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規範からの自由(芥川 喜好)2005年11月

 いつも思うのは他人の旅である。
 たとえば二百年ほど前の話。土佐を旅していた備中玉島の人・近藤萬丈は、日暮れに激しい雨に遭い、ふと見つけた小さな庵に一夜の宿を乞う。炉端には、やせて青白い顔をした一人の僧がいた。
  食うものも風を防ぐものもありませんよ、と言ったきり僧は一言もしゃべらない。といって、座禅するでも念仏を唱えるでもない。話しかけても微笑するばかり。頭がおかしいのだろうと萬丈は思う。
  一夜明けても雨はやまぬ。せめて小雨になるまで、と乞えば、いつまでなりと、と僧は言い、麦粉を湯に溶いて食わせてくれた。
  改めて庵のなかを見渡すと、窓の下に小さな机と二巻の荘子がある。そこに見事な草書の詩がはさまっている。僧のものらしい。萬丈は驚愕し、扇を出して一筆もとめると、たちどころに筆を走らせ、最後に「越州の産了寛書ス」と書いた――と、萬丈の筆になる稿本『寝覚めの友』は伝えている。良寛の伝記の類には必ず出てくる話である。
  玉島の円通寺で修行した後、越後に帰るまでの消息不明の時代の良寛が、そうして偶然にも目撃されていた。旅の途にあった良寛のひそかな呼吸を伝える、これも旅人萬丈の鼓動にみちた文章は、歴史における人間の交差の妙というものだろう。
  良寛は自分を捨てるために旅に出たのである。十年の修行を積み、曹洞の僧として宗門に生きる道もあった。だが現実は、経を読むことを出世の手段としか考えないようななまぐさ坊主ばかりだ。永平寺と総持寺の抗争が続く曹洞という組織自体が腐っていた。
  人間同士のあらそいのなかに宇宙の真理はない。むしろ道元の言う、山の姿、谷川の流れの音にこそ、仏の言葉はある。良寛がそう考えて放浪の旅に出たとしても、何の不思議もない。
  そうして経を読まず、念仏を唱えず、人と語らず、黙したまま無為の日を過ごすことで空無の自分に向きあい続けた。それが良寛にとっての「旅」だった。
  たまたま萬丈の筆がとらえた良寛の姿は、我々の知る後年の、あの五合庵の良寛の姿にぴたりと重なってくる。まさに「旅」のなかから良寛の原像は立ちあがるのである。
  絵の世界でも、旅の者は定住派には思いも及ばぬ視線をもって心に沁みる作品を残している。
  徳川幕藩体制の初期を生きた久隅守景は、名品『納涼図屏風』(国宝)の作者である。初秋の夕べ、半裸の親子が夕顔棚の下で涼みながら月を見ている。その豊かな肉体表現もさることながら、粗末なしつらえの空間で風に吹かれる彼らのゆるやかな生の姿と、立ちのぼる情愛の表現がすばらしい。
  時は、狩野探幽が京都から江戸に移り、幕府の奥絵師として絶大な権勢を誇っていたころ。守景はその門下だったが、何かの理由で破門され旅に出た人間だ。以後、消息は不明ながら、この納涼図のほか幾つかの農耕生活図が伝わっている。
  時流に乗る狩野派の豪壮な襖絵と、名利を捨てて放浪を続けた男の精彩あふれる庶民生活の図の、どちらが本当に輝いているのかは言うまでもあるまい。
  川端康成の所蔵品として知られた『東雲篩雪図』(これも国宝)の作者浦上玉堂も、脱藩し一介の放浪者となった人だ。内に沸きおこるものを抑えようもなく筆に託した途方もない奇観風景は、「当時の世界の最前衛」と評されたこともある。
  あらゆる規範からの自由。むろん、それも「旅」のたまものだったはずである。
  というわけで、私には、旅とは自分を捨てに行くことだという恐ろしい先入観がある。自分で出かけるのはあらかじめ日程の決まった旅行か出張程度のものであり、いまだ旅というものをしたことがない。
  現代に旅は成立しうるのだろうか。(2005年12月記)
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