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ある戦争の終わりーアウ・チュン・タンの死(友田 錫)2009年6月

 「この土地では、ひとは劇的な人生をもたざるをえない。たれに何をきいても、かれの人生はベトナム動揺の年表のどの項かに触れ、それで切り裂かれて血が流れつづけているような感じがある。」
 
 ベトナム戦争の硝煙がまだ消えぬ1973年、作家の司馬遼太郎は南ベトナムを訪れ、帰国後産経新聞に紀行を連載した。その中にこんな文章があった(『人間の集団についてーベトナムから考える』1973年産経新聞社刊、のち中公文庫所収)。

 2009年4月12日、かつての南ベトナムで経済大臣をつとめたことのあるアウ・チュン・タンが、亡命先のパリ郊外でひっそりと86年の生涯を終えた。私はベトナム戦争たけなわの1967年、産経新聞の特派員として駐在していた首都サイゴン―いまのホーチミン市―で、取材をきっかけにタンと知り合い、その後家族ぐるみの付き合いを重ねるようになった。こんどの訃報も、タンの娘さんが知らせてきた。この死を知って、タンというひとりのベトナムの政治家がいかに劇的な人生を送ったかを、そしてベトナム戦争そのものが、イデオロギーや敵、味方で割り切れない複雑な人間模様で織り成されていたかを、いまさらのように思い返している。

  私が彼の地に赴任する前年の1966年、南ベトナムの経済大臣のポストにあったタンが、同僚の南部出身のもうひとりの閣僚とともに当時の首相で北部出身の元空軍司令官、グエン・カオ・キに辞表を叩きつけた。タンは南部メコンデルタのベンチェ省の生まれだった。ベトナムという国は北部、中部、南部の三つの地域の間で歴史、気候、人情、それにことばでもちがいが大きく、お互い、対立感情を捨てきれないでいる。この事件は、日本でも、サイゴン政権内の「南北対立」にからめて「南部2閣僚の辞任」と大きく報道された。またこの事は政治の舞台でのタンの存在を、はじめて内外に強く印象づけることになった。
 
  だが、タンが名実ともに世界の注目の的になったのは、翌1967年の大統領選挙のときだ。南ベトナムでは、1963年にゴ・ジン・ジエム政権が軍部のクーデターで倒れてから軍事政権が続き、その後も軍部内の勢力争いでクーデターが絶えなかった。そこでサイゴン政権の国際的イメージを良くしようと考えたアメリカの強い圧力で民政移管の方針が決まり、そのため、にわかに大統領選挙が行われることになったのだ。このときタンは、解放戦線と反共勢力との中間の道を目指す第三勢力の代表として、「ベトナムに平和を」をスローガンに出馬した。

  古来、勝つか、負けるか、殺すか殺されるかという非情な力学が支配する戦争のただ中にあっては、「第三勢力」が存在できる余地は少ない。だが、ベトナムのすでに七年になんなんとする戦争の果てに「反戦候補」が登場したことは、国際社会の注目を集めた。タンは「反戦候補」に敵意をいだく軍事政権に妨害の猶予を与えないよう、立候補届けの締め切り日の深夜、それも期限が切れる数分前に内務省の門をくぐった。私もふくめて多くの外国の記者が、タンの登録を見届けようと内務省に詰めかけた。

  だが結局、タンの立候補届けは拒否され、選挙では陸軍出身の国家元首グエン・バン・チューが大統領の、空軍出のグエン・カオ・キが副大統領の座についた。二人に率いられた新政権内の強硬派、とりわけキとつながる警察長官のグエン・ゴク・ロアンは、タンを「危険分子」とみなしてまず軟禁し、その後身柄の拘束も企てた。この動きを察知したタンは、政権内のつてを頼ってひそかに出国ビザを手に入れ、フランスに逃れた。タンのフランス亡命生活の幕開けである。

 フランスにあっても、ベトナム戦争をめぐる政治の舞台にタンの姿を見ることができた。1968年5月にまずアメリカと北ベトナムの、次いで69年1月これに南の解放戦線(のちに臨時革命政府)と南ベトナム政府を加えた4者の和平交渉がパリではじまった。やがてキッシンジャー(米)、レ・ドク・ト(北ベトナム)という二人の役者の秘密会談が加わって、交渉は1973年はじめまでえんえんと続いた。

