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「平壌行き」が「パリ行き」に(岩垂 弘)2010年4月

 「北朝鮮の平壌に行くつもりがパリにきてしまったって。パリから見れば、平壌は地球の裏側じゃあないか。いったいどうしたんだ」

  フランス共産党機関紙「ユマニテ」本社の近くにあった朝日新聞パリ支局を訪れた私に、牟田口義郎支局長はそう言って目を丸くした。1970年4月24日のことである。

安保取材で平壌へ

 「岩垂君、頼みがある。ご苦労さんだが、平壌に行ってきてくれないか」。1969年暮れのことだ。有楽町にあった朝日新聞東京本社編集局内で、政治部次長の今津弘氏(その後、論説副主幹、調査研究室長)にそう声をかけられた。当時、私は社会部員で、隣が政治部だった。他部のデスクからの突然の依頼にびっくりしたが、聞けば「頼み」の内容は次のようなものだった。

  明年(1970年)には日米安保条約が大きな政治課題となるだろう。1960年に激しい政治的対立と混乱のうちに締結された新日米安保条約が、70年6月23日に10年の固定期限が切れるからだ。条約を自動延長するか、破棄するかをめぐってまた与野党の激突が予想される。「安保反対」の大衆闘争も再燃するだろう。このため、政治部を中心に70年春に日米安保問題に関する企画を計画している。そのなかで、周辺の諸国、とくにアジアの隣国がこの条約をどうみているかを紹介したい。そこで、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に行き、この国の政府の見解を取材してきてほしいんだ。
 
  当時は(今もそうだが)、日本と北朝鮮とは国交がなかった。したがって、両国間に人の往来はほとんどなかった。しかも、日本政府は北朝鮮への渡航を禁止していた。だから、新聞社が記者をこの国に派遣する手だてはなかった。今津次長は言った。「君は一度、この国に招かれて入国しているから、もしかしたら入れてもらえるかもしれない。再挑戦してもらえないか」

  私は一年数カ月前の1968年9月に北朝鮮の建国20周年記念行事を取材するために、毎日、読売、共同通信の記者とともにこの国を訪れていた。

 日本での北朝鮮の窓口となっていた在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に相談すると、「平壌の朝鮮対外文化連絡協会(対文協)に入国申請の電報を打つように。その際、共和国政府の信頼が厚い著名人の推薦があると有効かもしれない」といわれた。

  そこで、取材先の1人で個人的にもお付き合いいただいていた、北朝鮮との友好を目指す団体「日朝協会」の畑中政春理事長に推薦の電報を打ってくれるよう頼んだ。が、意外にも断られた。畑中氏は第2次世界大戦中の朝日新聞モスクワ支局長。独ソ戦の模様を伝えるそのモスクワ電は内外の注目を集めた。戦後は東京本社外信部長に就任するが、連合国軍総司令部(GHQ)によるレッドパージで朝日を追われた。

  そうしたいきさつもあって、畑中氏としては、かつて勤務していた新聞社からの依頼に気が進まなかったということであろうか。それとも、ほかに理由があったのだろうか。

  そこで、私は、何度も訪朝の経験がある岩井章・総評事務局長に推薦の電報を打ってくれるよう頼んだ。岩井氏は快く引き受けてくれた。

 私自身は、そう期待していなかった。ところが、「岩垂記者を招待する」との電報が、対文協から届いたのである。70年2月下旬のことだ。「4月下旬に入国されたい」とあった。私は渡航準備を始めたが、その最中に私の意気込みをさらに膨らませる事件が起きた。「よど号事件」であった。

  この年3月31日、反日共系の赤軍派学生9人が羽田発福岡行きの日航機「よど号」(乗員・乗客138人)を乗っ取り、機長に北朝鮮に向かうよう命じた。同機が韓国の金浦空港に着陸したことから、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとなって同機に乗り込んだ。同機は4月3日、北朝鮮の平壌に到着し、山村次官は犯人たちを残して帰国した。

