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「反戦自由」の気風・京都で安保闘争(村野 坦)2010年8月

 60年安保のとき京都で学生だった。1959年に入学した京都大学では教養課程の1回生の授業は本部キャンパスから遠い宇治分校で行われていた。59年秋から本部向かいの吉田分校での2回生の60年夏まで「安保反対」に揺れて授業への出席は空白状態が続いた。



 日米安保条約改正問題が一般学生に意識され始めたのは59年の夏休み明けからだ。私の「法学部1組」にも全学連につながる活動家がいて「条約調印阻止」に向けてクラス討論や学生集会が行われるようになった。

 京都に伝わる東京の政治情勢は、もっぱら報道に頼る。周辺情報を欠いて結果だけを知るから反応は原則的な建前論や平俗な現実論に傾きがちだ。「戦犯の岸首相がゴリ押しする条約は許すべきではない」「ここで、なんぼ文句言うたかて何の効果もあらへん」。静岡の高校から私が進学先に京大を選んだのは「反戦自由」の気風に引かれたことが大きい。だから前者の立場をとることが多かったが、関西出身者のリアルな自己主張には気圧される思いがした。

 反対の意思表明として議論になったのは授業放棄についてだった。大学側は1950年に「学生の本分を放棄する自殺行為」というストライキ禁止告示を出していた。改定阻止統一行動の国会構内突入(1959.11.27)の前後、呼応する宇治分校の抗議行動には「授業辞退」という言葉が使われ、学部、クラスごとに「辞退」が行われた。

 抗議行動は60年春の新学期から日増しに高まった。学生の間では条約内容よりも民主主主義のありようの問題が強く意識されていた。抗議行動の日には学内集会が開かれ、そこから立命館、同志社大キャンパスの集会へ、さらに円山公園での府学連や「府民集会」ー中心街の河原町へデモが流れるのが通常のパターンだった。

 衆院で会期延長・新条約案の強行採決(5.19)から全学連主流派の国会突入・樺さん死亡事件(6.15)にかけて大学の抗議行動は高揚した。もう「全学スト」「学園封鎖」が普通に使われ、本部と吉田分校の正門には机や椅子を積み上げてバリケードが築かれた。初めて教職員、学生が一緒になっての全学集会が開かれ「国会解散、採決無効」を決議している。



 このころ学生新聞による在学生の意識調査がある。「安保改定をどう思うか」に分校、学部生の約90%が「反対」、「学生のストをどう思うか」には「当然の責務」が46ー66%、「すべきでない」24-12%と答えている。

 無関心の学生も図書館にこもるガリ勉もいたが、私は抗議行動には、よく参加した方だった。JR京都駅前で街頭カンパも呼びかけた。2人1組の相棒は同級の麻生渡君(現福岡県知事)で私には真似できないほどの大声で「お願いしまーす」をやっていた。東京の様子を見たくて府学連の派遣団に加わり夜行列車で2度ほど上京し、抗議行動に参加した。東京行きには旅費が出たから帰りに途中下車して郷里に立ち寄る密かな楽しみもあったのだ。



 条約が自然成立した6月19日午前零時は国会周辺の学生集団の中で迎えた。政治権力にねじ伏せられた虚しさを感じた。それは前日「ア米大統領訪日を延期」を伝えた新聞が「暴力を排し議会主義を守れ」の7社共同宣言を出していたことも重なっていた。「事の依ってきたる所以は別として」の下りに「その所以こそ問題ではないか」、独自性を競うべき新聞が連れ立ってものを言うのは権威主義ではないか、と反発を覚えた。そのころ法曹の道へ進むことも考えていたが、もっと社会の現実と関わることをしたい、新聞社に入って共同宣言のような情けないことはさせまい、と思った。60年安保は、その後、新聞の道を選ぶ私の背中を押すきっかけにもなった。
                               (元朝日新聞記者・1939年生まれ 2010年8月記) 
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