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中里実さん 政府税制調査会会長/「声なき声」耳に静かな改正(八十島 綾平)2022年11月

 今年8月、東京大学の金子宏名誉教授が91歳で死去した。戦後日本の租税理論をけん引し、税法の父ともいえる存在だった。「金子租税法」とも呼ばれる緑の本は、税法を学んだ人なら必ず一度は手に取ったはずだ。

 その弟子の筆頭格としてあげられるのが、政府の税制調査会長を10年弱務めている中里実さんだ。評価は人によって様々。「私は法律家ですから」と話し、財政学者のように大所高所・天下国家の議論を積極的に展開しない姿勢に物足りなさを口にする人もいる。

 

「現場」の付き合い大事に

 それでも不思議と周囲に人が集まる。偉い人とも付き合うが、財務省主税局のノンキャリの職員や税理士など「現場」の人々との付き合いを大事にしている。だからだろうか、ここ数年の税制改正を見てみると、派手さはないが実務に広く影響を与える改正が静かに実現していることに気がつく。

 仕組みが複雑過ぎて「誰一人完全に理解している人はいない」と言われた法人税の連結納税制度の見直しは一例だろう。中里さんは複雑な制度が機動的な法人税改正の足かせになるだけでなく、税務のデジタル化促進を阻む一因になっているとみていた。

 「俺さ『声なき声』は絶対にバカにしちゃいけないと思うんだよな」と話していたのは2018年の春ごろ、配偶者控除見直しの話題になった時だ。

 きっかけは私の身の上話だった。法律家である私の妻は専業主婦をしていた時期があるのだが、私たち夫婦は女性の社会進出のために配偶者控除を廃止すべきだという論には完全に同意しきれていなかった。専業主夫・主婦家庭にとって控除はありがたいうえ、税は彼女が再び働き始めることの阻害要因にはなっていなかったからだ。

 だが世の中の流れができると、正面切って疑問の声を上げることはなかなか難しい。中里さんが気にしていたのは、そういう人たちの存在だった。彼はその時、ある民法の条文の話をしてくれた。

 民法752条。夫婦が「互いに協力し扶助」することを義務付けている。専業主夫/主婦家庭において稼ぎの一部を配偶者のものとすることは、民法のなかで義務付けられているということもできるわけだ。

 配偶者控除を廃止するなら、民法のこの規定はいったい何なのだろうか? 「女性活躍」というキーワードからだけではなく、結婚してともに協力して生き抜いていくということとはどういうことなのか? 課題を与えられた気がした。

 

米ラストベルトも視察

 「声なき声」はたとえ軽視してもなくなりはしない。マグマのようにたまりつづけ、それがやがて形となって現れる。米トランプ政権の誕生もその一例だろう。中里さんは背景を知ろうとラストベルト(さびた工業地帯)にも足を運んでいた。

 トランプ政権の税制改正のなかでも、彼が注目していたのが固定資産税の見直しだった。富裕層が多いニューヨークやカリフォルニアと、低所得層が多い中西部で負担に差が出るようにする設計だった。

 税は所得の再配分機能を持つが、それは弱まり続けていると言われる。インフレが進むなかで、格差拡大に歯止めをかけるべく税制はどんな役割を果たせるのだろうか。虫の目を大切にしつつ、そんな議論も期待したい。

 

やそしま・りょうへい▼2005年日本経済新聞入社 経済部などを経て20年よりデジタル政策エディター

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