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タイ「血の水曜日事件」余波(猪狩 章)2010年7月

「逮捕調書の書き賃出せ」
1976(昭和51)年10月5日夕、タイの首都バンコク。国立タマサート大学構内のサッカー場は学生たちで埋まっていた。彼らは前年4月のベトナム戦争終結に刺激され、体制の民主化を要求していた。

集会を組織したのはタイ全国学生センター(NSCT)執行部。本来なら大学に隣接する旧王宮前広場(サナムルアン)のほうが会場としてはよかったが、右派の攻撃にさらされやすく、4日から構内にこもる作戦をとったのだ。

タイの集会は、学生運動であれ、選挙運動であれ、猛暑の日中を避けて、大抵、日の傾く夕刻から始まる。この日も同様で、NSCTはゴールポスト付近に高床式の舞台を設け、幹部が芝生に座り込む仲間に演説していた。主催者は右派勢力の銃撃や爆弾テロを警戒、舞台下の暗がりには拳銃や小銃で武装した警備係が何人も潜んでいた。私はすっかり暗くなった場内を、舞台の照明頼りに移動していた。

学生たちは、インドシナ半島の通信傍受などをしてきた駐タイ米軍約4500人の撤収を求め、73年10月の「学生革命」で海外へ逃げた軍事独裁政権の2トップ、タノム元首相兼国軍最高司令官、プラパート元副首相兼国軍副司令官の帰国・居座りに反対していた。

そのタノム氏はシンガポールで頭をまるめ、9月19日ドンムアン空港に着くとそのままバンコク市内の寺に入り、23日朝から、なんと托鉢に出たのである。「タノム反対」のポスターを張っていたバンコク近郊の青年2人が警官に殺された。それに抗議して、タマサート大演劇部の学生が4日の集会で寸劇をやった。

部員が僧形のタノム氏に扮して模型の自動小銃をかまえたり、首をつられた2青年の真似をしたのだが、一部の新聞に掲載された写真が問題になった。それは、木につるされた演劇部員の姿をとらえていて、顔がワチラロンコン皇太子に似ているというのだ。

●「アサヒの記者をやっつけろ」

行動右翼のクラティンデーン(赤い野牛)やナワポン(九つの新しい力)が「王室を侮辱するNSCTをやっつけろ」と騒ぎ出した。問題の写真を刷り込んだビラをまいて人を集め、私が取材していた5日夕には彼らがタマサート大を取り巻いていた。

海外旅行のガイドブックには「ほほ笑みの国」と紹介されるタイだが、今年3月から約2カ月間バンコクで続いたタクシン元首相派赤シャツ隊と政府治安部隊の銃撃戦に至る経過を見ても、タイ人は見かけによらず荒っぽく、彼らが「やっつけろ」と叫ぶ時は「殺せ」に近いニュアンスを感じる。

集会は夜10時ごろから熱気を増し、徹夜は必至だった。バンコクと東京の時差は2時間。支局に戻って送稿しないと朝刊に間に合わない。私は午前零時前、学生が閉めかけた門のすき間から離脱した。

日付は変わって6日、運命の水曜日を迎えた。午前3時、軍機甲部隊の放送(ヤンクロ)が「黄色いトヨタクラウンに乗ったアサヒの記者をやっつけろ」とアジった。タイでは軍も放送局をもっていて、反共的な放送内容が人々に受けていた。この時の呼びかけも宵っ張りタイ人の多くが聴いたのではないか。私の車の種類や色まで特定しているところが怖かった。

そのころタマサート大ではクラティンデーンが先兵としてNSCTの警備陣を破って攻撃を開始、次いで共産ゲリラ掃討で知られる国境警備警察隊(BPP)の主力が突入した。門へ走った学生たちは部隊と鉢合わせして撃たれた。NSCTは構内で袋のネズミ状態になった。空いているのは裏手、メナムチャオプラヤー(メナム川)方面だけ。しかしそこには高さ約3㍍のフェンスが川に沿って立っていた。素手で必死に掘ったのだろう、フェンスの根元に深さ10~20㌢、すり鉢状の穴がいくつも見つかった。

