ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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出会いの運(伊藤 光彦)2009年9月

 ふりかえって、金運も出世運もいたって乏しかった。だが、あまり後悔はない。出会いの運にめぐまれた。異性も含まれるけれど、それは女運というのとは異なる。男女を問わず、すぐれた人、おもしろい人、情報をもたらしてくれる人に、もったいないほどよく出会えた。私は耳学問一本の人間であるので、まがりなりも新聞記者生活を続けられたのは、ひとえにこの運のおかげであると思っている。

  現役時代、とりわけその後半は国際畑を長らく担当したから書いた原稿の分量はそちらのほうが圧倒的に多いだろうが、その間も気分としてはずっと社会部記者だった。若くていちばん元気だったころの8年間を、毎日新聞の大阪本社社会部で鍛えられた経験がしみついている。事件に弱いとデスクに見通されたのか、警察の記者クラブに常勤したことはない。もっぱら遊軍勤務だった。遊軍とは戦場における遊撃隊の意だそうで、こんな時代がかった業界語が今も残っているか知らないが、いわば無任所の何でも屋である。私が好きで精を出したのは街だね拾いである。決まった取材対象があるわけでない。日々、大阪の街をぶらぶら歩いて観察する。手当たりしだい人と会って話を聞く。犬も歩けば棒に当たる、を頼りにしなければならない、ずいぶん効率の悪い仕事で、出会いの運に賭けざるを得ない。天に感謝するのは、あまり資質のない私が、その運にしばしば助けられたことである。

  酒飲み話でこんなことをつぶやくと、先輩などは、それはおまえが人付き合いがいいからじゃあないか、と言ってくれたが、全然違う。こんな例がある。

  ロンドンで仕事をしていた時分、後輩の支局員たちがせっせと記事を書いてくれて、こちらはヒマはあるしチエはないのでベーカーストリート221b番地のシャーロック・ホームズの探偵事務所を訪ねた。よく知られている通り、コナン・ドイルはホームズの仕事場をべーカー街221bという、当時はなかった地番に設定したが、その後街が発展してこの番地には住宅資金貸し付け銀行のビルが実在する。銀行の女事務員ひとりがホームズの秘書役として、今も日々舞い込むホームズ宛て探偵依頼の手紙の整理や返事書きを引き受けている。「ホームズは引退してサセックスの丘でミツバチを飼いながら余生を送っています。お引き受けできず申し訳ないがどうかご容赦を」と依頼人には書き送るのだそうだ。そんな話を聞いて事務所を出たのだが、このくらいのことはあちこちで書かれているだろうから新聞のヒマだねにもならない。

  その日の宵、何かもっとおもしろい話はないかと、ロンドンにある名探偵のいま一つの故地、ノーサンバーランド街のパブ「シャーロック・ホームズ」を訪ねてみた。思いのほかわびしい街で、暗い街路には人影少なく、霧が出ていた。なにやら薄気味悪い気がして灯の漏れる店に足を急がせた時のことだ。

  地から湧いたかのように、黒コート姿、山高帽をかぶった老人が道をふさいで現れた。ヴィクトリア朝の紳士さながらの風貌である。だが、髭に覆われた顔の奥に目が鋭い。私は、これぞジェームズ・モリアーティ教授だと直感した。シャーロック・ホームズの命をつけ狙った、かの犯罪組織頭目(『最後の事件』)である。紳士は「グッド・イーブニング」と低い声でつぶやいたきり、立ち去った。何も取材しなかったが、これだけで、私のロンドン・スケッチ小記事に画竜点睛ができたわけである。

  ひょっとすれば客寄せのためのパブの仕掛けだったかもしれない、と今思いつく。それにしても、そんな役柄を引き受けている老人のいるのがロンドンらしい。私は思いもかけずモリアーティ教授に出会えたのは確かなことだ。うら寂しい街に迫る闇、霧の中、ネタ探しの記者の前に突然に姿を現したヴィクトリア朝紳士・・・これぞ出会いの運でなくて何であろう。

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  大阪時代の、もっと実のある出会いのひとつに、夜間中学設置運動の草分け、高野雅夫さんとの邂逅がある。

