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アルハンブラの思い出(石川 荘太郎)2006年2月

  この間、ずっと以前にスペインのグラナダで買い求めた「FORMA Y COLOR, LA ALHAMBRA・LA CASA REAL」(形と色彩、ラ・アルハンブラ・王宮)という大判の本を久しぶりに開いてみると、一枚の便箋が挟まれているのをみつけた。ボールペンで横書きに書かれた一枚きりのその手紙は、グラナダからこの本と一緒に私が東京の両親に書き送ったものだった。日付は1967年7月12日、およそ 40年前に両親に出した手紙を私が見るのはそれが初めてだった。そんなものが残っているとは考えてもいなかったので、いささか驚くと同時に、若かったあの頃のことが思い出されてしばらくはその手紙から目が離せなかった。

  「拝啓 早いものでグラナダ生活も40日近くになります。ALHAMBRAもほとんど調べ尽くしたので、そろそろ腰を上げようと思っています。(中略)ALHAMBRA関係の本をたくさん買い込んだのですが、一度に送ると(送料が)高いので一番きれいなのだけ送ることにします。いろいろ面白い伝説や歴史などがあるのですが、いちいち書いている時間もないので日本の本でも買って調べてください。写真説明だけはつけておきます。昨日、今日と相当な暑さで38~9度を記録しています。(中略)僕は適当に食い、適当に飲み、充分寝ているためか至極元気です。それでは又」

  社費留学でスペインに行くとき、私は三つの目標を立てた。一つは一年間はマドリード大学に通いスペイン語をマスターすること、二つ目は学生時代に感銘を受けたHUGH THOMASの「スペイン市民戦争」の跡をたどること、そして三番目がアルハンブラを調べることだった。そんなわけで6月初めに大学が終わったとき、すぐグラナダに向かったのである。

  私が最初にしたことは、一日中窓からアルハンブラの見える下宿を探すことだった。新聞の貸し部屋案内欄を頼りに見つけたのはCARRERA DEL GENIL 21-3(ヘニル通り21番地の3階)にあるグラナダ市役所に勤める公務員夫妻の家の一室だった。その部屋からは丘の上に立つアルハンブラの西半分が見渡せ、夜にはイルミネートされた宮殿が宙に浮いているような感じになった。私はベッドの向きを変え、夜、ベッドの中からも宙に浮いたアルハンブラが望めるようにした。

  家主の公務員氏は私がアルハンブラを調べにきたことを知ると、6年前(1961年)に出版されたグラナダ大学美学教授でグラナダ市長も務めたアントニオ・ガジェゴ・イブリン著「GRANADA」を紹介してくれた。そして翌日から500ページを超すこの本と、日本から持っていったワシントン・アービングの「アルハンブラ物語」を携えて、朝といわず夜といわずアルハンブラに入り浸る生活を始めたのである。

  アルハンブラについては多くの案内書が出ているので触れないが、私が最も強い印象を受けたのはアルハンブラはどこを歩いても水の音が絶えないことだった。有名な「パティオ・デ・ロス・レオネス」(獅子の中庭)や「ヘネラリフェ」(離宮)だけでなく山道を歩いているときもシエラ・ネバダ(ネバダ山脈)から導かれた水の音が聞こえるのだ。

  宮殿のあちこちに座り込んで本を読みふけっている東洋人の姿はすぐ宮殿で働いている人達にも知られ、いろいろな話しもしてくれるようになった。彼らの一人は「アルハンブラは宮殿だけでなく、宮殿の下を流れるダロ川の対岸にあるアルバイシンの丘からの眺めが素晴らしい」と教えてくれた。ある夕暮れ、昔ながらの細い路地をたどってその丘に登ってみた。西日を受けて輝くアルハンブラはその名の通りまさに「赤い城」だった。

  約1ヶ月半、アルハンブラだけを見つめて過ごした。あの旅行にまさる旅はその後も経験していない。(2006年2月記)
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