ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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「歩け、読め、話せ」の功徳(浅井 泰範)2009年7月

 「アジアでは、歩け。イギリスでは、読め。アメリカでは、話せ。これが海外特派員の要諦である」。 
 今から45年ほど前、はじめて私が、有楽町・数寄屋橋たもとにあった朝日新聞東京本社の外報部に顔を出したとき、言い渡された言葉だ。声の主は、当時の筆頭デスク、中村貢氏。朝鮮戦争はじめ、数々の歴史の舞台の現場に立った大先輩である。朝日退職後は、日本記者クラブの事務局長を務め、神奈川新聞に毎週コラムを連載して、国際情勢を縦横に論じられた。中村氏が亡くなって、もう16年になるが、この言葉は、時として、私の脳裏によみがえり、すでに遠くなった私自身の特派員の日々を考え込ませる。

*      *      *

 私の最初の任地は、インドネシアだった。1966年6月、生まれてはじめて乗った飛行機で、ジャカルタに着いた。暑かった。暗かった。それしか記憶にない。その前年、陸軍容共派の決起で、右派の将軍たちが殺される事件(いわゆる「9・30事件」)が起き、 緊張が極度に高まっていた。前任者からの引継ぎが終わって、一人になった。容共派をのさばらせたのはスカルノ大統領その人だと息巻く軍部に同調した学生たちが町中を車で走り回る。共産党狩りが全土で展開されているらしい。インドネシア語はわからない。英語の新聞を読んでも、3日から5日遅れのニュースばかり。あせった。
 
  ジャカルタの朝は、生ぬるい空気が満ちる。そんななかを、大統領宮殿や外務省に向かう。スカルノ大統領が突然記者団の前に現れて、即興の会見となるからだ。外務省では英語を話す大臣や幹部と会える。情報をつかんでも、裏がとれない。ニュースソースがひとつだけでは、危なくて記事にできない。無我夢中だった。とにかく、歩いた。昼寝の時間に横になっても、眠れなかった。
 
  そんなある日。一本の電話があった。だれもが名前を知っている有名人からだった。「きょうの昼に、大事な人を紹介する。通訳を連れずに、一人で来なさい」と、ある場所を指定して電話は切れた。偽電話かもしれないと、迷った。だが、思い切って、出かけた。結果は、本物だった。
  私の前に現れたのは、スカルノ大統領その人だったのである。「スカルノ追い落とし」の デモが連日続くなかで、当の本人が、目の前にいる。
  「君は、独身か。既婚なら、なぜ奥さんを連れてこない。インドネシアは平穏だ。小さな騒ぎは、すぐ収まる。子供はあるか。ないのなら、いっそう奥さんをすぐ呼べ。ドリアンを毎日食べて、スタミナをつければ、すぐできる。毎日新聞のオオモリ(大森実氏のこと)は、精力剤の液体カプセルをどっさり送ってきた。東京では効くかもしれんが、ジャカルタでは全然役に立たない。逆に機能をそこなう。インドネシアは、地上の楽園だ。君は、新聞記者だから、記事を書くのは当たり前だが、男ひとりでもんもんとしていては、なんの取り得もない」
  見慣れた黒いイスラム帽も着けない、ありのままのスカルノ大統領が語る言葉は、ほんとうにこたえた。「慈父」という言葉が頭に浮かんだ。あれから、もう長い年月が経った。私はその間、この会話を、いっさい活字にしなかった。しかし、たった1年間だったジャカルタ生活のなかで、いま私の頭に残っているのは、このスカルノ大統領の言葉だけといってもいい。
 
  その後、私は、移動特派員として、ベトナムはじめ東南アジアの国々を歩き、西アジア、 北アフリカのアラブの国やイスラエルを歩いた。

                         *      *      *

  ロンドンには、前後2回、通算6年半暮らした。1970年代半ばと80年代前半だが、 私のいたときは、ずっと、朝日新聞のヨーロッパ総局(ロンドンの本拠)は、名門紙といわれた「ザ・タイムス」の社内にあった。特約関係にあったので、毎日、社説から雑報まで、翌日の紙面に掲載されるすべての記事のゲラ刷りが届き、伝統ある調査部の資料とともに、読むものに事欠かなかった。

