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「記者と政治家のふれあい」考(羽原 清雅)2010年1月

  近年、政治家が公開の記者会見などで見せる、記者に対する対応の仕方を見るとき、「どこか、おかしいな」と思うことが少なくない。

  政治家、記者、視聴読者(国民)の三者の関係にはそれぞれの立場があり、それぞれの相手に対する期待像がある一方で、批判もある。ここでは、政治家と記者との関わり方のおかしさに限定して、感想を述べてみたい。

                       先輩記者に学ぶ

  新聞社の地方記者として訓練を受けて4年余、政治部に配属されたのは1967(昭和42)年、「黒い霧解散」の佐藤政権のころだった。当時の佐藤首相は、記者会見でも、国会答弁でも、なにかまとまらない表現や言い回しが多かったが、この衆院選に大きくは負けなかったことで自信を得たのか、これを機に歯切れがよくなった印象がある。

  駆け出しの政治記者として、藤山愛一郎(1897-1985)の派閥会見に出向くと、毎日の西山太吉記者がだみ声で藤山に語りかける態度が印象に強かった。長い経験と個性に裏付けられていたのか、横柄にも取れる言葉遣いに、自分には出来ないし、付き合えない世界に来てしまったな、と自信を失ったような気持ちになったことがある。むしろ、穏やかな藤山の対応に、さすが、と思わせるものがあった。西山は若かったのだろう。

  同じころ、自民党の記者クラブで背中合わせの席に、渡辺恒雄がデスクかキャップで座っていた。渡辺はすでに「派閥」「大臣」「政治の密室」などの著作があり、この人が書いたのか、などと遠くで感動したことがある。駆け出し記者を怒鳴るとき、ナルホド、と他社の自分が怒られているような気持ちになっていたこともある。

  ときに政治家らしき人との電話も聞こえてきた。聞き耳を立てたことも事実だが、それ以上に狭い記者スペースでの大声は聞こえてくるのだ。中身は記憶にもないが、提言もあれば、叱責もあり、これまた威張るというか、横柄というか、すごいのだ。そのすごさは、その後の経営姿勢や、巨人軍問題での言動に示されていた。

  しかし、どこかなじめないものがあった。それは、自分の政治記者生活のなかでずっと続いていた。そのことに関連していえば、自民・民主の大連立工作(2007年)が表面化して、渡辺がこの裏にいたことが報じられたとき、この対応について、筆者の出身母体である朝日新聞から取材されてコメントしたことがある。これは、共同通信出身の原寿雄が「ジャーナリズムの可能性」(岩波新書)で要約しているので、引用したい。

  「朝日新聞の政治部時代に自民党担当だった羽原清雅は、『政治家と一体となってしまう人間と、記事と付き合いとは峻別する人間と二種類いた。渡辺さんは、前者がそのまま新聞社のトップにまで上った特異な例』」(朝日新聞・2007.12.8付)

  記事には出なかったが、社長としてよりも、日本新聞協会会長でもあったからこそ、その姿勢を問題視したつもりだった。

                       駆け出しの右往左往

  朝日政治部に配属されたときにいわれたのは、「政治家に『先生』というな」ということだった。権力に距離を置け、キャリアある政治家に呑みこまれるな、政治家におもねったり、同調したりするな、とかなり重い基本を教え込まれた気分だった。

  戦前の政治家紹介の記事には時折、「〇〇君、こころせよ」などと訓戒を垂れるかの表現が見受けられる。だが、どこかにベッタリ感が読み取れるのだ。威張りつつ、へつらうようなものがあり、これは自分はやるまい、と思ったものだ。

  政治部配属のとき、「まあ、先輩のやっていることをよく見ていなさい」が、政治部長の第一声だった。あまり期待されていないな、とも感じられたが、間もなく、それもそうだな、と思うような役立たずの状態が続いた。

  担当させられたのは、右派と左派というか、ハトとタカの顔ぶれだった。先輩たちは、それぞれに派閥を割り振られ、要人食い込みの任があった。駆け出しは、当時まだそれほど政界の話題の中心にはならなかった政治家群を一応、監視しておけ、といったことだったように思う。

