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「平和の配当」論に思う  冷戦終結 米経済学者たちの伝言(小此木 潔)2017年12月

ソ連・東欧の崩壊と冷戦の終結がもたらした世界的大変動の一端を、筆者は朝日新聞ニューヨーク支局員として米国で取材した。基地閉鎖、軍需産業の縮小、そして「平和の配当」論の盛り上がりだった。

 

1990年代初頭の米国では、冷戦がついに終わったという安堵感と、経済の先行きへの不安が交錯した。バブル経済がはじけた後の不況で金融界から自動車産業に至るまで、労働者の解雇が広がっていたのだ。

 

◆日本とドイツが勝った

 

「冷戦が終わり、日本とドイツが勝った」というジョークすら流れた。イラクによるクウェート侵攻に始まる湾岸戦争があり、世界平和への道も平坦ではないと思い知らされた。だが、とにかく冷戦が終わったのだから、軍事費の桎梏が解かれて世界がより安全で豊かなものになるだろうとの期待が膨らんでいった。「平和の配当」という言葉が、そんな時代を象徴した。

 

冷戦後の米国と世界経済の行方について経済学者に話を聞くことが重要な仕事になった。下手な英語で質問を繰り出す筆者に辛抱強く答えてくれた人々の言葉を、感謝の念とともに思い出す。

 

「アブソルートリー」と、楽しげな声でインタビューに応じたのは、ノーベル経済学賞を73年に受けたワシリー・レオンチェフ教授だった。90年から91年にかけて、ニューヨーク大学の研究室や別荘で何度かインタビューした。ロシアの大学教授の息子に生まれ、10代半ばの頃、革命政権に反対するデモに参加したとか、故郷のサンクトペテルブルクでレーニンを見かけたとも語った。ソ連は「スターリン型指令経済」で、その崩壊によって「人々がついに自由になった」と喜んだ。

 

◆軍事費を教育や研究開発に

 

米国の未来については「冷戦が終わったのだから、軍備に充ててきた支出を減らせる。その分を教育や研究開発に振り向ければ、経済再生につながる。それが平和の配当だ」と語った。

 

彼の別荘は、ニューヨークから北へ車で約3時間かかる風光明媚な保養地にあり、インタビュー後に村のレストランで一緒にランチを食べながら楽しい時間を過ごした。ハーバード大学の教員時代、技術革新や創造的破壊で有名なヨーゼフ・シュンペーターが親切にしてくれたと語り、「彼の墓がこの村にあってね。そこへ行くかい?」と誘ってくれた。シュンペーターの墓の脇に立ち、「私もここに埋めてもらうことになっているのさ」と満足そうにほほ笑んだレオンチェフは、今あの場所で眠っているだろう。

 

70年に米国人として初のノーベル経済学賞を受賞し、著書『経済学』が大学教科書としても使われるなど世界的ベストセラーになったポール・サミュエルソン教授にインタビューしたのは、90年から92年にかけてのことだった。場所は、ボストンのマサチューセッツ工科大学の研究室など。日本の政治状況などをいつも聞きたがる、おせっかいなほど親切なひとで、蝶ネクタイがユーモラスな雰囲気を漂わせていた。

 

◆経済再生と成長へ

 

92年秋、筆者が帰国する少し前にボストンで取材したとき、彼は「世界経済が低成長に入った時期に冷戦が終わったことは幸運だった。軍事に用いていた資金や資源を経済の再生や成長のために使える」と語った。飛行機が空港を飛び立ち、眼下の美しい街並みがぐんぐん遠ざかる瞬間、「彼の話はもう聞けなくなるのか」と寂しさに襲われた。

 

だが2008年秋、世界経済が大恐慌以来の危機に陥った時の米国出張で、彼に4度目のインタビューをする機会を得た。金融技術を駆使した高利回り商品を世界が過信してバブルを膨らませ、その崩壊で苦しむさまを「悪魔的でフランケンシュタインのような金融工学のモンスターが、人々の心の目をふさいだ」「規制を緩和しすぎた資本主義は、壊れやすい花のようなもので、自ら滅びかねない」と喝破した。このとき筆者はサミュエルソン教授らの発言を収めた『大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか』(邦題)という著作を持参していたので、別れ際にサインしてもらった。

