取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
昭和天皇にまつわる取材/書けなかった「腸のご病気」/書きに書いた石橋親書の謎(倉重 篤郎)2026年2月
「書かなかった話」ではなく「書けなかった話」からしたい。
密談の動き察知したものの
1987年9月のことだ。当時私は政治部記者として、中曽根康弘政権の後藤田正晴官房長官番をしていた。5年間続いた政権末期の幕引き官房長官だった。日本国のスポークスマンとしてのみならず、ポスト中曽根、中曽根政治総括、といった面でも、重要な取材対象だった。
我々番記者はほぼ四六時中、後藤田氏の後を追っかけていた。まだ官房長官室の中に記者が自由に出入りできた時代だ。秘書官席に座る者もいたし、電話を取る者までいた。
といっても、敵も海千山千。重要な面談は、記者団を巻き、別の場所をセット、こちらが気付かないことも多々あった。普段は誰も住んでいない、官邸敷地の奥にある官房長官公邸と呼ばれた古い建物も、時々密談の場として使われた。
ある日のこと、公邸密談の動きを察知、公用車のナンバープレートから、相手が宮内庁長官(当時は富田朝彦氏)であることを突き止めた。この時節何用か、とは思ったが、我が取材はそこで止まってしまった。
後藤田氏の警察の後輩だからよもやま話もあろう。他社で気付いた者もいない。しばし寝かしておこう。金曜日の夕刻、週末気分もあった。安直に割り切ったところ、とんでもない特ダネを抜かれることになった。
今でも忘れない。翌未明、社からの電話で叩き起こされた。朝日新聞朝刊1面トップ(9月19日付)に「天皇陛下、腸のご病気」「手術の可能性も」という6段抜きのスクープが掲載されていた。アチャー。やはりあれがそうだったのか。後悔先に立たず。その後宮内庁サイドから出たネタだったことはわかったが、あの宮内庁長官の動きを端緒に、組織を挙げて取材していたら、朝日と並べたかもしれない。
それだけのニュースであった。昭和天皇は、その15カ月後、十二指腸乳頭周囲腫瘍、腺がんで死去したが、300万人の国民の死をもたらしたあの戦争と、世界第2位の経済大国にまでなった戦後の復興・発展と、二つの真逆の側面を持った昭和という時代の終わりを含意する歴史的大ネタであった。書くべき話を書けなかった、との不全感が残った。
それから30年近くが経過、私は新聞紙面を離れて、サンデー毎日という週刊誌で、週1回の政治コラムを書く身となっていた。ネタにしても分量にしても、週刊誌というメディアの持つ自由度に新鮮さを感じながら仕事をしていた。
そこに昭和天皇がらみのネタが一つ持ち込まれた。「えー? 本当」と、頬をつねりたくなるような、以下のものであった。
「東條以上の戦争責任者」
1956年12月末、石橋湛山政権発足直後のことである。石橋首相が初の内奏に皇居に赴き、昭和天皇に初組閣の閣僚名簿を示した時のことである。昭和天皇が名簿に岸信介外相とあるのを見て、極めて深刻な表情をして石橋にこう尋ねたという。
「自分はこの名簿に対して一つ尋ねたいことがある。それはどうして岸を外相にしたかということである。彼は先般の戦争において責任がある。その重大さは東條(英機)以上であると自分は思う」
石橋はこれを聞き、その厳しさに驚き、かつ恐縮し、なぜ岸を外相(副総理格)にしたか百万辞を尽くして了解を求めたという。直前の自民党総裁選の第一回投票で岸がトップをつけたのに対し、決選投票で2、3位連合が成立、石橋が小差で岸を抑え込んだ、との経過があり、政局安定を期すためには岸を重職で登用する必要があった、云々であろう。
それに対して天皇はそれ以上に追及することはなく、「そういうわけなら宜しいが、とにかく彼は東條以上の戦争責任者である」と繰り返し述べたという。