  タカは、賀屋興宣(1889-1977)と、相川勝六(1891-1973)。

  賀屋は、大蔵官僚から近衛・東条内閣の蔵相となり、A級戦犯として終身禁固刑の判決を受けたあと、戦後衆院に当選した人物。あまり若い記者には会っていなかったからか、けっこう饒舌に軍人遺族などの苦境などを話してくれた。東条の人物像については「まあ、それはいいだろう」と避けていた。ひまつぶし、程度のあしらいだったな、とあとで思った。また、先入観もあった。歴史的な人物に会ってみたいという気持ちの一方で、「A級戦犯」というレッテル越しに見ていたのだろう。

  のちに、UP記者として東京裁判を長く取材したアーノルド・C・ブラックマンの「東京裁判―もう一つのニュルンベルク」に、賀屋は「小心者」「個性のない官僚であり、報告書に判を押し、役人風を吹かせ、行政官であることを誇り、新秩序を作る上流の人々との交際を満喫した人物」とあるのを読み、そうか、と思ったものだ。

  ところが最近、松尾尊兊が書いた「石橋湛山と賀屋興宣―水と油のごとき二人の意外な関係、一通の手紙から」(「自由思想」116号)を見ると、彼等は昭和初期に財政・経済の勉強会を持っており、湛山から賀屋宛の表題の手紙には「(釈放時に)御見舞いにも御祝いにも参上せず失礼いたしました。・・・巣鴨より御出所の御挨拶を拝見しおくれながら御喜びを申上げます」とある旨を紹介した。儀礼だけの書状だったかもしれないが、この奥行きはわからない。

  要は、基礎知識のない駆け出し記者が、わけもわからずに「会った」にすぎなかった。

  もう一人の相川は、内務官僚で保安、特高課長などを務め、岸信介らとともに新官僚運動に参加、大本教事件、二・ニ六事件の摘発などに関与したあと、宮崎県知事などを歴任し、大政翼賛会局長、小磯内閣厚相を務め、公職追放後に衆院に甦った。

  彼は、履歴のイメージと違って温厚だった。当時、自民党内で治安関係に力を入れており、60年安保時代の学生だった筆者の言うことを、にこやかに、よく耳を傾けてくれた。そして、国家の危機から国民を守る重要性を説いた。反発的、抵抗的な気持ちで会いに行ったのだが、なんとなく判る点もあったように思ったものだ。

  このタカ派の二人には数回ずつしか会っておらず、とくに記事にした記憶はない。でも、事前に調べないで取材先に対する先入観を持つのはミスリードしかねないことや、考え方の好悪は別として極力白紙で話を聞くことが、かえって判断しやすくすること、などを学んだような気がしている。

  筆者は、このあと佐藤派を担当することになり、保利茂(1901-79)、松野頼三(1917-2006)、坪川信三(1909-77)、塚原俊郎(1910-75)、細田吉蔵(1912-2007)といった、いわゆる保利人脈に長く付き合うことになる。この人々を担当したのは、それぞれ別々の機会に出会ったもので、特に保利周辺だから、アプローチしたわけではない。この人たちは保守に固まっていて、ときに大きな距離感を抱かざるを得ないこともあったが、それでも取材の担当をはずれたあとも、みんな亡くなるまで付き合っていただいた。前段でのタカ派との経験が、この人々の群れに飛び込みやすくしてくれていたように思われる。とくに、保利と松野は三木政権時代、両極に対峙していたが、双方同時に取材できたことはいい記者経験であった。

  いま感じるのは、それぞれの立場こそ違っても、政治家と記者との信頼関係は十分成り立つし、相互の理解は可能だ、ということである。要は、記者は記者として権力監視という立場にあり、政治家は政治家として選挙区ばかりでなく国民一般に指針をアピールするべき立場にあって、その立脚する基盤は異なっており、このことを双方が十分認識していれば信頼も生れる、といまも感じている。

  ある保利担当の先輩が、書き過ぎというか、連絡の不徹底で保利の言うニュアンスとは違う記事が掲載されたことがある。このため、保利から「破門」されて夜討ち朝駆けを断られた。だが、間もなく解除され、通常の取材体制に戻ったが、これも日ごろの信頼があらばこそであり、ぎすぎすした怨念や敵対関係はなかった。書かれて不快ではあっても、それが意図的なウソ偽りでない限り、時間が信頼を回復してくれる。

