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今も祖国変革を訴える目力 米国へ亡命した謝万軍さん(飯田 和郎)2016年9月

旅客機が離陸態勢に入ると、シートに預けた体から緊張が抜けていった。「うまくいった」と心の中でつぶやく。

 

だが、そんな安堵はほんの一瞬だった。私の乗った北京行きは機内アナウンスもなく、駐機場へと引き返す。再び開いた扉からカーキ色の制服を着た公安数人が乗り込む。私は両腕をつかまれ、外へ引きずり出された。

 

1998年9月、毎日新聞の北京特派員だった私が中国山東省の小さな空港で味わった体験である。空港内の小部屋で長い時間、尋問された。若い反体制活動家から受け取ったばかりの資料全てを没収された。

 

謝万軍さん。当時32歳だった。共産党一党独裁の中国において、新党・中国民主党を結成しようと、山東省政府に民主党設立趣意書を提出していた。

 

私はどうしても会いたかった。数え切れない「なぜ?」が頭の中を巡った。民主化に強い態度を貫いた江沢民時代。無謀に映る試みの真意を直接、尋ねたかった。

 

目力の強さが印象的だった。古い農家の土間でのインタビュー。「政治的権利は全て民衆のもの。政府は民衆の利益代表となるべき。だから党名を民主党と名付けました」

 

当局の許可がない新党設立の動きは他の国内主要都市で進んでいた。各地で芽吹く動きが大きなうねりになるのではないか――。こちらも当局の許可がない取材だった。

 

謝さんが「複数政党制こそ民意が反映される」「政治体制改革の過程で共産党が政権党であるという考えに変わりはない」と強調しても、当局にとって彼ら活動家たちは「危険な存在」でしかない。

 

謝さんへの連絡は自分の携帯を使わず、公衆電話から。取材に向かうタクシーは何台も乗り換えた。目立たぬ衣服で玄関に入る際は幾度も周囲を確認した。全ては当局に察知されないため。しかし、素人の小細工に過ぎないことは、空港での身柄拘束が証明していた。没収された資料は中国民主党綱領案だった。

 

謝さんと私は別れ際、次回会う約束をしていたが、果たせていないままだ。連絡が難しくなった以上に、当局の監視圧力が強まった彼は、ほどなく決断を強いられた。

 

謝さんは中露国境から密出国してロシア極東ウラジオストクの米国領事館に逃れた。ロシア政府は当初、中国との関係を重んじて出国を認めなかったが、翌99年4月、謝さんはニューヨークへ亡命した。米中露3カ国の政治取引が存在したのだろう。

 

あれから18年が経過した。最高指導者が胡錦濤、習近平と代替わりしても、民主や人権に対する中国のかたくなな態度は変わらない。むしろ強硬になるばかりだ。

 

謝さんは今、米国から祖国の変革を訴える。便利な時代になった。インターネットを通じて私と会話できるし、メールも交換できる。彼らの活動は動画配信もされている。だが、国外からの民主化の訴えは祖国に響かない。当局にとって、国内にいれば厄介な存在だが、駆逐してしまえば、すでに危険人物でなくなったのだろう。

 

ユーチューブで会える、謝さんからは今も目の力を感じる。たった一度しか会わなくても忘れ得ぬ人。それは私の恐怖体験ではなく、暗い土間で輝いていた眼差しとともにある。

 

(いいだ・かずお RKB毎日放送常務取締役 元毎日新聞社外信部長)

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