攻撃の先陣をつとめたクラティンデーンの若者たちは、死んだ学生の首に太い針金を巻いて並木につるし、多くの人が見物する中、棍棒や金属製の折りたたみ椅子で殴り続けた。死体はサナムルアンの芝生の上に積み上げられ、火をつけた古タイヤで焼かれた。犠牲者の脂は芝生にしみつき、スコールがあって遺体が片付けられた後も、芝生から煙がプスプスのぼっていた。

サッカー場に面した5階建て大校舎の窓ガラスは、銃撃やバズーカ砲の発砲でメチャメチャに割れ、使われた火力のすごさを想像させた。「血の水曜日」といわれるこの事件の死者は「46人くらい」とされたが、もちろんそれではすまなかったはずだ。

事件直後、タイの軍部は反共クーデターを起こし、戒厳令を宣布、憲法停止、国会解散、全政党禁止、軍事法廷設置、新聞出版妨害を発令した。私が朴正煕政権下の韓国在勤中(69年~73年)、何度も経験したことだった。

●支局にドカドカと制、私服係官

事件から1カ月たった76年11月6日、私は「心重く、タイ国民」と題する記事を書いた。

チャクリ王朝ラマ9世であるプミポン国王は、75年4月カンボジアとベトナムで共産勢力が権力を掌握、ラオスも8カ月後の12月、600年続いた王制が消えたことに衝撃を受けていた。国王はエスカレートする学生の抗議行動を憂慮、結果的に軍部の背中を押すことになった。記事はそんな趣旨だった。

それから1カ月半後の12月16日朝、アマリンホテルにあった支局に内務省、ルンピニ署の制、私服係官6人がドカドカと入ってきた。私は、サイゴン(現ホーチミン)とプノンペンの支局がなくなった後、ベトナムとカンボジアもカバーしていた。ニュースソースはハノイ放送とプノンペン放送。そのモニターをベトナム人とカンボジア人の留学生に依頼していた。彼らは米国滞在中、祖国の共産化に遭遇、帰国できず、バンコクに足止めされていたのだ。たまたまベトナム人留学生がハノイ放送を聴きメモしていた。私は彼に累が及ぶのを恐れ、そっと支局から送り出した。

警官は私を、外国人職業規制法違反、労働許可証不所持の罪で逮捕、連行するという。規制法はタノム=プラパート軍事独裁政権時代の1972年、タイ人の就業機会保証のため(実は中国系の締め出し)につくられたもので、外国人特派員は適用外、許可証は日本人特派員13社15人全員が持っていなかった。

私はルンピニ署で、昼食抜きで約7時間「自供」を迫られた。その間一時、20人ほどがスシ詰めの留置場に入れられた。警察はコンクリートの床にバケツで水をまき、収容者が腰をおろせぬようにしていた。同房の「仲間」は警察にみかじめ料を払えなかった零細な露店商たちで、パイサンコム(社会に害を与える者)と呼ばれていた。彼らは私を「コンジープン(日本人)、コンジープン」と歓迎してくれた。

●返却保釈金に「保管料を・・・」

私の逮捕理由はもともとこじつけで、11月6日の記事が東京でタイ語に訳され、「在日の留学生に害を及ぼす。不敬の至り」と本国にご注進された結果のようだった。私は「正式にビザを得て入国し、政府の取材記者証もとって活動している。件の許可証は一度もとれとは言われていない」と反論、その文言を調書に記載させてから署名した。すると警官は「調書の書き賃を出せ」と言った。「まあまあ、イカリさん、ここはタイですから」。そう「助言」するタイの友人の言に従い、たしか100バーツ(約1、500円)渡した。

ルンピニ署は私に保釈金1万バーツ(約15万円)を要求、2カ月半たって事件が「罪なし」で決着しても返してくれなかった。私は署に日参、10日ほどしてやっと取り戻した。その時課長は言った。「保管料を…」。この時も友人の言に従い、1000バーツ手渡したと思う。腹立たしいかぎりだったが、タイ人記者たちは「イカリさん、すごい。よくやった。タイでは一度警察に渡ったカネは決して戻ってこないのだから」と褒めてくれた。

いかり・あきら 1938年生まれ 60年朝日新聞入社 西部社会部 ソウル バンコク各支局長 「声」編集長 朝日ニュースター・コメンテーター 98年まで編集委員
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