  82年5月22日、たしか土曜日の夜だった。神話的なピアニスト、ウラジーミル・ホロヴィッツがロンドンでリサイタルを開いた。80歳に近い巨匠の本当に久方ぶりの公演とあって、ニューヨークから持ち込んだ2台のピアノの話題を含め、騒がれた。私も、取材して、送稿することになった。
  その夜、超満員のロイヤル・フェスティバル・ホールで、たまたま、私の隣は、ロンドン在住の世界的な日本人ピアニスト。挨拶した。演奏がはじまり、淡々とすすんで、プログラムは終わった。鳴り止まない拍手に、ホロヴィッツは、アンコールを弾いた。きれいな曲だった。だれの、どんな曲かわからず、隣のピアニストに尋ねた。「ああ、この曲は、私がウィーン時代に毎日のように弾いていた曲なの」と、作品番号まで教わった。
 
  イギリスの音楽記者は、演奏会が終わると同時に批評を書き始め、翌日の朝刊に載せる。ロイター通信の国内、国際版の記事を読んで、びっくりした。先ほど日本人ピアニストから聞いたアンコール曲がまったく違う。あれだけ自信を持って話してもらったからには、間違いとも言い切れない。日曜日は「ザ・タイムス」はお休みである。日本も、日曜の夕刊は出ない。稼げた時間のうちに、「ザ・タイムス」のホロヴィッツ評のコピーを手に入れた。やはり、教わったアンコール曲と違うようだ。でも、いくら「ザ・タイムス」といえども、訂正が出ることもある。迷った私は、東京へ送る記事からアンコール曲を削除した。
  月曜日の朝早く、電話でたたき起こされた。本社からではなかった。日本人ピアニストからだった。「お教えしたホロヴィッツのアンコール曲、私の勘違いだったみたい。今朝のイギリスの新聞がどうやら正しいの。ご迷惑掛けたかと思って」。
  読むことで、救われた。それにしても、世界的なピアニストでも、ホロヴィッツの演奏がどう評価されるか、朝早くから新聞の音楽批評を熱心に読んでいる。これは、大きな教訓だった。この日本人ピアニスト、今では、エリザベス女王から、男性の「サー」に相当する、女性の「デーム」に叙せられた。その努力、その精進を知れば、まこと、むべなるかな、である。
  
                       *       *      *
 
  私に、アメリカ特派員暮らしの体験はない。だが、アメリカで、話すことの有効さは理解できる。
 95年5月、韓国・ソウルで、国際新聞編集者会議(IPI)の総会が開かれた。当時、 朝日新聞の国際本部長だった私は、メディアのグローバル化が広まる中で、メディアや読者・視聴者がいかに固有の文化のアイデンティティーを保ち、発展させていけるか、というテーマでの報告を行った。そして、各国の報告者を交えての公開シンポジウムのパネリストをつとめた。大きなテーマだけに、意見は分かれるし、会場からの質問も活発だった。私も、かなり饒舌だったと思う。

  帰国して直後、アメリカのコロンビア大学のレターヘッド入りで、一通の手紙が届いた。
  「ソウルでの貴殿の発言をずっと聞いていた。ついては、私が編集長を務めるメディア研究誌に、アメリカのメディアを見る日本の視座、とでもいった一文を寄稿してもらえまいか」とあった。そう難しい作業でもない。私は承諾した。朝日新聞が日本紹介のために、朝日新聞の視点で編集した英文の小新聞「ジャパン・アクセス」を出したが、まったく購読者が増えなかったことを題材に、「アメリカの読者層は、アメリカの編集者の目を通した媒体以外信用しない。日本の読者層は、その正反対で、日本の編集者の目よりも、アメリカはじめ他国の編集者の目を通した媒体を信用する。この結果、アメリカの媒体の勢いは、日本において倍増するし、その影響力はおよそ無視できない」と書いた。「メディア・スタディズ・ジャーナル」という、コロンビア大学メデイアセンターの研究誌の95年秋号に掲載された。編集長は、面白かったと喜んだが、私は、ソウルでの発言からの展開に、アメリカの力を知らされた。
 
                         *      *      *

 いまは、21世紀である。グローバル化は進んだし、さらに進む。昨今の特派員たるものは、アジア、ヨーロッパ、アメリカにかかわらず、「歩き、読み、話す」の連続だろう。メディアの役割は、重くなるばかりである。私も、いまの環境で、もう一度、はじめから新聞記者をやり直したいと、ふと思わないでもない。本音である。(元朝日新聞 2009年7月記)
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