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「金嬉老事件」の金嬉老さん/「祖国」と「日本」 複雑な胸中(佐藤 大介)2025年10月

 待ち合わせ場所として指定された韓国南部・釜山市のホテルで、ロビーに座っていると、1人の老人が現れた。

 茶色のコートにマフラーをまとい、ゆっくりと歩く。その姿は幾春秋を経た古老だが、鋭い目つきが独特の雰囲気を放っている。私に気付くと、警戒心と懐かしさの交ざったような視線を向けながら近づき、右手を差し出した。その男性は金嬉老さん。日本では「きんきろう」との読み方が耳になじんでいる人も少なくないだろう。1968年に静岡県内で暴力団員2人を射殺、人質を取って旅館に立てこもった「金嬉老事件」の犯人だ。

 私が金さんと会ったのはソウル特派員だった2010年2月のことだ。その月に韓国政府が公開した外交文書には、金さんが熊本刑務所に服役中、「暴行や差別的な取り扱いを受けた」として日本政府に抗議するよう韓国外相宛ての陳情書を送っていたことが記されていた。その事実関係と現在の思いを聞くために、釜山へ出向いた。

 

差別告発の闘士から暗転

 金さんは旅館に籠城中、報道陣を旅館内に呼び寄せて在日韓国・朝鮮人への差別を糾弾し、社会的に大きな関心を集めた。裁判で無期懲役が確定し、逮捕から31年半後の1999年9月に仮釈放され、韓国へ渡って釜山に居を構えた。韓国では「日本で民族差別を告発し闘った人物」として英雄視され、各地で講演などを行い、移動する際は警察当局の警護が付く待遇だった。

 だが、2000年9月に内縁関係にある女性の夫を殺害しようとして竹やりでけがをさせ、部屋に放火したとして殺人未遂容疑などで地元警察に逮捕され、実刑判決を受けたことで、金さんへの視線は一転。メディアへの露出はほとんどなくなり、釜山でひっそりと暮らしていた。

 事件当時は39歳だった金さんは、取材した時は81歳になり、頭髪はなくなっていた。40年以上の時の流れを感じさせたが、当時のことを尋ねると「暴行は日常茶飯事だった」と、はっきりとした口調で答えた。「看守に指示された受刑者が暴行してきた」「日本では差別に苦しめられた」。日本語で答えているせいか、その言葉にはだんだん熱を帯びてくる。眼には怒りがこもっていた。

 だが、ふと表情を緩めて「もう過去のことだ」とも話した。「韓国での生活は、言葉の面など苦労は多い。日本にいたのなら、自分を生かせたのではと思う時もある」。そう口にする表情には、寂寥感も漂っていた。帰り際に取材のお礼と、ポケットマネーでいくばくかの現金を手渡すと、笑顔で「ありがとう」と礼を述べた。

 

空見上げ 日本へ思い募る

 それから金さんから何度も電話があった。酔っていたのか、差別された体験を、音が割れるほどの大きな声で訴えていた。金さんの訃報に触れたのは、それから1カ月ほど後のことだった。「また話をしましょう」という約束は果たせないままだった。

 金さんは韓国を「祖国」と言い切りながらも、生まれ育った日本には「思いを捨てたことはない」と複雑な胸中をのぞかせていた。「空を見上げ、日本の方に飛んでいく飛行機を見ると、近くても行くことができない日本への思いが募る」。いまもその言葉に、日韓の歴史を重ね合わせている。

 

(さとう・だいすけ 2002年共同通信社入社 ソウル支局 ニューデリー支局などを経て編集委員兼論説委員)

 

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