  この事件は内外に衝撃を与えたが、私自身は胸がわくわくするのを抑えることができなかった。「今回の平壌行きは、なんとタイムリーな訪朝だろう。向こうに着いたら、直ちに赤軍派学生にインタビューしよう。日本人記者として最初に彼らに会うことになるのだから、大スクープ間違いなしだ」

モスクワで立ち往生

 4月16日、私は1人で羽田から日航機でモスクワへ向かった。モスクワの北朝鮮大使館でビザ(入国査証)を受け取り、そこから平壌行きの航空便に搭乗する予定だった。

  ところが、である。北朝鮮大使館で対文協からの電報を提示してビザの申請をすると、「あなたの招待は取り消された」と通告された。あまりのことに、私は「今さらそんなこと言われたって」と仰天してしまった。まさに茫然自失であった。

  朝日新聞モスクワ支局員の木村明生氏(その後、モスクワ支局長等を経て青山学院大教授)が大使館を訪ね、ビザを交付するよう本国にかけ合ってほしいと要請した。東京では、社会部が、朝鮮総連に事態打開のための努力を要請した。

  しかし、ウクライナホテルに泊まりながら1週間粘ってもビザは発給されなかった。モスクワ滞在が認められる通過ビザの期限は1週間。ついに、明日にはソ連を出国しなくてはならない、というピンチに立ち至った。

  しかし、羽田行きの航空便はない。というのは、このころは日本航空とソ連国営のアエロフロートの間で羽田―モスクワ間共同運航が始まったばかりで、しかも週2便のみ。次の羽田行き便を待っていては通過ビザが失効し、不法滞在で逮捕されかねない。ならば、ビザ無しで入国できる国に向けて直ちに出国する以外にない。絶体絶命、万事休す。かくして、私は4月23日、モスクワを離れ、フランスのパリに向かった。

  余談だが、ビザ発給を求めて過ごしたモスクワの1週間はまことに心細かった。なにしろロシア語ができないので、戸惑うことばかり。そんな日々をなんとかしのげたのは、当時、日本からモスクワ大学に留学中だった袴田茂樹氏に出会えたからだ。袴田氏には通訳の面でお世話になった。同氏は帰国後、青山学院大教授(専門はロシア社会論)になった。

やむなくパリへ脱出

 パリのオルリー空港に着いたのは夕刻だった。夕闇が迫っていた。飛行機を降りると、まっすぐ日航のカウンターへ向かった。出発直前、日航モスクワ支店に「パリでの宿を手配してもらいたい」と頼むと、職員が「オルリー空港へ降りたら日航カウンターに立ち寄ってください。そこの職員にこちらから話しておきますから」と言ったからだった。が、カウンターはすでにクローズされ、職員の姿はなかった。日航のパリ支店に電話すると、時間外なのか、応答がない。朝日新聞パリ支局に電話しても応答無し。文字通り途方に暮れた。暗くなった空港ビルから外を見ると、ホテルがあり、その扉を押した。幸い空き室があり、なんとか宿にありつけた。

  翌潮、朝日新聞パリ支局を訪ねたわけだが、この際、しばらくパリに滞在しようと思い立った。なにせ以前から一度は訪れてみたいと憧れていた“花のパリ”である。それに、帰国しても、すぐゴールデン・ウイーク。ならば、ここで少し見聞を広めて帰ろう。そう長い期間でなければ会社も許してくれるだろう。そう決め込んだ。

  まず、観光である。マロニエの新緑が目にしみる中、凱旋門、エッフェル塔、ルーブル美術館、オペラ座、ノートルダム寺院、サクレ・クール寺院、モンマルトル墓地、バスティーユ広場……と、地図を頼りにめぐり歩いた。どこもかしこも、私には目新しく、名にし負うフランスの歴史と文化にじかに触れて感動した。