  1965年のことだったと思う。その日の朝は、法善寺横町のある千日前に出勤した。たまには昼間の盛り場を見るのも悪くない、という程度の好奇心からだったに違いない。

  赤い灯、青い灯のない午前中の千日前は閑散としてしどけなかった。寝起き姿の娼婦のようだった(実物は知らないが)。「支那そば」「アイスクリーム」などの店の旗が、人通りのほとんどない通りにはためいている。今でも旗の多い街である。

  「夜間中学」と墨で書いた旗がその中に混じっているを目にした。商魂だけが噴き出しているようなこの街には似つかわしくない4文字である。旗を掲げてそこに立っているのは、ルックサックを背負った、私と同年輩に見える青年だった(私も若かった)。社会部街だね記者の勘が全身に響いて、近づいた。

  満州生まれ、軍人の父は戦死し、母とは母子ふたりで引き揚げる途次、朝鮮半島で死別した。天涯の孤児となって博多にたどり着く。マサオ少年は、かっぱらいを生業としてひとり生きた。学校には遂に一日も行けなかった。放浪生活で知り合った韓国人の年寄りに「たかのまさお」という自分の名前の平仮名書き教わったのは17歳の時。身が震えるほど嬉しかったそうだ。戦後の世の中の、下積みの底の下積みで暮らして知ったのは、自分と同じように字が読めない、書けないの大人が日本にうようよいることだった。みな、昼間は必死に働いている。高野さんは夜間中学設置運動を徒手空拳で始めた。「夜間中学」の旗を掲げての全国行脚である。

  大阪に入って初めて声をかけてきたのが私だったらしい。記事は、少なくとも関西地方では「夜間中学」が新聞の活字となって出たはしりではなかったか。これだけがきっかけになったのではないだろうが、その後大阪にも夜間中学の制度ができ、主として在阪韓国・朝鮮人のオモニたちの多くが不識字の境涯から脱した。現在、全国で30数校ある。高野さんは全国の大都市を渡り歩いている。私は当日、ほんの気まぐれで千日前に足を向けたにすぎない。ご本人との付き合いは私の転勤で途絶えたが、遊軍記者の書きたい記事が書けたという意味で、水掛け不動のはからいがあったかのような運のいい出会いだった。高野さんは近年、東京のある有名私立大学に比較文明学の特任教授として招かれたと、風の便りに聞く。

                              ◆

  最近経験した「出会わぬ出会い」の話。8月末、高校の同級会があって京都に出向いた。同級生の親友、山本彰彦くん(室町の老舗呉服・和装店の主人で祇園祭鯉山の宰領役、私の上方情報の結節点のような人)からの強い勧めがあって、何十年ぶりかの参加だった。先斗町での楽しい宵が過ぎて三条河原町でふたりタクシーを拾った。私の宿と山本邸が同方向だ。私が先に降りて、ホテルの部屋に入って数分もしたら山本くんから電話が入った。「君を降ろして走り始めたら、さっきのタクシー運転手が、いまのお客さんはイトウミツヒコさん(私の名の読み方はテルヒコ)ではないか」と尋ねたという。私が昔書いたドイツ関係本を読んだことがある、とか言っていたらしいが、私が車中にいたのは10数分ばかり、山本くんとの会話も先斗町の今昔が話題でドイツのドの字も出なかった。京都を去って半世紀近くも経っているから顔見知りは限られている。指名手配を打たれたことはないので、私の村夫子顔が世に知られているおそれは毛頭ない。私は運転手の顔も見なかった。「オレも不思議な気がして名前と連絡先を聞いておいたから、今度出てきたら会えるよ」と山本くんは言った。

  これが「出会わぬ出会い」の所以だが、いま感じるのは、人と人は何様同士の間でもどこかで糸がつながっているのかもしれない、ということである。世間を動かすような大記事を書く機会には一度も恵まれなかったけれど、細々した記事でも取材相手になってくれた人、ヒントをそっと耳打ちしてくれた人、こちらを信用して打ち明け話をしてくれた人らの顔、声が思い浮かぶ。そこにつながりの無数の糸を感じる。

  ジャーナリズムとは、その弦の響きを察知して、こちらなりにかき鳴らす仕事であるのかもしれない。(元毎日新聞 2009年9月記)
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