見通しでは1971年の乾季に、敵はわが軍の北から南へ向かう戦略輸送道路の封鎖攻撃を発動し、ウエストモーランドの「共産主義者の首を絞め共産主義者の胃袋に穴をあける」戦略を実施するだろうというものだった。予想では2つのシナリオがあった。敵はクアンチから南部ラオスのバンドン、セボンへ延びる9号線を攻撃するか、ダクトからベトナム、ラオス、カンボジア3国国境へ向かう10号線をたたくだろうというものだ。
これまで私たちの病院は前進している兵士のあとをすすんできた。だが敵が9号線を攻撃したので、10号線の勢力を攻撃する必要はなくなった。したがって私たちは元の場所へ戻り畑の開拓を継続することになる・・・・」


私はそのときクアンチのプレスセンターにいた。私は自著『時を視る』の中で次のように書いた。

「ラオス侵攻作戦」
国道9号線、南ベトナムとラオス国境に「ここから先アメリカ兵、立ち入り禁止」と書いた立て札が立っていた。
2月8日、南ベトナム政府軍はグエンバン・チュー大統領の命令と同時に、大挙してこの国道をラオス領内への侵攻作戦を開始した。そしてこの1週間国境ラオバオの峠は不気味な静かさに戻っていた・・・
今度のラオス侵攻作戦はニクソン大統領のベトナム化政策のもっとも具体的な現れといえるものだ。ラオス侵攻作戦は先月以来慎重に準備されアメリカ軍9000人、南ベトナム政府軍2万人を投じて、3年前激しい戦闘のすえ放棄した南ベトナム北部ケサン基地を再建し更に国道9号線沿いに陣地を設営するなどの準備を着々すすめてきた。このケサン基地周辺はまだ雨季、濃霧がたれこめ小雨がふる肌寒い日がつづいていた。
このケサン基地から西1キロの小高い丘の上に政府軍第1軍管区第1師団の前線司令部があった。司令官ラム中将は「この作戦の目的はラオス領内のホーチミン・ルートの補給路の破壊にある」と張り切っていた。司令部の下のヘリポートには絶えずヘリコプターが発着し、前線から負傷兵を運んだり逆に完全装備のベトナム兵を新たに送り込んだりしていた。
陸路の輸送は北側の反撃が激しく無理だ。空からのみが頼りだ。私たちもなんとかしてラオス領内に入りたいと粘った。しかし今度の作戦ほどベールに包まれた作戦はなく、アメリカ軍のヘリコプターは報道関係者をラオス領内に運ぶ事を禁止されていた。アメリカ軍がこの作戦に加わっていることを極力隠そうとしてのこと。ケサン基地入りし野宿すること1週間、粘りに粘った末ようやく政府軍幹部が私と飯田カメラマンを補給物資輸送用のヘリコプターに潜り込ませてくれた。
ヘリコプターは国道9号線の南側を高度1000メートルで西へ、ラオス領へと飛んだ。対空砲火をさけるためだ。小高い山並みが続く。この山並みを越えるとラオス領、一面のジャングル、山と山の谷間に赤土の道路が南北に走っている。ホーチミン・ルートの幹線道路だ。そしてそこから網の目の様に広がる細い道路も見える。遠く北の方ではジェット機が爆撃している音が聞こえる。眼下にはロケット弾やB52の生々しい穴がいくつも見える。ヘリコプターは着陸点を見つけると小さく旋回してジャングルを切り開いた荒れ地に急降下、竹藪の中から南ベトナム兵が飛び出し補給物資をおろす。私たちも飛び降りた。ヘリコプターは荷物を下ろすとすぐに飛び立つ。ここはラオス国境ラオバオから南西20キロいわば敵陣のまっただ中。兵士たちは竹藪の中にタコツボを掘って身を潜めていた。
物資輸送は4機のヘリコプターで行われた。4機目に乗らないと私たちもこの前線に残される。気がつくと最後の4機目が飛び立とうとしていた。私たちはあわてて飛び乗った。飛び立つとすぐ右手にホールートが走っており道路脇に3台のトラックが横倒しになっていた。(1971.2.20記)



北ベトナムの医師と私たちは同じ時期にホールートにいたのだと思うと、その偶然にある種の感動を覚えた。私たちは北と南両側で同じ作戦を見ていたのだ。

またレ・カオ・ダイ医師の従軍記は1973年1月24日の日記にベトナム和平協定仮調印について次のように記している。
「ラジオのニュース番組は今朝10時に重大な放送があると伝えている。今朝胸膜炎の手術中、外で叫び声が聞こえた。1月23日午前7時に両者がパリ和平協定に調印したのだ。南での革命の歴史はあらたな1ページを開いた」

私はこのとき羽田からサイゴンに向かう飛行機の中にいた。和平協定調印でNHKは応援チームを南ベトナムに送り込み、私は最後の一員としてサイゴンに向かっていた。
それから1か月、目の回るような取材合戦が続いた。このときも考えてみると同じ時期に北と南で同じ状況を見ていたのだ。このとき私はメコンデルタで南ベトナム解放戦線の支配する解放村に潜入し北側陣地をかいまみた。ここでも北と南で同じ停戦を違った思いで経験していたと思うと不思議な感じがする。

ベトナム和平で戦争は終わらなかった。その後も戦争が続き完全に終わったのは2年後のサイゴン解放の1975年4月30日だった。

ベトナム戦争についてこれまで西側ジャーナリストが書いた記録は数多くある。しかし北側の情報は限られていた。私たちは何とか北側の生の情報を求めて躍起になっていた。
歴史とはother sideを知って始めて成り立つ。これに見事に答えてくれたのがこの従軍記である。ホールート周辺の状況がきわめて具体的でいきいきと描かれている。と同時に北ベトナム兵の苦しみ、忍耐強さなどについても医師として客観的な冷静な目で見つめている。人間をしっかりと見据えている。ベトナム戦争でなぜアメリカが敗れ北ベトナムが勝利したか、その理由がこの従軍記にある。



この話には後日談がある。2010年12月3日私はNHK BS1シリーズ「ベトナム戦争」<戦場のジャーナリスト>で、このラオス侵攻作戦についてかつての特派員報告ラオス侵攻作戦」の映像を見せながら取材体験を話した。
この番組をみて高校時代のクラスメートのFから電話がかかった。「俺の弟が番組を見た後電話してきた。自分の翻訳した本を送りたい」といってきたという。この本がレ・カオ・ダイの『ホーチミンルート従軍記』だった。私はすでに購入していた本の訳者の名前を見た。たしかにクラスメートの名字と同じFだ。そういえば高校時代、私はよく彼の家に遊びに行っていた。そのとき可愛い少年がいた。その少年が長じてこの大著を訳していたのだ。驚いた。訳者の経歴に京都大学名誉教授とあった。私は有り難くこの本を頂戴した。(元NHK 2010年12月20日記)

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