 

ノーベル経済学賞を80年に受けたローレンス・クライン教授(ペンシルベニア大)は92年夏、筆者のインタビュー申し込みに、「ロードアイランドの別荘に来てはどうか」と返事をくれた。教授と奥さんの笑顔に迎えられ、コーヒーがおいしかった。

 

「減税策は、富裕層と貧困層の不平等を拡大してしまう」「税制の手直しで貧富の差を縮小するには、むしろ累進性の強化が有効だ」と述べたが、それは現代のトマ・ピケティ教授(パリ経済学校)にもつながっている見解である。「軍事支出は非生産的だ。国内総生産(GDP)に計上されるが、その創出には役立たない」とし、米国の軍事支出を20%ほど減らすべきだと語った。

 

経済学者たちのこうした「平和の配当」論は、ロバート・マクナマラ元米国防長官とも共鳴した。91年9月、ワシントンの事務所でインタビューした際、元長官は冷戦後の世界の安全保障について、「大国間の戦争の危険は、無視できるほど小さくなる」と言い、米国の軍事費に関しては「GDP比を89年の水準から6、7年で半減させ、3%にすべきだ」「浮いた資金を財政赤字削減や国内の社会問題解決、途上国支援に向ければ、平和の配当を享受できる」と力説した。「冷戦が終わった以上、国民は大統領に防衛費削減を求め続けるので、流れは変わらない」とも語ったのである。

 

同年12月、国連本部で彼に再び話を聞いた。「世界の軍事予算は年間総額約8000億ドルだが、これを約7年で4000億ドルまで削減し、経済社会の発展に回すべきだ」と、世界軍縮を論じた。

 

◆クリントン政権で成果

 

90年代の湾岸戦争は米軍の圧倒的な強さを示し、兵士たちの凱旋パレードがマンハッタンであった。だが、ユーフォリア(陶酔状態)は一瞬で消え、「問題は経済を立て直すことだ」という意識が米国民の間に広がった。そこをズバリと突いた選挙戦略を採用したのが92年大統領選に挑んだビル・クリントン氏だった。ニューヨークで開いた民主党大会は同氏を指名するとともに、選挙綱領で「ワシントンの脳死政治を転換する」と宣言し、政府の力で失業の克服や経済再生に取り組む方針を打ち出した。

 

実際、その後クリントン政権の政策で米国は「平和の配当」をある程度享受することになった。89年度に約3000億ドルで米国のGDPの5・9%を占めていた国防費は、96年度には約2600億ドル、GDPの3・6%にまで下がったのだった。

 

クリントン政権はこれによる「平和の配当」を主に財政赤字削減につなげ、市場金利の引き下げを通じて米国経済の成長力回復に貢献した。医療保険の充実案が強い抵抗にさらされ、歳出面での改革は不十分だったが、それでも「平和の配当」がある程度は実現し、享受された時代があったことは改めて評価されてよいと思う。

 

2001年9月11日のテロを契機にアフガン戦争、イラク戦争が起き、「戦争とテロの時代」を前に「平和の配当」論は影をひそめた。世界と米国の軍事費は、90年代に比べるとそれぞれ約2倍にも膨らんでしまった。アジアでは北朝鮮の核ミサイル開発で緊張が高まり、米国の研究機関は北が戦争で核を使った場合の日韓における被害シミュレーションまで発表したほどだ。

 

韓国で核武装論が台頭し、日本も中国も米国も軍事力強化路線をとる。こういう流れが続けば、世界が軍拡競争のワナにはまりこんでしまうのではないか。危うい時代であればこそ、軍縮と非核化を進め、「平和の配当」によって安全で豊かな世界をつくっていってほしいものだ、と懐かしい人々が今も語りかけてくるような気がする。

 

おこのぎ・きよし

1952年生まれ 75年朝日新聞社入社 ニューヨーク支局員 静岡支局長 東京経済部長 論説副主幹 編集委員を経て 2014年から上智大学文学部新聞学科教授 著書に『消費税をどうするか』(岩波新書)『財政構造改革』(同)など 監訳書に『危機と決断 前FRB議長ベン・バーナンキ回顧録(上下巻)』(角川書店)

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