皇居の奥の院での一対一のやりとりがなぜ漏れたか。それは石橋本人が明かしたからだ。もちろん、世の中に向け大衆的にオープンにしたわけではない。ある特定の人物に向けた私信の中で詳らかにしたものだ。
出自や思想 相いれぬ二人
石橋は大変な国民人気を受けて首相になるが、病を得て71日間で退陣、後任首相には副総理格であった岸が就任する。岸は石橋とは全く違う路線を歩む。そもそもが、ジャーナリストとして「小日本主義」を唱え、軍部の領土拡大主義を批判したリベラリストの石橋と、革新官僚として満州国の産業開発を主導、戦後はA級戦犯とされながら政界復帰を果たした岸とは出自も思想も背景も相いれないものがある。親中派の石橋、親米派の岸、護憲派の石橋、改憲派の岸と外交路線、憲法観も大きな隔たりがあった。
その岸が政治生命を賭け日米安保改定に乗り出した。国民の間から米国の戦争に巻き込まれる、と猛反発があった。国会が二重三重に包囲され、戦後日本の最大の反政府市民闘争となったのはご承知の通りだ。
退陣して3年余の石橋も、この市民の側に身を置いた。他議員との連名で岸に進言書を提出、首相退陣などを求めているが、それとは別に岸宛てに送られたのが、この昭和天皇内奏時のエピソードが盛り込まれた私信だった。1960年4月20日付で、国会情勢が緊迫化、安保改定阻止国民会議の第15次統一行動(4月15日~26日)のさなかであった。私信の趣旨としては、昭和天皇の厳しい見立てを知らせることによって、岸本人の自重と安保改定の延期を求める、という形になっている。
私信は石橋の秘書が岸政権の椎名悦三郎官房長官に手渡したところまでははっきりしている。その後の扱いは不明だ。岸が読んだかどうかもわからない。ただ、石橋側には石橋の手書き草稿1通とそれを清書したもの(私信未完成版)が2通残された。それらは、どこかに紛れ込んでいたが、2015年8月、石橋湛山研究者の増田弘氏が、石橋が社長を務めていた東洋経済新報 社の倉庫から発掘した。それが人を介して私の元に送られてきたのである。
これは昭和天皇に関する一級資料ではないか。内奏という形で明らかに政治的発言をしている。岸を東條以上の戦争責任者だと名指しする。天皇の戦争観が伝わってくる。
昭和は遠くなりにけり
ただ、これを字にするには、これが昭和天皇の言辞に間違いない、という確証が必要だ。その手書き草稿が、石橋が脳梗塞のため不自由な左手で書いた独特な草書体であること、それと清書版2通は、ほぼ一対一対応になっていることを確認できた。問題は、石橋が私信の中で昭和天皇と名指しせず、「ある一人の人」「かの一人の人」と書いていることであった。石橋ともあろう人が、内奏内容を結果的に政治利用したことに違和感が残ったのも事実である。
ただ、ここはもう文脈で読み取るしかない。保阪正康、原彬久氏ら昭和史研究者に読んでもらい、やはりこれは昭和天皇しか考えられない、という言質をいただいた。
ここはもう書くしかない。サンデー毎日で、歴史文書スクープとして3週にわたって特報した。昭和天皇のがん手術を書けなかった未達成感が、反転攻勢となった面もあるかもしれない。今回は書きに書いた。もちろん、新聞本紙での勝負も考えた。ただ、「ある一人の人」「かの一人の人」の壁は破れなかった。
それにしても岸は石橋の私信をどう読んだのであろうか。平成、令和と昭和は遠くなりにけり、である。だが、我々の世代はまだ昭和史の間隙を埋めることに関心がある。
▼くらしげ・あつろう
1953年東京都生まれ 78年東京大教育学部卒 毎日新聞社入社 水戸 青森の各支局 整理 政治 経済の各部を経て 2004年政治部長 11年論説委員長 13年専門編集委員を経て 現在 客員編集委員 著書に『日本の死に至る病』(河出書房新社)など
