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旅券と私(平山 健太郎)2010年5月

 2010年3月旅券を更新した。ICカードがとじ込まれた新しい旅券。有効期限が5年のものと10年のものどちらかと都庁の係員に尋ねられ、一瞬のためらいの後、10年ものを選んだ。まだそれぐらいは生きているだろうか?

 有効期限が切れてしまっていた前の旅券には、2001年9・11事件当日の出国スタンプが捺されている。しかもイスラエル・ベングリオン空港のものだ。私たち中東を担当してきた報道関係者は、イランやシリアなどイスラエルと敵対する諸国への出入りに備え、イスラエルに入国する際、旅券を手渡す前に窓口でその旨要求すれば、入国カードにスタンプを捺したものを旅券に挟んで渡してくれ、出国のときそのカードを窓口に返して済んでしまう。長年なじんできた手順だったが、翌年同じ空港の入国窓口で、「ここのスタンプならもう旅券に捺してありますよ」と係官に指摘され、初めて気づいたのが前回の出国スタンプだった。

  9・11事件の当日この空港に居合わせたのは、当時つとめていた大学の夏休みを利用したイスラエル/パレスチナヘの定点観測旅行の帰路。テロ事件が発生してまもなくイスラエル当局は空港や領空全域を封鎖しているが、この封鎖命令の直前私の乗ったアリタリア便はミラノに向けて飛び立っており、ミラノ空港から市内へのバスの車内ラジオで絶え間なく流されている地元放送局のニュースで、私は初めて事件の概要を知った。

 ホテルでヨーロッパ各地のテレビニュースをチャンネルを変えながら見ていると、フランス2局が離れてきたばかりのエルサレムの事件後の表情を伝えていた。快哉をあげて乱舞するパレスチナ人たちの姿に続き、「パレスチナ自治区ではこの種の祝賀ムードを撮影したビデオやフィルムをパレスチナ当局が必死に没収してまわっている」というこのフランス人支局長の顔出しのコメントが入っていた。前年9月からパレスチナでは騒乱(第二次インティファーダ)が続いており、イスラエル政府(シャロン政権)は、この騒乱に対する鎮圧行動を「テロとの戦い」としてブッシュ米政権に売り込んでいた時期だ。

 イスラエルの空港での、とくに出国時の治安上の「尋問」にうんざりさせられた旅行者は多いはずだ。イスラエル当局と契約している警備保障会社の係員たちがチェックイン・カウンターで順番を待つ乗客一人ひとりに対して行うもので、「切符はどこで買ったか?」「イスラエルでは何をしていたか?」「誰と会ったか?」…「自分で荷造りしたか?」「託送品はあるか?」…延々と続いた後、別の係員がメモに目を走らせながら順序を変えて同じ質問を繰り返す。つじつまの合わない答えがあると別室に連行ということになる。不審な人物への職務質問方式だ。

 オスロ合意以前の1993年早春、NHK時代の旧友K氏とイスラエルを旅したあと、お定まりのこの尋問では係員たちが、私たちを分離し、互いのやり取りが聞こえない場所で質問を始めた。私の方は予想外に順調に終わって、スーツケースには審査済みのシールが貼られ、カウンター前の行列に加わっていると、突然係員が駆け戻って来て、邪険なしぐさでシールを剥してしまった。K氏への尋問で、私がガザに出入りしたことが「露呈」したかららしい。イスラエル政府が発行する記者証を提示しての合法的なガザヘの出入りだったが、イスラエル滞在中の動静についての尋問で、私がこのガザ入りを省略したことが勘に触ったらしい。出発時間ぎりぎりまで引き止める嫌がらせだった。



 旅券を没収され、「追放」されたこともある。1976年初頭、内戦が始まって間もないアンゴラの首都ルアンダ。この首都を掌握し、現在につながる政権を守り抜いた左翼の「アンゴラ解放人民運動」(MPLA)がカイロに事務局を置いていたアジア・アフリカ人民連帯会議(AA)傘下の非同盟諸国の代表を招いて、この政権の「正統性」を確認してもらう国際会議を開いた。当時カイロに常駐していた私もAA事務局に登録し、リスボン経由で現地入りした。旧宗主国ポルトガルの市民で、アンゴラに残留したらしいMPLA政権の広報担当官が予想外に自由な取材を許してくれ、完全武装でルアンダ市内をパトロールするキューバ軍兵士のビデオ撮影にも成功した。MPLAをてこ入れするため投入され、動静が注目されていた存在である。この成功から油断が生まれ、翌日逮捕されてしまった。

