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語られなかったこと(坂本 英彰)2008年2月

  プノンペンの街を行く観光バスは、おびただしい数のバイクに囲まれながら走る。窓際に親子らしい4人乗りのバイクが並んだ。夕暮れのドライブなのだろうか。ハンドルを握るお父さんの前ではおにいちゃんが風を切り、小さな弟は後ろに座るお母さんとの間でサンドイッチの具になっていた。

 1975年、ポル・ポト派はプノンペンを陥落させるや住民を追い立てて農村にやり、一国の首都をもぬけの殻にした。都市文明を嫌悪した原始共産主義者たちは、ひとを虫のように殺す体制をつくりあげた。

 喧噪のプノンペンを眺めていると、人々はそんな過去を振り切って豊かさを目指して走り、国はサイレンを鳴らして発展をあおり立てているように思えた。

 チャム・プラシット商業大臣は記者会見で経済成長率など好調な数字を誇らしげに並べ、「日本からもっと投資を」と呼びかけた。「ポル・ポト時代にほとんどの知識人が殺され、全く爪のひとかきから国づくりを始めたのだ」と言った。

 なるほど、立志伝というのは不遇の時代から始まるものだ。ポル・ポト派がいかに国を荒廃させたかを語ることは、困難を乗り越えた達成感を際立たせる。もちろん大臣を含めて多くの国民が被害者であるには違いない。

  ただ、加害者が身内である場合、どこまで被害者として振る舞うことが許されるものだろうか。

 ポル・ポト派は外国からの侵入者ではない。外から思想を導入して政治体制をつくりあげたのはカンボジア人自身だ。恐るべき暗黒を内側に抱えてしまったという歴史から、この国は永遠に逃れることはできない。まして為政者は。国の指導的立場にあるひとが被害者然とした態度だったということは、饒舌に語られたことより重要な情報だったのかもしれない。

  なぜなら、それはこの国のあり方そのものだから。いまカンボジアでは、ポル・ポト派幹部を裁くために国連と共同で設置した特別法廷が進行中だ。自国の歴史を裁くためにゲタの半分を他国に預けなくてはいけないところに、この国の現実がある。それでも、重大な局面には違いない。何が悪で、何が間違いで、何がそれを許してしまったのか。厳しく問いつめる必要がある。

 カンボジアの穏和な国民性をさして、東南アジアで最も仏様に近いと言った日本人外交官がいた。ならばなおさら、なぜと思う。人間の愚かさという根源的な問いかけは、日本人も含め、人類の誰もが共有していかなくてはいけない課題である。

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