ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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私が会った若き日の吉沢 久子さん(藤原 房子)2011年11月

ごまかしのない暮らしを紡いで 93歳 いまも現役

人との出会いには、時に思わぬ伏線がある。敗戦後、紙不足で書籍も雑誌類も薄かったころ、女性の社会進出をうながす声が聞こえ始め、大学生だった私は女性論の著述等で精力的に発言した文芸評論家古谷綱武氏の名を知り、自立を励ます言葉に刺激された。


だが就職もしないうちに彼の離婚、吉沢久子さんとの再婚が週刊誌に大きく報じられる。一般に離婚は好ましくないといった通念がまだ根強く、まるで糟糠の妻を離別し年若い秘書と再婚する、といった批判調の記事だったから、青臭い私は正直言って、何とも複雑な気分に襲われた記憶がある。


それから約10年、社会部記者を経て婦人家庭部に移ってまもなく、その吉沢さんに初めて取材で会うことになった。誰が名付けたか新職業「家事評論家第1号」と言われた人なので、家事に疎い私は二重に構えた気分だったが、誠実な印象で肩の力が一気に抜けた。


戦時中に吉沢さんは速記者として古谷氏に紹介され秘書になる。もともと外で働いていくつもりだったそうだが、結婚で一族の長男の妻として家事万端を担うことになり、早く一人前になりたくて計画的に務めたらこうなったまで、と言われ、妙に納得した。


当時から吉沢さんは家事評論家ではないと言っていた。研究し勉強はしたけれど、評論はしていない、するつもりもない、と。自分にごまかしのない暮らしを紡ごうと実践する人で、無理をしない姿勢は若いころからぶれていない。


戦後の激変はすべての分野を総なめにし、見た目にも家庭内景観は一変した。家電製品をはじめ新製品と称するものが、居間にも台所にも雪崩をうって大量に入り込み、その中で物に振り回されずに暮らすことは難しくなる。しかし安易なハウツーや知識の受け売りでお手軽に暮らす受け身の生活者を相手にして、おもねらなかった。


何度か会う機会があったのち、結婚前後の心境をさりげなく聞いたことがある。「古谷は封建的フェミニスト。勉強せよ、と命令するけれど自分ではお茶もいれない」と笑った。でも手を抜くコツもわかりましたから、と矛盾の塊のような人と穏やかに生きた経験を、世に多く見られる現実と重ね合わせ、早くから達観し知恵を育てていた。


姑と夫との3人暮らしを守り、最後はそれぞれに心こめた家族葬で手厚く見送った。その前後の日々の営みを、問えばユーモアたっぷり、かつリアルに話された。職業を貫いた女性の柔軟さと強さ。どこまでもソフトな語り口である。


今は一人だが親しい人の連携という安全ネットが支えている。93歳の今年も昨年も著書をまとめ、今は終戦前後の自分の日記を読み解いて、時代の底辺を見つめる仕事を始めている。


日記は綱武氏が兵隊にとられ、当時の家族も疎開して無人になった留守宅を、20代の秘書が守った記録である。空襲が激しくなった戦争末期、そこへ毎日新聞記者だった弟の故古谷綱正氏が社員寮の空爆で住めなくなったからと同僚と移り住み、男性3人を下宿させる非常時の留守居役をかねた。


綱武氏の原稿料等が振り込まれると疎開先の家族へ送金、下宿人のためヤミ物資の購入などもやってのけ、あるじの復員まで家と生活を守り抜いた奮闘記でもある。


「ヤミ物価や入手方法など、面白いのよ。これを活字にしておきたくて」


日常の細部をしっかり握り、みごとな自然体である。


ふじわら・ふさこ 元日本経済新聞婦人家庭部編集委員

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