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前田勝之助さん 東レ名誉会長/危機感 責任感 両輪の人(中川 渉)2026年5月

 毎年、冬の初めにユニクロの「ヒートテック」を買い足す。そのたびに頭に浮かぶのが、東レの中興の祖といわれた名物経営者、前田勝之助さんのことだ。

 ヒートテックは2003年に発売されたインナーウエアで、体から出る水蒸気を熱に変換して保温する吸湿保温性を持つ。共同開発した東レの素材技術が光るロングセラー商品だ。

 

知らぬ人なきレジェンド

 開発のきっかけは、前田さんとユニクロ創業者である柳井正さんのトップ会談だという。メーカーと小売りが手を組み、問屋や商社が介在していた流通構造を刷新、消費者ニーズに応える製品開発やコストダウンを実現した。

 前田さんは13年4月に82歳で亡くなった。私が取材で話を聞いたのはその数年前だから、もう15年以上も昔のことになる。

 当時の肩書は東レ名誉会長で、経営の一線からは退いていた。それでも毎日出社し、毎晩のように会合にも出席していた。

 何しろ繊維業界で「マエカツさん」といえば、知らぬ者がいないレジェンドだ。幹部社員や業界関係者からは、豪放な人柄とリーダーシップを伝え聞いていた。

 初めて会ったときは緊張して、おそるおそる会話を切り出したものだ。そんな私に前田さんは当初「今さら何も話すことはありませんよ」と柔和な笑顔を浮かべていた。それが興に乗るとずばずば率直に話してくれるようになった。あやふやなことを問おうものなら「それは違う」と即座に突っ込む反応速度がさすがだった。

 前田さんの生涯は、戦後日本の経済発展の歩みと重なる。

 日本経済新聞が11年に掲載した「私の履歴書」をひもとくと、生まれは1931(昭和6)年。現在の福岡県飯塚市で、住友グループの鉱山で勤めていた父親のもと、筑豊炭鉱で育った。

 戦時中は勤労動員で過酷な炭鉱労働に従事し、戦後に旧制第五高等学校(現熊本大学)に進学する。工学部で有機合成化学を学び、京都大学大学院修士課程を修了した。

 化学の道に進んだのは「資源がない日本が欧米と競争できる分野」と見定めたからだ。

 東レ入社後は研究所ではなく、「日本の復興に貢献したいから」と工場での技術開発を志望する。その現場感覚と先見性が後の炭素繊維開発などにつながっていく。

 87年に末席常務から14人抜きで社長に昇格すると、海外事業の育成やリストラの徹底などで、東レを高収益企業に引き上げた。

 

「このままではだめ」何度も

 トップになった後の身の処し方も、前田さんらしい。「権腐十年」の考えから97年に会長となる。その後はアジア通貨危機やITバブル崩壊を経て、悪化した業績を立て直すため、2002年に最高経営責任者(CEO)に復帰。陣頭指揮を執ってV字回復を果たすと、2年間で直ちに退いた。

 取材を振り返ると、危機感と責任感が前田さんの原動力であったと改めて気付く。事業構造改革を達成し、名誉会長に退いてなお、事業や業界の先行きを憂慮していたことが強く印象に残る。「このままではだめだ」という言葉を何度も繰り返していた。

 往年と変わらぬギラギラした経営者魂の一端に触れて、「ああ、これぞマエカツさんだ」と強く感じ入ったことを懐かしく思い出す。

 産業を取り巻く環境が激変し、先行きが見えない現代こそ、困難に打ち勝つその姿勢から学ぶものがある。

 

(なかがわ・わたる 2005年日本経済新聞社中途入社 ビジネス報道ユニットなどを経て 25年から総合解説センター)

 

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