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戦後政治の分岐点―60年安保騒動―官邸キャップとして(秋山 頼吉)2000年7月

「BK会報」(2000年7月10日号)から転載
 「温故知新」という言葉と同時に「歴史はくりかえす」ともいわれる。
  1960年、昭和35年の安保騒動も、将来を予見する一つの象徴的な出来事であったかもしれない。今からちょうど40年前のことだ。当時の新聞報道によると「岸内閣打倒、安保反対」が合言葉であり、これに反対する市民は民主主義に反する人間の如く扱われたことを思い出す。

保革イデオロギーの戦い
  はじめに安保騒動の経過をふりかえってみよう。日米安全保障条約は、昭和26年、時の吉田首相により日米講和条約と一緒にサンフランシスコで調印され、27年4月から発効したが、条約の片務性の解消と事前協議制の導入などを目的に33年秋から改定交渉が進められていた。そして35年1月、岸首相、藤山外相ら新安保調印全権団が訪米し、1月19日調印したが、国会は新しい安保条約の批准をめぐって、与野党の激しい攻防が続いた。
もともと、保守・革新の対立は、講和条約締結時から全面か単独かで争い、冷戦に伴う米・ソの対立拡大によって、条約の中身よりむしろイデオロギーの戦いのようにも感じられた。特にマスコミ幹部、学者の多くが、いわゆる中立・平和指向が強く、さらに自由民主党内部の派閥抗争があり、次期内閣の主導権をめぐって、一部マスコミと連携する動きさえあった。こうした背景のもと、隣国ソウルで4月18日、学生と軍隊が衝突、多数の死傷者を出し、李承晩大統領が退陣した。
  そして5月19日、衆議院本会議に新安保条約の批准案が上程された。これを阻止するため、野党側は本会議場周辺に座り込み激しく抵抗した。やむなく、政府・与党は警官を導入してこれを排除し、会期の延長と新しい条約の批准を可決した。こうして、国会は空転、院外では総評を中心とした「安保阻止国民会議」の反対デモが、連日つづけられた。

ハガチー事件で1度はナギに
そして6月10日、羽田でハガチー事件が発生した。ハガチー事件とは、アイゼンハワー大統領の新聞係秘書ハガチー氏が羽田空港でデモ隊に包囲され、米軍ヘリコプターで脱出したというものである。
  この事件は、日米関係に大きな影響を与えるとして、新聞論調も「国際信用を損なうもの」と批判し、総評もアイク訪日時のデモ取り止めを決め、社会党もこれを了承した。一方、政府・与党首脳は、これで条約批准の自然成立のメドがつき、あとはアイク訪日を待つだけだった。
  しかし、ハプニングが起った。6月15日のことである。全学連の学生およそ千人が、デモ行進の途上、国会南口通用門から国会内へ突入しようとしたのである。私は、その時、社会党の鈴木元委員長ら幹部3人と一緒に現場に居合わせた。たそがれ時だった。
  よせては返す大波のように通用門塀にぶつかっていたデモ隊が、遂に門塀をこわし乱入したのだ。門からおよそ百メートル離れた地点で待機していた警官隊が、排除のため放水を始めた。放水は、始めデモ隊の上空に上がり、水勢が安定すると共にスクラムを組んだデモ隊に直撃した。
  デモ隊の先頭は、後退しようとしたが、あとからつめかけるデモ隊の渦の中にまきこまれ、折り重なって倒れた。負傷者は構内の面会者控え室に運ばれ、重傷者は警察病院に移送された。そして1時間後、女子学生・樺美智子の死亡が確認された。警部本部の発表によるとデモ隊同士による事故であり、被害者の両親を病院に招き、事情を説明し、一応、納得してもらったとしている。

新聞7社の共同宣言
  しかし、樺美智子の死去は、内外に深刻な波紋を呼んだ。先ず政府は、16日の閣議で「アイク訪日、中止」の要請を決めた。マニラまできていたアイゼンハワー大統領も、訪日をあきらめ台湾、韓国に向かった。一方、マスコミの論調も一夜にして変わり、朝、毎、読など大手新聞7社は「理由のいかんを問わず、暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を掲載した。
  6月19日午前零時、新安保条約は自然成立した。当時の様子を私は「NHK報道の五十年」に次のように書いている・
―私は車で国会周辺を周り不測の事態に備えていたが、デモ隊らは何らの行動も起こさず、ただインターを歌う者、ワッショイワッショイとデモる者、中には旗を巻いて粛々と引きあげる一群もあった。この時、首相官邸では、岸首相、佐藤栄作蔵相をはじめ数人の国会議員がブランデーで静かに乾杯していたと聞く。岸はその時すでに退陣を決意しており、日米両国の批准を待って、23日正式に引退を表明した。
  それはまるで白日夢のようであった。岸退陣表明とともに、昨日までの国会周辺の騒動はうそのように消え去った。沸騰寸前まで高まった院外のエネルギーは一体どこへ行ったのか、安保とは果たして何だったのか、岸さえ辞めればそれですべて終わりなのか、熱しやすくさめやすい日本人気質の反映だろうか、私はそしゃくし切れない現実にあ然とするばかりであった。

池田首相の所得倍増政策へ
  岸首相の退陣に伴って登場した池田首相は「寛容と忍耐」をモットーに所得倍増政策を打ち出し、日本経済は飛躍的に上昇していった。そして池田、佐藤、田中と保守本流政権がつづいた結果、60年安保が日本の戦後政治の枠組みを作ったと評価されている。事実、自国の防衛、安全保障の大部分を米国に依存し、経済発展に重点をおいたことは否定しえない。
しかし、岸はもともと改憲論者であり、安保改定に当たっても国家の主権拡充を狙っていたことはいうまでもない。

歴史と世界の中での主体性
  今回の選挙でも、経済の継続的発展か、財政再建かの路線選択については、一応活発な論議が交わされたものの、基本的な国家のあり方(憲法問題、防衛、安保、危機管理など)については、各党ともほとんど触れようとしないで先送りしている。
  いずれにしても最近の世界の歴史が示しているように、超大国アメリカにつづく中国、ロシアの三強のはざまにある日本が、その存在感を明らかにするため何をなすべきか、何を主張するか、国会のみならず、国民の間にも論議がもり上がることを期待したい。
(元NHK記者・1923年生まれ / NHK記者OB仲間が発行している「BK会報2000年7月10日号」に掲載された「安保40年」特集から転載)
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