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「感情の横行」と「言葉の喪失」(壺倉 真司)2009年9月

 「右傾化」「偏狭なナショナリズム」―。歴史問題に絡み、近隣諸国との関係を荒立たせる最近の政治家の言動やそれを支持、許容する国民意識の変ぼうを、そう危ぶむ声がある。
  しかし、そういった風潮、現象を言い表し、真に懸念すべきは「短絡化」ではないか。「感情の横行」と言い換えてもいい。背景には、政治家の「言葉」の喪失があるように思う。
  小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題が物語る。事の是非は別にして、「心の問題」「信念」などと述べるだけで、説明を放棄し、相手の反発を「理解できない」と、他者に責任を押し付ける首相の言動には、首をひねらざるを得ない。そこに、政治の根幹をなす言葉は存在しない。
  一方、竹島(韓国名・独島)の領有権問題で、政府首脳が繰り返す「冷静に」との物言いも、同じ病理が潜む。一見、抑制が効いているように感じるが、何を、どのように冷静に行うのか、意味不明だ。結局は、問題の解決を先送りしているにすぎない。
  共通するのは、自ら問題を引き受ける「覚悟」と、事態を打開する「主体性」の欠如である。その結果、知性や理性が脇に追いやられ、語る言葉を失い、感情が幅を利かす。
  対する近隣諸国もまた、感情に呪縛(じゅばく)される傾向がある。例えば、日本側の竹島の領有権の主張について、同島を自国領と確信する韓国側がいら立つのはやむを得ないにせよ、「議論の余地はない」「再侵略」といった決めつけは、度を超してはいまいか。歴史をひもとけば、韓国側の論拠には、いくつものほころびがある。にもかかわらず、扉を固く閉ざしている。
  日韓両国の政府首脳はことあるごとに「未来志向で」と繰り返す。ただ、次代への道を切り開くには、感情でなく、言葉が必要だ。節度を守りつつ、主張をぶつけ合いながら、着地点を見いだす、「対話」の積み重ねが求められる。違いを認め合う度量が欠かせない。
  もちろん、両国の考え、見解の溝の深さ、大きさを踏まえれば、その作業が簡単でないことは分かっている。葛藤や蹉跌が待ち受けている。だが、あつれきを恐れ、歩を踏み出すのを躊躇(ちゅうちょ)すれば、永遠に「近くて遠い国」であり続ける。
  そういった思いを抱きながら、アジア取材団の一員として訪韓し、韓国の政府、政界の要人と向き合った。ハンナラ党の朴槿恵代表、李明博ソウル市長、後にウリ党議長に就いた鄭東泳前統一相のいずれも、対話の必要性を説いたものの、竹島問題をはじめ、いざ個別の問題を取り上げた時、日本の言い分に耳を傾ける確率は低い。あらためて、理想と現実の隔たりの大きさを感じざるを得ず、道のりの険しさを痛感した。
  とはいえ、希望を捨ててはいない。言葉を紡ぎ、対話を続けることこそが、真の「友好」「親善」への唯一無二の術であると信じる。そして、その対話のチャンネルとなるマスコミの役割、使命の重さを噛みしめている。

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