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「渦巻くスパイの影」(森脇 逸男)2010年2月

 そのときは格別何とも思わなかったのに、後になって気になる取材があるものだ。

 1967年の暮れ、新潟にいた。翌68年の元旦からの社会面の連載企画「この日本の中で」の取材だった。サブタイトルは「渦巻くスパイの影」で、かなりおどろおどろしい。

  12月の初め、いや11月の中ごろだったか、渡井真デスクと深江靖、浅野秀満、それに小生の遊軍3人が青木照夫社会部長に呼ばれ、「正月の続き物にスパイをやってくれ」と言われて、大いに面食らった。

  スパイと言えば、まだ子どもだった戦時中、「壁に耳あり。戸板に目あり」と、外国人と見ればスパイと思えと言わんばかりの教育をされたことや、ゾルゲ事件、それに戦後もラストボロフ事件などがなかったわけではないが、わが関心事からは遠かった。

  「どうして今ごろスパイなんですか」と問い返すと、「編集局長命令だ」という返事だ。当時の編集局長は社会部長時代に新宿暗黒街の粛正や「東京租界」の摘発、「ついに太陽をとらえた」連載で勇名を馳せ、読者が何を欲しているかに天才的な勘を持つ原四郎だった。一も二もなく取材に取りかかった。

  67年から68年にかけては、ベトナム戦争、中国の核開発、若者の反乱など、不安定要因が世界に広がるさなかだ。読売新聞は68年の年間テーマに「アジアの平和と日本の安全をどうして守るか」を選んでいた。スパイ → 国と国の間の情報戦争を連載企画のテーマとしたのも、その一環だったのだろう。

 もっとも、当時はそこまで考える余裕もなく、取りあえず、当時、ソ連に情報を流して北方海域で拿捕されずに操業しているとうわさされていた北海道の漁業者や、北朝鮮への情報や資材の密輸ルートではないかと目されていた北朝鮮への帰国船、日本の隠された情報機関と見られる自衛隊の調査学校など、手分けしてスパイの〝現場〟に飛ぶことにした。

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 私がまず担当したのは、在日朝鮮人の「祖国」帰還事業だ。この帰還事業は59年に日本と北朝鮮の赤十字社が協定を結んで始まり、84年の最後の帰国船までの間、約9万3千人が日本から北に帰国したとされる。このうち6千数百人は、日本国籍を持つ配偶者や子どもだった。後日、帰国者たちが「祖国」で資本主義の害毒に染まった腐敗分子だとして最低の扱いを受け、過酷な労働を強いられ、強制収容所に送られたり、処刑されたりするケースも少なくないことが次第に明らかになるが、当時はまだ帰国事業は、日本で差別され、貧しい暮らしを余儀なくされ、将来の展望も持てない在日朝鮮人を〝地上の楽園〟である「祖国」に帰還させる人道的な事業だと見なされていた。

 新潟港が帰国船の寄港地だった。帰国希望者は新潟市に設けられた赤十字センターで4日間を過ごし、帰国の意思などを確認された後、乗船して北朝鮮の清津港に向かうという段取りだ。

 これに対して、北朝鮮はこの帰国船の往復を最大限に利用して朝鮮総連との連絡、工作員の送り込み、戦略物質の輸入などを図っているのではないかというのが、治安当局の見方だった。

 取材は冬を迎えた新潟で、県警本部や海上保安部、入管、税関、港湾事務所などを回って話を聞き、新潟港に停泊中の「ヤクーチャ号」(万景峰号はまだ出来ていなかった)を訪れて、船内で朝鮮総連の現地代表者にインタビューした。元米軍キャンプだったという赤十字センターも訪れて、帰国船の出航を待つ帰国者家族たちに会った。

 それぞれどんな話を聞いたのか、覚えているのは、役所は予想通り口が堅く、正面からでは紋切り型の言葉しか聞けなかったこと、一方、総連の側の応対は柔らかく、スパイなどとんでもないと多弁だったことくらいで、今はすべて忘却の彼方だ。

 ただ、12月の新潟は、昼間は晴れていても夕方になると必ず冷たい雨になる。新聞社の駆け出し時代を温暖な静岡で過ごした私には想像もできなかった厳しい気候条件だったことが、今もくっきりと記憶に残る。加えて、赤十字センターで会った帰国者家族が、幼い子どもを抱え、明るく希望に燃え、これから自分たちを暖かく迎えてくれるだろうと信じる祖国について、それぞれの思いを語ってくれたことが忘れられない。

 皆さん、新調したと思われるピカピカの衣服で、ややぎごちない身のこなしだった。話を聞きながら、新たな天地でこれまで味わえなかった幸せをつかんでいただきたいと、心から思ったものだ。

 しかし、その家族たちは、その後果たしてどのような運命をたどることになったか。何年か十何年かの後、「凍土の共和国」など、北朝鮮の人道主義のベールをはがす報道に接して、希望にあふれた帰国者たちのことが思い出されてならなくなった。あの子どもたちに、満足な食が与えられたのだろうか。親たちは強制収容所で苦しんではいないか。横田めぐみさんはじめ、多くの日本人が、暮夜ひそかに日本から北に拉致されるという、信じられない蛮行が繰り返されたのは、その後かなりの年月が経ってからであり、その真相が明らかにされるのは、さらに何十年もの後になるが、このときの家族たちの取材は、冒頭に書いた「そのときは格別何とも思わなかったのに、後になって気になる取材」の一つとなった。

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 さて、われわれの連載は、68年の元日以後20回に及んだ。ソウルで活動していたCIA、日本のライフラインや防衛産業を隅々まで視察した学術交流団、偽造ビザで在日米軍に出入りしていた貿易商、某国大使館に取り込まれた国家公務員など、それぞれの回に「おとなしいアメリカ人」「寒い国から来た男」「ネロと呼ばれて」など、スパイ小説もどきのタイトルをつけたのは、ともすれば暗い話になりがちなスパイ談義に若干の彩りを添えようという遊び心だった。最終回にはジョージ・オーウェルの「1984年」を引用した。その脱稿の日、皆で当時上映中の映画「007カジノロワイヤル」を見に行ったのは楽しい思い出だ。

 ところが、最終回が紙面に掲載される3日前、日本海の元山沖で、アメリカ海軍の情報収集艦「プエブロ号」が北朝鮮に拿捕され、乗員83人が捕虜になる、いわゆる「プエブロ号事件」が起き、国際緊張がにわかに高まった。

 この事態に対処しなければと、われわれの連載終了の2日後からは「日本海は緊急体制」という7回の緊急短期連載がスタートした。まるでわが連載に箔を付けるために起きた事件だとささやき合った。

 私が社会部にいたのは1961年から74年、それに81年11月から翌年3月まで。ヒラ記者時代はサツ回りから労働班を担当した後、遊軍が長かった。抜いた抜かれたに余り縁のないやつだと上司に見抜かれたためだろうと思っている。いろいろな企画を担当したが、このスパイ連載は印象深かったものの一つだった。(文中敬称略)                       (読売新聞OB 2010年2月記)
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