  やっとできあがった和平協定では、北、解放戦線側の強い要望でサイゴンに総選挙を実施するための「民族和解一致全国評議会」、いわゆる選挙のための暫定政府を設けることがうたわれた。その議長に擬せられたのが、第三勢力の代表的存在だったタンである。和解評議会は結局陽の目を見ずに終わったが、この一事は、北、解放戦線側がタンを重要な「駒」とみなしていたことを物語っている。事実、あとでタンは私に「交渉の会合ごとに、解放戦線の代表団からその日の会議のブリーフを受けた」と打ち明けた。

 1975年4月、サイゴンが共産側の攻勢で陥落し、ついに長いベトナム戦争に幕が下りた。その少しあとのこと、当時特派員としてパリにいたわたしに、タンから電話がかかってきた。支局近くの日本レストランで落ち合った。開口一番、タンは私に尋ねた。
  「新政権から帰国しないかと誘われている。お前の考えを聞かせてほしい。」

  私は帰国をすすめた。「このままフランスにいたら、子どもたちは祖国のない人間になってしまうではないか。」タンは、しばらく考えてみる、といって別れた。

  数日後、帰国をあきらめた、という電話があった。「新政権は私を重用すると言っているが、それはおそらく最初のうちだけだろう。時間が経って新体制が固まり、自分のような第三勢力の存在価値がなくなれば、あっさり放り出されると思う。」そう告げるタンの声は重く、祖国と決別する苦しさがにじんでいた。
                              ◇

  タンの心を新しいベトナムの体制から遠ざける決め手となる「家族の悲劇」が、その翌年に起きた。タンの義父、つまり夫人の父はかつてホーチミン率いるベトミンに属し、対仏インドシナ戦争の間南でゲリラ活動に従事していた。1954年のジュネーブ協定で戦争が終わり、ベトナムが北緯17度線を境に南北に分割されると、南にいたベトミン・ゲリラは社会主義政権の支配する北に引き揚げることになった。タンの義父は妻と娘を南に残し、息子だけを連れてハノイに移った。その後、ベトナム労働党(共産党)の財政局長という要職に就く。やがて南はベトナム戦争の戦火に包まれた。北に行った父と南に残った家族との音信は途絶えたままだった。

 1976年、ついに南北ベトナムの統一が成り、ハノイの要人たちは晴れて西側世界に足を踏み入れることができるようになった。タンの義父がパリにやってきて、ジュネーブ協定以来ほぼ四半世紀ぶりに、父娘の再会が実現した。「悲劇」はそのときに起きた。

  父がハノイに去ったあと、南に残された母が子どもを抱えてどんなに苦労したか、その母が死んだとき、残された子どもたちが苦しい中からみすぼらしくない墓をつくったこと等々を、娘、すなわちタン夫人は涙ながらに語った。すると父の口から飛び出したのは、思いもよらぬ非難めいたことばだった。「死んだものの墓に金をかけるなど、なんてばかなことをしたんだ。」

  「その一言は妻の心を引き裂いた」と、あとになってタンが話してくれた。「私はこの家族の悲劇の光景を決して忘れることができないだろう。」ベトナム人のほとんどは信心深い仏教徒で、タン夫人もその例にもれない。一方、彼女の父は宗教を否定する唯物論に凝り固まった共産主義者だった。だが、そのことだけでこの父娘の痛ましいすれ違いを説明するのは皮相にすぎるだろう。インドシナ戦争とベトナム戦争、第二次世界大戦が終わってすぐ後からベトナムに荒れ狂ったこの二つの動乱が、どれほどそこに生きる人びとの生活をねじ曲げ、あるいは人生そのものを変え、ときには押しつぶしてしまったことか。その大局を抜きにしてこの「父娘の悲劇」の深淵をはかることはできない。

 タンが政治から遠ざかるようになったのは、この事件がきっかけではなかったかと思う。いずれにしても、その後タンは、パリのベトナム人社会の世話焼きに徹するようになった。何年か経って夫人は病を得て先立ち、また何年か経ってタンはフランスの国籍を取った。タンの国籍取得のことを私はタンの友人から伝え聞いた。タン自身はそのことをついに私には告げなかった。

  いま、そのタンの死を知って、もうひとつのベトナム戦争が終わった、という思いが頭をよぎる。タンの人生はベトナム戦争とともにあった。政治から離れ、フランス国籍を取っても、心はいつもベトナムに向いていた。その後もたびたびベトナムを訪れていた私と会うたびに、かならずベトナムの「いま」を聞きたがった。その彼にとって、生を閉じることは、長いベトナム戦争にやっと別れを告げることでもあった。(元産経新聞 2009年6月8日記)
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