 MPLA当局が外国報道陣を招き、ルアンダ市内をバスで案内してくれたが、最初の立ち寄り先は、港湾地域と地続きの場所にあるポルトガル軍政時代の刑務所だった。独立運動の志士たちが投げこまれていたという雑居房の壁に刻まれた抵抗のスローガンや遺言らしい文言などを撮影しているうちはぐれてしまった仲間たちの後を追って屋上に上る途中、降りてくる仲問たちと階段ですれ違った。屋上に上ったとたん、すぐ目の前の港の光景に釘付けになった。貨物船からクレーンでつり下ろされているソ連製の戦車だった。反射的にカメラを向けると、ぴたりとこちらに双眼鏡を向けているキューバ軍将校の姿。視線が鉢合わせした。カメラを下ろす間もなく、私の腕は私服の男に鷲掴みにされていた。キューバの公安職員だった。集団で動いていた仲間たちにはMPLAの係官が、撮影禁止と注意したらしい。

 キューバの公安からMPLAの憲兵隊に引き渡され、27時間にわたって身柄を拘束された。若い黒人兵たちは陽気で友好的だった。ホンダ(二輪車)の性能など無邪気に質問してくる。食事も兵士と一緒だったが、この後どうなるかの不安は消えない。前任地サイゴンでのこうした事態での鉄則を思い出した。逮捕されている事実を同業者に伝えること。…自分の名前や逮捕されている事実を英文で書き殴った紙片を当直明けで外出する兵士たちに次々に渡し、外国報道陣にあてがわれた都心部のホテルで、誰でもいいから記者らしい人に手渡してくれるよう依頼した。作戦は成功。タンユグ通信(ユーゴ)の一報をAPが転電しNHKが動き出してくれた。キューバの外務省に接触したらしいが、私には知る由もなかった。夜になってMPLAの将校らしい混血の二人の男たちが、時間をおいて私を尋問した。取材を続けたいという私の希望に「検討中」とこたえる男、「お前はスパイだ。スパイは銃殺だ」とすごむ男…善玉刑事と悪玉刑事の入れ替わり尋問みたいだなと馬鹿なことを考えているうち、熟睡してしまった。翌朝、都心部から行進曲が響いてきた。MPLA軍のパレードらしい。身柄拘束の不運を嘆いたが、キューバ兵も戦車も、このパレードには参加しなかったことを後から知った。結局「判決」(?)は強制退去と決まり、その晩、武装兵に空港に護送され、機材は返してくれたが、ビデオや旅券、非常用の食料など没収されたまま、リスボン行きの便に押し込まれた。  

 リスボン空港では入管に事情を話し、日本大使館に電話をかけると、早速館員が迎えにきてくれ、大使館に直行。大口信夫大使が温かく慰め、歓待してくださった。例外的なスピードで新しい旅券も交付された。この大口大使、1969年サンパウロ総領事として在任中、左翼の都市ゲリラに誘拐され、リオデジャネイロに常駐していた私の取材対象になったという因縁があり、さらにその後、駐サウジアラビア大使としてご在任中にも取材でお世話になっている。



 さてアンゴラのキューバ軍、アパルトヘイト政権当時の南アフリカ共和国軍に支援された南部の反乱勢力UNITAとの長期の内戦でMPLA政権を守り抜き、間接的には南アの人種隔離政権の崩壊にも貢献するなど、「アフリカ解放」という大義名分に―役買った実績は否めないところだろう。

  私事になるが、私の長女(平山亜理。朝日新聞サンパウロ支局)が2009年の年初、冷戦終結から20年に因んだ「家族」という企画シリーズで、一人のアンゴラからのキューバ軍帰還兵、それも戦車隊将校の後半生を記事にしていた。アンゴラ内戦の終盤を飾る(?)南ア軍とのキト・カルナバレの激戦で、乗っていた戦車が地雷を踏んで瀕死の重傷を負い、復員後車椅子でモスクワ留学中、中国人漢方医の治療で歩けるようになった。これをきかっけに留学先を中国に変えて漢方医学を学び、ハバナで開業。患者から慕われ、末娘も父の背中を見ながら漢方を学びたがっているという記事だ。

  この長女、私の任地だったリオデジャネイロで生まれている。サンパウロ支局への赴任を命じられて在京ブラジル大使館に査証を請求にゆくと「査証は出せない。旅券を申請しなさい」と言われた。中南米諸国のご他聞にもれず国籍が出生地主義なので、ブラジル生まれなら当然ブラジル人だということになったらしい。時間がかかるようならブラジル人になってしまえという上司の「業務命令」(?)で、長女はしばらくはブラジル旅券で動き回っているようだ。(元NHK 2010年5月記)
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