  ある実力政治家が記事に憤激し、取材拒否が続いたことがあり、当時の部長が耐え切れなかったのか、その政治家のインタビューに政治面全面を開放して妥協を図ったケースがあった。両者のあり方として、どちらにも感心できない対応であった。誤りなら謝りかたの限度があろうし、誤りでなければ紙面を使うべきではないし、政治家としても怒ることがあるにせよ、可否双方の批判に対応する幅の広さがなければ民意はつかめない。

                       ハト派の豊かさ

  もう一方で担当したハト派は、佐藤内閣に盾突く、いわゆる親中国のグループだった。佐藤内閣は台湾に近く、アジア政策はアメリカに追随する立場から、親中国派を排除、一方のこのグループは対中国政策の変更を迫って、激しく佐藤批判を続けている時代だった。日中間にアヒルの水かきといった動きがクローズアップする以前のことで、少数派ながら信念を見せたその言動は大きな影響力を持てないでいた。

  「付き合いやすいぞ」と、先輩にいわれて、まず出かけたのは川崎秀二(1911-78)のもとだった。NHK出身で、報道には理解があった。記者を歓迎してくれるので、一年生記者も行きやすく、飲み屋に誘ってくれたり、恐妻家の彼を家まで送り届けたりしたことがなんどもあった。川崎の話を記事にしたところ、大きな扱いではないが一面に載り、それがルーマニア大使館で問題視されて、困った川崎から「きみ、説明してきてくれ」といわれたこともあった。

  その川崎が誘ってくれたのは、車椅子で時折登院していた松村謙三(1883-1971)の議員会館だった。川崎が、大きな声で、筆者のことを説明してくれて、イロハみたいな日中関係について聞いたり、佐藤政権の対中姿勢などに触れたりしたが、記憶に残るようなことはほとんどなかったように思う。川崎があとで、「おじいさんは都合の悪いことは聞こえないんだ」といいつつ、代ってあれこれ説明してくれることが多かった。

  そして、松村のところでたまたま会うことができ、川崎が紹介してくれたのが古井喜実(1903-95)だった。古井はすでに松村のもとで、川崎らとともに中国を何度か訪れていた。古井は老獪ながら、率直だった。時にはぐらかしたり、明快に佐藤政権に怒ったり、筋論をとうとうと述べたりした。当時はまだ、ヒマだったのか、茨城県知事の頃のこと、体力づくりのこと、厚生行政のことなど、多岐にわたる雑談をしてくれた。好きと嫌いがハッキリしていたように思う。一途ながら、周辺への気配りや読みがあった。シニカルで、議論好きで、佐藤首相の良い部分などを記者に言わせては、攻撃してみるといった楽しむ風情があり、そこに古井の政治感覚を覗かせるようなところが想い起こされる。

  どこかに、新聞記者に対する親しみがあり、若い記者を啓発したい思いがあったのかもしれない。

  そして、田川誠一(1918-2009)。この人は朝日新聞の政治記者としての大先輩だったが、口が堅く、慎重だった。冗談もほとんど出なかった。古井は「川崎君は君らにすぐ話すが、田川君は安心だ」と、ニヤリとしたこともある。

  新自由クラブ結成のころから、決然とした頑固さをもって既成保守に猛省を求め、厳しい批判を口にした。そして政治家を引退してからは、政治部OB 会に出てくることを楽しみにして、話題も広がって最期まで親しくしてもらった。

  宇都宮徳馬(1906-2000)は、古井と同様に日中国交回復に動いた人だが、古井たちとは軌を一にせず、おのれの道を進んだ。最期のとき、朝日新聞の「評伝」を書かせてもらったが、この人は政治家というよりもジャーナリストだ、と思っていた。記者たちが好きで、「悠々会」なる勉強の場を提供してくれた。各人の会費制だが、部屋を取ってくれて、50回ほど続いただろうか。年代は違ったが、初期には宮崎吉政、渡辺恒雄、細島泉、松下宗之らの会があり、「悠々会」はその続編だった。

  署名記事をよく読んでいて、時に記者の評価をし、不勉強を指摘した。しかし、その主張の内容にはフリーだった。記者を枠にはめる、といった姿勢は皆無で、政治家に対する激しい舌鋒とは明らかに異なり、ジャーナリズムの論評に敬意を払うようなところがあった。