  それに、世界的な関心を集めていたフランスの学生運動の一端を垣間見ることができた。「五月革命」と呼ばれることになった、フランスの学生・労働者を中心とする大規模な反ドゴール(当時のフランス大統領)体制運動が、世界を揺るがしたのは1968年である。それが一時、下火になったものの、1969年秋からまた再燃したとのことだった。私は学生運動の舞台となったパリ大学ナンテール分校や、パリ郊外のバンセーヌ大学を訪れてみたが、両校とも学生たちと警官隊の激突の跡がまだ生々しく、校舎は荒れ、ビラが散乱していた。校舎の壁には闘争のスローガンが落書きされたままだった。

  5月1日のメーデーには、労働者による大規模なデモ行進に遭遇した。

 5月4日、パリ発モスクワ経由のエールフランスで帰国の途につき、5日、羽田に着いた。翌日、出社して後藤基夫編集局長(その後、常務取締役)に「平壌には行けませんでした」と報告すると、局長は言った。「そうか。それで、パリから直接帰ってきてしまったのか。ヨーロッパからアメリカを回ってくればよかったのに。旅費を十分持って日本を出たんだから」。そんなに急いで帰国せずに、各地を回って見聞を広めてくればよかったのに、というわけだった。「もっとゆっくり遊んでくるんだった」と悔やんだが、後の祭り。

  いまでは、とてもこんなことを言う新聞社幹部はいまい。新聞社は、この時代、まだ余裕があったということであろうか。

入国取り消しの理由は何だったのか?

 それにしても、北朝鮮はなぜ、私の入国許可を取り消したのか。モスクワの大使館員にいくら聞いても説明はなかった。そこで、類推するほかなかったわけだが、思い当たるものといえば、やはり「よど号事件」だった。事件直後に日本の新聞記者を受け入れ、犯人たちの動静や北朝鮮側の対応を取材させるのは好ましくない、との判断から、急きょ私の入国許可を取り消したのではないか。

  それに、もう一つ、「これも影響しているのでは」と思い当たる理由があった。それは、私が日本を発つ直前のことだが、中国の周恩来首相が4月5日に平壌を訪問し、金日成首相と会談したことである。中国と北朝鮮は1966年初めから国際共産主義運動のあり方をめぐって意見が異なるようになり、冷たい関係が続いていた。周恩来の訪朝は、こうした両国関係を修復するためのもの、との見方が強かった。いわば、この時期、両国関係は微妙な段階だったと見てよい。そんなこともあって、この時期に西側の記者(私)を入れたくなかったのではないか。私には、そう思われた。

約束を果たした北朝鮮

 ともあれ、私はその後、北朝鮮当局に対し、機会あるごとに「入国許可取り消しは納得できない。入国させるという約束を果たすべきだ」とアピールし続けた。いかなる理由であれ、外国人に対しいったん入国を認めておきながら、直前になって理由を示さずに取り消すというのは失礼であり、国際信義に反すると考えたからだ。

  1973年5月に北朝鮮の記者団(団長は鄭準基・朝鮮記者同盟委員長)が来日した(確か日本新聞協会の招きだったと記憶している。北朝鮮の記者団の来日は、これまでのところこの1回で、その前もその後もない)時も、私は鄭団長に会見を求め、入国許可取り消しの不当性を訴えるとともに改めて入国許可を出すよう申し入れた。

  その結果だろうか、「北」の対文協は1978年、「岩垂記者を招待する」と伝えてきた。私はもうあきらめていたから、「北」の対応に少なからず驚いた。入国許可取り消しから8年、「北」はついに約束を果たしたのである。

  この年の10月、私は中井征勝写真部員とともに北朝鮮を訪問した。滞在中、鄭準基氏にインタビューする機会を得た。同氏はこの時、副首相のポストについていた。

 こうした経験から、私は教訓を得た。それは「自ら省みて自分の考えにやましいことがないと思ったら、あきらめずにそれを相手側に粘り強く伝えてゆくこと。そうすれば時として道が開けるかもしれない」ということだった。(朝日新聞出身 2010年4月記)
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