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フルブライト留学 女性記者の可能性を信じて(深尾 凱子)2010年8月

 戦後最大の社会運動として記憶に残る60年安保闘争から50年。この夏には、新聞、雑誌、テレビ等で多くの関連企画がなされ、書物の出版も幾つか目についた。その一つ『樺美智子・聖少女伝説』(江刺昭子著・文藝春秋)を読んだ。

  樺さんは1960年6月15日、国会に突入した学生デモ隊の一員で警官との衝突で命を落とした東大の女子学生。60年安保の象徴的人物として今も知られる女性だ。この“悲劇のヒロイン”の素顔を描きながら彼女は社会の何を変えようとして闘争していたのかを探り、その後の安保闘争の過程を辿った作品である。 



 安保闘争の頃、私は27歳。新聞社に入社して5年目だった。世論調査部を経て英字新聞部勤務。安保闘争の取材には関わっておらず、その年の秋に迫ったフルブライト留学試験のことで頭がいっぱいだった。
 当時の新聞社は圧倒的な男性社会で、同期入社22人の編集記者のうち女性は私1人。入社直後、正力松太郎社長からの一言、「本当は女性を採用する気はなかった、女は役に立たんからな」の言葉が今も記憶に鮮明だ。定年は55歳(現在は60歳)。これからの30有余年をこの超男性社会の中でどう生き抜いていけるのか、それには特殊能力を身につける以外にはない、そうだ、英語を武器にして広く世界を取材して回れる記者になることだ、そのためにはアメリカに留学して、しっかり英語の実践力を養うのだ――ただただそんな思いに取り憑かれた毎日だった。だから、激しい安保闘争の結果アイゼンハワー大統領の訪日が中止になると、こんな状況下で日米関係が悪化して、留学試験もお預けになるのでは…と心配でたまらなかった。しかし間もなく岸信介首相が政局転換のため辞職、新安保は自然発効し、樺さんは日本の“ジャンヌ・ダルク”などとまつり上げられて安保闘争は急速に収縮していった。

 


 私自身は念願かなって翌年から2年間(1961-63)休職して、アイオワ大学大学院ジャーナリズム学科に留学した。そして帰国寸前に出版されたばかりのある本に出会う。女は「良き妻、良き母」を人生の目標とされたそれまでの生き方に疑問を投げかけたベティ・フリーダンの「Feminine Mistique」(邦訳『新しい女性の創造』)で、全米に衝撃の輪を広げ、女性解放運動の聖書となった書物である。この運動は大きなうねりとなって全世界を包みこみ「男は仕事、女は家庭」と位置づけてきた社会の仕組みを根本から問い直し、「男も女も仕事・家庭・育児」を共同分担しよう、という現在への意識改革に繋がっている。
  日本への変化の波が訪れたのは1970年代で、75年の「世界女性会議」(国連提唱)を機に、社会は変わってきた。マスメディアも例外ではなく、「編集記者募集(但し男性のみ)」の募集広告は姿を消し、読売について言えば、新入社員の40%を女性が占める年もある。在外支局でも多くの女性特派員が活躍している。「このような世の中をどうお思いでしょうか」とあの世の正力社長にインタビューしてみたい。



 『樺美智子・聖少女伝説』は彼女が残したたくさんのノートや手紙類を収録紹介しているが、その中に「東大教養学部新聞」(1958年4月21日付)に寄稿した「婦人問題の根本的解明――平等を実現できる社会を目指して」という論文がある。
  「女子学生も相当数が自分の仕事を一生続けようとしているが、社会では女子の就職締め出しが強い。女性自身もそれを問題として原因を深く掘り下げる努力は少ない…しかし現代の機構そのものが問題で、企業家のあくなき利潤追求が女性の職場進出を阻んでいる。出産の役割を持つ女性は不利だから、平等の教育を行い、託児所や公共食堂等を備えて女性を家庭の雑事から解放し、産休も取れる社会にしなければ真の平等はありえない」
  樺美智子さん。生きていれば今72歳。どのような職業を選択し、どのような人生を送っていたのだろうか。
                                (元読売新聞記者・1933年生まれ 2010年8月記)
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