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気づくのが遅れたソ連の自壊(住川 治人)2009年12月

 今月の日本記者クラブ会報に小林和男さんが「ゴルバチョフにかかされた冷や汗」という話を書かれている。1985年に共産党書記長になったばかりのゴルバチョフがソ連外交の重鎮グロムイコを最高会議議長に祭り上げ、シェワルナゼを外相にするという予想外の人事をしたときのエピソードである。グロムイコの外相続投を信じていた小林さんは「シェワルナゼって誰だ」と、腰を抜かしたそうだ。NHKのベテラン特派員としてソ連報道に辣腕をふるったロシア通の小林さんにして冷や汗をかくことがあったのかと、いくぶんほっとしながら読ませていただいた。

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  ソ連崩壊の激動の時期に私もモスクワ特派員をしていた。とはいえ、こちらはロシア語もできないズブの素人だ。若いころ朝日新聞の大先輩に勧められてロシア語をかじろうとしたことはある。しかし、あのキリル文字や難解な格変化などを相手にして、あえなく挫折した。外報記者となってから、アメリカと世界を二分するソ連に関心がなかったわけではないが、学生時代にマルクスの資本論を100ページも読まずに投げ出したせいか、共産主義には近づきがたかった。ソ連本として興味深く読んだのは、スミスの『ロシア人』ぐらいのものだ。自由がない社会の実態を生々しく描いた『ロシア人』を読んで、日本の特派員はなんでこんな記事を書かないのか、などと気楽なことを考えていた。

  小林さんがゴルバチョフに冷や汗をかかされた翌年、ゴルバチョフ改革で変化が起きていたソ連の連載をするため、取材チームの一員としてソ連を旅した。取材はノーボスチ通信をとおして申し込み、ノーボスチの記者が通訳兼お目付け役として同行する。○○研究所の部長に経済改革の話を取材というと、こちらが質問する前にまず30分は役にも立たない演説を聞かされるというソ連取材の洗礼を受けてイライラしたが、それでも変化の風は吹き始めていた。非公認団体などという市民グループの名簿をイギリスの研究者から入手してこっそり取材できたし、リトアニアの首都ビリニュスでは、民族独立を求めて非合法デモを組織したリトアニア人活動家との接触に成功した。西欧の亡命リトアニア人組織を通じて密かに連絡を取った上での取材だが、ブレジネフ時代なら不可能だったろう。

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  その次にソ連に行ったのはモスクワ支局長として1990年2月に赴任した時である。なぜロシア語ができないのにモスクワに特派されたのか良く分からないが、朝日新聞の人事はそれほど計画的なものではない。ロシア語使いに経験や年恰好の適当な者がたまたまいなかったせいではないか。おかげでこちらは冷や汗どころか悪戦苦闘の連続だった。

  モスクワでは外国人団地に住まわせられるが、アパートには盗聴器が仕掛けられているから要注意。なにしろ水道が壊れたと部屋の壁に向かって叫べば工事人が飛んでくる、という冗談があるほどだ。ルーブルの公定レートは高いが、ヤミドル屋はKGBに通じているから危険だ、などの忠告は受けた。それに新聞記者を20年以上もやっていれば、どんなところに飛び込んでもなんとかなるという厚かましさはある。とはいえ、赴任の直前にレーニンの『国家と革命』やボッファの『ソ連邦史』を読んだばかりの付け焼刃である。共産党の理論だの党規約といった話になるとお手上げだった。

  幸いなことにソ連は激動の時期に突入していた。オールマイティーの共産党は大統領制の導入によって権力を失い、共産主義理論などは間もなく無意味になった。バルトから連邦崩壊が始まり、ゴルバチョフのソ連とエリツィンのロシア共和国との二重権力状態、巻き返しを狙った保守派の3日クーデターという息つく暇もない事態の推移を、無我夢中で追いかけている間にとうとうソ連は消滅してしまった。まさにハラハラ、ドキドキの毎日である。ゴルバチョフがクリミアの別荘に幽閉されたクーデターの時には、夏休みの家族旅行でモスクワから遠く離れた中央アジアの古都にいるというドジもした。

  これだけ変化が目まぐるしいと表面的な出来事を報道するだけで精一杯になるから、しんまいのモスクワ特派員でもあまり粗は目立たない。だが、ロシア語ができないので残念なことは多かった。ドサクサの時代である。ひところはクレムリンの最高会議議場に外国人記者でも自由に出入りできた。ロビーで議員に話しかけることも容易だったが、英語が話せる相手は限られていた。ソ連が消滅したころには秘密文書や情報の売り込みも激しかった。野坂参三ら第二次世界大戦前にソ連で教育を受けていた日本共産党メンバーの関係資料を買わないかという話もあった。2万ドルで売るというので見に行くと、金庫から書簡や報告書など一箱分の書類を出してきた。歴史の裏面を覗くようで興味深い内容だったが、東京と相談のうえ断った。まさに体制崩壊でなんでもありという状態である。

 ゴルバチョフやシェワルナゼとのインタビューもしたが、いまでも記憶に残るのは握手した時の感触がまったく異なったことだ。ゴルバチョフの手はがっしりとして大きく、掌は肉体労働者の手のように硬かったが、シェワルナゼの掌はビロードのように柔らかだった。ゴルバチョフは若いころ農場で働いていたから手がごついのかと想像した。だが、その後東京の日本記者クラブでパレスチナ指導者のアラファトと握手した時に、アレっと思った。武装闘争の修羅場を潜り抜けた猛者の掌がシェワルナゼと同じように柔らかかったのである。掌は必ずしも人生を物語らないのかもしれない。