                      今様の政治家に思う

  ところで、近年の実力的な政治家の記者会見を見ていると、おかしく感じることがある。

  麻生太郎の首相当時の記者会見では、記者に怒りを募らせ、蔑視や侮りを見せることが少なくなかった。あまり記者との場をつくらない小沢一郎幹事長は「きみ、憲法読んだことあるの」などと、苛立ちを見せ、居丈高になることが印象的だ。

  このおかしさは、政治家が相手にしているのは、面前にいる記者に対してではなく、活字や電波によってその発言内容、その姿や言動ぶりに触れる国民、つまり主権を委託した有権者に対して発言している、という基本認識が身についていないということからくる。   

  記者にとっての基本のひとつは、権力の監視である。だから当然、厳しい質問が飛び出し、政治家にとって弱点や不快と思われる指摘が続発することは覚悟できていなければならない。

  しかも、記者たちにはいろいろな手口がある。大いに密着して気を許すように仕向けながら、書くときには距離を置いて厳しさと客観性を確保する。あるときは、興奮と怒りを誘って本音を引き出そうともする。そうした手口を知り、挑発に乗ることなく、視聴読者にいい印象を与えつつ真意を伝え、十分説明するべく粘り抜けることが、練達老練の政治家なのだ。有権者を忘れて、目前の記者相手に興奮してしまっては、政治家としての資質に欠け、努力が足りないことになる。

  記者会見での記者たちの質問が核心を突かず、批判を浴びることも少なくない。これも、報道の立場からすると、民意に応えていないという点でさびしいことはいうまでもない。

  政治家と記者は、一体化してはならない。

  距離は近づいても、立場は異なる。視聴読者=国民を相手にすることは同じでも、かたや特定の政治政策を浸透させる立場、かたやその主張の問題点を示して判断材料を拡げる立場にある。

  だが、敵対する必要はない。好悪の情での関係ではなく、記者はむしろ相手の真意や本音、弱点やもろさを知るには政治家に、より深く接近するべきだ。政治家側は国民にアピールするために、メディアの機能をどうすれば有効に活用できるか、をもっと考えたらいい。

  記者は、政治家からアイデアや知恵を求められることがある。また、対立者側の情報を記者から得ようとしたり、仲介を求めたりするようなことがある。こうした場合に必要なことは、記者としての立場と政治家への距離感が重要だ。「こうしたらいいのでは」と自らの考えを述べてもいい。それを採用するかどうかは、政治家側の判断だからだ。しかし、ほかで得た情報は漏らすべきではない。これは、記者としての背信行為に当たる。政治家間の仲介や取り持ちも、記者と政治家の立場や、とるべき距離からして好ましくない。信頼関係とは、そう軽薄なものではない。

  政治家は、大体は記者たちよりも経験を積んだ年長者である。選挙に勝ち抜くだけの魅力もあり、個性もある。教えられることは多いのだ。

  とはいえ、個々の視聴読者=民意が第一である以上、政治家に利用されることはよくない。騙されてもよくない。見抜く力は必要だ。

  ときに、記者個人の政局観、政治方針が似ていることがある。だが、そのまま、ないし若干の客観性で覆うことで伝えるべきではない。やはり、距離感覚を持つことは記者にとっての基本だろう。日本の新聞のあり方として定着しているのは、雑報と論評とが峻別されていることで、これは大切なルールである。

  特ダネはほしい。だが、身を売ってはなるまい。政治家と記者の間に距離を保つことと、信頼関係とはかならず共存できるものだ。その構築こそ、両者の鍛えるべき能力だろう。

  記者クラブ批判は、わからなくはないが、発表もので紙面をつくろうなどと思って、便宜主義に走る記者は記者ではないし、その程度の者は多くはない。記者クラブは政治家や官庁など、合理的、かつ時間の節約上、必要視されようが、個々の記者にとっては依存するための存在とは思われない。政治記事の多くは、ジグソーパズルのひとこまずつを積み上げるように、多数の記者の持ちよった断片を吟味し、集積して成り立っている。記者クラブへの依存体質、と簡単に批判する傾向もあるが、実態への無知がそういわせるのだろうか。

  記者とはなにか。その原点をいまも考えて、政治家と記者それぞれの立場に忠実でありたい。個人としては記者生活を離れて長くなったが、その基本的なありようは今後も変わることはないだろう。
                                          (朝日新聞出身 2010年1月記)
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