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姉への旅(藤原 作弥)2005年9月

ワシントン特派員時代、アメリカ国内旅行で最も足繁く訪れたのは、ニューヨークでもない、ロサンゼルスでもない。アイオワ州のダベンポートという小都市である。中西部の田舎町によく旅したのは、実は、そこに姉一家が住んでいて、歓待してくれたからだった。

シカゴを飛び立つとすぐ眼の下にアイオワ州の緑野が半円球に広がり、その合間を縫ってミシシッピー河が幅広く蛇行している。その湾曲した河岸にあるのが典型的な農業と牧畜の町、ダベンポートである。

ワシントンやニューヨークなどで忙しく政治・経済の取材をしていると真のアメリカの姿を見失いがちになる。そんな時、ふと中西部の田舎町の風景と人情が恋しくなる。私にとってダベンポートはアメリカにおける古里のような存在になっていた。

私たち一家は夏休みによくダベンポートを訪れては、姉一家の案内で近郊を巡り、アメリカ中西部の牧歌的雰囲気を満喫した。

アイオワ州は、コーン・ステーツともポーク・ステーツともいわれる。見渡す限りトウモロコシ畑と大豆畑。どこまでドライブしても光り輝く緑の地平線が果てしなく続く。映画『フィールド・オブ・ドリームス』で有名になったトウモロコシ畑の野球場。これも映画の舞台になった『マディソン郡の橋』。かと思えばトム・ソーヤ的世界の田舎の廃屋民家。ハックルベリー・フィン的世界のミシシッピー河のナマズ釣り。川遊びや川下り。河岸に係留された遊覧船のカジノ巡り・・・。

私より九歳年長の姉は、学業成績はいつもトップクラス。音楽、絵画、水泳・・・何にでも秀でていた。才色兼備の大和撫子とは、彼女のような日本女性をいうのだろう。女子大の国文科で本居宣長を卒論に書いた軍国少女がきのうまでの〝鬼畜米英〟と結婚したのには驚いた。敵性語だった英語が出来たので米軍キャンプの事務職員に採用され、そこで経理将校だったジャック・ウイスと出会い、恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚したのだった。

しかし、ダベンポートを訪れるたびに私は、姉が中西部の小さなコミュニティーで日本人として尊敬を集めていることを知り、誇りに思ったものである。姉自身、米国籍になってからも「私の心は、いつも敷島のヤマトダマシイ」と言い続けていた。

姉は小学校で、音楽と絵画を教え、大勢の教え子や地域社会から「ミセス・ウイス」の名で慕われていた。教会ではオルガンを弾き、地域のボランティア活動の中心的なメンバーだった。定年後は大学の成人講座で日本語と日本文化論を教え、ささやかながら日米交流に貢献した。

二人の息子に五人の孫を得た姉は、夫と日本に里帰りする際には、必ず孫の誰かを連れてきた。そのたびに広島を訪れ、原爆ドーム・平和記念館を見せた。「昔、グランパの国がグランマの国と戦争した。その戦争の怖しさと平和の尊さを知って欲しい」がその理由だった。

その姉が昨年2月初旬、肝臓ガンで死去した。死の数日前、ジャックから電話があった。一時退院して自宅療養中の姉が私と話したがっているという。姉は非常に落ち着いており「日本人に生まれて良かった。アメリカ人になったことも良かった。」としみじみ語った。そして「ジャックとの54年間の幸せな生活は、日本とアメリカの戦争が残した平和の遺産よ」と付け加えた。長年、日米関係を取材してきた私にとってこの姉の言葉は貴重な遺言として残った。

私が最も最近にダベンポートを訪れたのは姉の死後半年たった昨年(2004年)の7月、家内を伴って墓参したときだった。前述のようにダベンポートは何度も訪問し、隅から隅まで知っているつもりだったが、郊外の丘にある墓地公園は初めてだった。

姉の眠る丘陵からは眼下に、 ミシシッピー河が大きく蛇行する緑の平野が果てしなく広がって見えた。(2005年9月記)
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