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 こんなわけで私のモスクワ特派員生活は読者を唸らせるような裏話もないまま2年半で幕を閉じた。赴任した時すでにソ連は混乱の中にあったが、食料品が店頭から消えても人びとはじっと耐えていた。保守派のクーデターが失敗し、エリツィンがソ連共産党の解散を命じた時、意外だったのは、どこからも大きな抗議は起こらなかったことだ。ミンスクでエリツインらが連邦解体を決めた時も、人びとは静かに受け入れた。ソ連の体制崩壊は上から起こされたものであって、民衆が起こした反体制運動の結果ではない。民衆の忍従がロシアの国民性のせいか、治安当局の監視が厳しい全体主義のせいかは分からない。しかし、表面的な忍従の陰で人びとは共産主義体制を見捨てていた。

 共産主義体制の崩壊が現実味を帯びてくると、人びとは心の内を明かし始めた。ロシア語のできない私に付き添って通訳をしてくれた助手のベルゾンもその一人だ。

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 ユダヤ人であるベルゾンは学校教師の影響もあって若いころから共産党を信じていなかった。大学の資本論の試験はカンニングでパスした。資本主義経済の授業は真面目に勉強して最高点をとったが、社会主義経済はまったく勉強しなかった。口頭試験で「社会主義経済について何を知っているか?」と聞かれたので、「社会主義経済は資本主義経済よりあらゆる点で優れているということだ」と答えたという。教授はベルゾンの考えを良く知っていたが、それ以上追及せずに合格させてくれた。これは1960年代のことである。ソ連は宇宙開発でアメリカを凌いでおり、社会主義はまだ輝きを失っていなかった。スターリンの恐怖の時代が去ったとはいえ、マルクス・レーニン主義を掲げる共産党独裁の全体主義体制は堅固そのものだったが、密かにシニシズムが根付いていたのである。

 ソ連が作り上げた中央計画経済の矛盾も人びとは知っていた。ベルゾンの友人は建設公団の中堅技師だったが、あるとき共産党地区委員会に呼びつけられた。技師は工事を105%達成しており問題ないはずだったが、車両用燃料油の受入れ量が少なすぎるというのだ。工事を100%達成するには70トンの油が必要のはずだが、記録では55トンとなっていると追及された。言い訳して切り抜けることもできたが、地区党委書記とけんかしていた技師は、虫の居所がわるくて「不足分の油は受け取っていない」と言ってしまった。

  技師の現場に割当てられた燃料油が55トンしかなかったことは事実だ。だが、そうなるとなぜ目標の105%も工事ができたのか、ということになる。追及を受けた技師はからくりを明らかにした。それは現場運転手がもらう賃金の仕組みにあった。

 賃金は1日20ルーブルだが、仕事がない日は3ルーブルに減る。そこで運転手は身銭をきって燃料油を買ってくる。こうして割当てを受けた燃料油が不十分でも、工事目標は達成される。だが問題は、社会主義のソ連では、燃料油といえども金さえ出せば買えるというものではない、ということだ。横流しされた油をヤミ市場で買ってくるのだから違法である。もちろん、現場としては、燃料油の割当てが足りないのに100%のノルマ達成を命令されるので、仕方なくやっていることだ。そもそも燃料油を十分に割当てない方が問題だし、工事現場ならどこも似たようなことをしている、と言いたいところだが、そんな抗弁が許される社会ではない。技師は党籍をはく奪されたうえに職も失ったのである。

  荒廃は静かに広がっていた。穀物の収穫期には都会の勤労者が動員される。ベルゾンが勤めていた研究所の仲間と刈り入れの手伝いに行った時のことだ。集団農場の宿泊施設に暖房がないので文句を言うと、その農場の第一書記は「おれに、どうしろと言うんだ」と不貞腐れた。そして、「今日だって小麦の刈り入れをしたコンバインの運転手が2人もコンバインごといなくなった。きっと近くの町に小麦を持って行って売り飛ばし、その金でウォツカを買うのさ。あいつらは何日か戻ってこない。戻ってきたって、おれは辞めさせることもできない」とボヤクのである。ソ連の農村は貧しかった。でこぼこ道に沿ってあばら家が並んでいるだけの貧相な村をいくつも見た。もっとも、私がいた頃は、モスクワとレニングラードを結ぶ幹線道路さえ舗装されていなかった。車の修理のため陸路ヘルシンキに行ったとき、国境を越えてフィンランドに入ったとたんに、手入れの行き届いた畑が広がり、道路も住宅もピカピカになった。あまりの落差に驚いたものである。

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 ベルリンの壁が崩れてソ連が消滅する。私たちの若いころには想像もつかないことが起きた。だが、ソ連の空洞化はそのずうっと前から進んでいたのではないか。ベルゾンのエピソードを紹介したのは、それを言いたかったからだ。後から振り返ってみれば、人びとに見捨てられた共産主義体制が自壊するのは当然のことだった。しかし、特派員として私は、理想とかけ離れたソ連の現実をつぶさに知るのも、その現実に苦しむ人びとが共産党への信頼を疾うに失っていることに気づくのも、残念ながら遅すぎた。

  取材余話とはいえない話になってしまったが、お許しいただきたい。私にとって、モスクワ時代は懐かしくもあり、ほろ苦くもある思い出である。(朝日新聞出身 2009年12月記)
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