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日本国憲法に「男女の平等」/その立役者と〝発見〟した人(稲澤 裕子)2025年12月

 12月17日は日本で衆議院議員選挙法が改正され、婦人参政権が成立してから80周年にあたる。ニュージーランドで1893年に婦人参政権が成立、第一次世界大戦後に欧米で相次いで制度化されたのに比べ、日本での成立は1945年と遅かった。

 その翌年成立した日本国憲法は、性別によって「差別されない」(第14条)と明記し、家族関係について「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」(第24条)と、両性の平等を掲げた。今でこそ多くの憲法に男女平等が明記されているが、アメリカ合衆国憲法が性差別を禁じているのは今も参政権だけで議論が続く。

 「日本国憲法は、当時としてはかなり先進的でした」。10年前、戦後70年を国内外の有識者に振り返ってもらう企画で、ハーバード大学エドウィン・O・ライシャワー日本研究所にスーザン・ファー教授を訪ねると、開口一番、こう切り出した。

 ファーさんは日本研究の第一人者として知られ、日米政財界の交流にも寄与、両国に多くの教え子がいる。ライシャワー元駐日大使の写真が見守る研究所で聞いたファーさんの〝発見〟について、紙面で紹介しきれなかった部分も含めて振り返りたい。

 

公文書館に眠っていた史実

 ファーさんは1977年、ウィスコンシン大学マディソン校政治学部助教授になってほどなく、日米共同の「占領期日本研究プロジェクト」に参加した。

 連合国による日本占領(1945〜52)に関する記録は箱詰めのまま、国立公文書館で「機密扱い」に指定されていた。30年たったちょうどこのころアメリカ政府が、日本占領に関する大量の資料の公開を承認したところだった。機密指定が解除されるや、日米の研究者が次々とメリーランド州スートランドにある巨大な国立公文書館を訪れた。研究者が箱単位で資料を請求すると公文書館のスタッフが該当する箱を探してカートに載せ、受付まで運ぶ。――報告書、会議記録、新聞の切り抜き、手紙や手書きのメモに至るまで、あらゆる記録が保存されていた。

 かたや日本軍は書類を焼却し、かたやアメリカは、次世代への財産として公文書を引き継ぐ。彼我の違いを思いながら話を聞いた。公文書館設立から約90年になるアメリカの職員数は現在2646人。対して、日本では1971年に公文書館を創設したものの職員はわずか93人。差が縮まる気配もない。

 「私が請求した箱には、ダグラス・マッカーサー元帥が占領軍の一部門に日本国憲法の草案作成を命じた1946年の記録が収められていました。当時の研究者の関心は、ほとんどが占領軍内部での前文、戦争放棄、そして9条をめぐる議論に集中していました。少なくとも当時、私のように女性の権利――すなわち14条と24条――に関心を持つ研究者はほとんどいなかったと思います。

 目的の箱を見つけて調べ始めたとき、背筋がゾクッとするような感覚がありました。まさに目の前に、ベアテ・シロタがこれらの条文の起草で果たした役割に関する記録が溢れんばかりに存在していたのです。

 私はどうしてもシロタさんを探し、話を聞きたいと思いました。連絡を取り続けていた元占領軍関係者を通じて、シロタさんが当時ニューヨークに住み、アジア・ソサエティに勤務していることがわかりました。私は『占領期の研究をしている』とだけ伝えてインタビューを依頼、彼女は会ってくれることになりました」

 

両親にも話していなかった

 ベアテは自伝『1945年のクリスマス』(1995)で、「私が、閉ざした口の鍵を開けたのは、一九七七年にミシガン大学の研究者スーザン・ファーに話した時で、それまで両親にも話してはいなかった」と記している(ベアテの記憶違いで正しくはウィスコンシン大学)。2000年に参議院憲法調査会で参考人として意見陳述も行い、今ではベアテの存在は広く知られる。

 世界的なピアニストだった父レオ・シロタが作曲家山田耕筰に請われて1929年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に就任、ベアテは5~15歳まで日本で育つ。日本語が堪能で日本における女性の地位の低さをよく知っていた。アメリカ留学中に日米開戦により両親と音信不通となり、タイム誌リサーチャーを経て、両親に会うため連合国軍総司令部(GHQ)民間人要員として日本に赴任した。自伝の書名通り45年12月24日のこと。

 46年2月憲法案起草メンバーに選ばれ、リサーチャー経験を生かして図書館や大学から各国憲法を集め、女性のための権利条項を整理して非嫡出子や養子の差別禁止、平和教育、子どもの医療費無償化など8条を書き上げた。その大半がGHQ内の議論で削除され、14条の性差別禁止と24条などが残った。GHQと日本政府が草案を検討する会議には通訳として加わったが、草案へGHQが関与したこと自体厳しいかん口令が敷かれ、極秘とされていた。

 「インタビューの後、彼女は自分の話をする機会が訪れたことに感謝してくれました。私のキャリアの中で、日米関係の研究を通じて多くの素晴らしい瞬間がありましたが、ベアテ・シロタさんとの出会いは中でも頂点の一つでした。

 彼女が戦後日本の重要な時期に果たした独自の役割について、正当な評価を受けるべきだと感じていたからです。それから彼女は自分のことを自由に語り始めました。その後も何度か会いましたが、いつも温かく『あなたが私を〝発見〟してくれたのよ!』と、明るい笑顔で迎えてくれました」

 

緩やかな女性の政策同盟

 政府の帝国憲法改正案は約4カ月間の国会審議で修正され、46年11月、日本国憲法が成立する。ファーさんは、組織化されていない緩やかな「女性の政策同盟」といえるつながりが成立を支えたと見る。

 婦人部隊のエセル・ウィード中尉は45年秋に着任するとすぐ市川房枝、藤田たき、加藤シヅエら日本の女性指導者たちを探し出して会い、連携を深めていく。手を携えて全国をくまなく回って集会を開き、女性たちに投票を呼びかけた。

 46年4月10日に行われた婦人参政権成立後初の総選挙で、女性の投票率は事前予想を覆して67%に上った。39人の女性国会議員が誕生、女性国会議員のクラブを結成し、提案されていた新憲法に国民の強い支持を取り付けることを第一の活動目標とした。新日本婦人有権者同盟などの女性組織も新憲法と女性の権利の保障へ国民の支持を得るために活動し国会での承認につながった。

 ウィードを中心にGHQ内で女性の権利向上を支持する人々と日本の女性指導者たちとのつながりは、労働省に女性の問題を扱う専門部局の創設にも結びついた。47年婦人少年局が設置され、女性が局長に選ばれる下地を作った。初代局長山川菊栄はじめ、高橋展子(女性初の大使)、森山眞弓(文部相・法務相)、男女雇用機会均等法を成立させた赤松良子ら女性リーダーを輩出した。

 赤松良子と岩田喜美枝・元厚生労働省雇用均等・児童家庭局長らが製作委員会を作って、2004年に完成した映画「ベアテの贈りもの」(藤原智子監督)は、今も上映会が続く。

 10年前、ファーさんは政党に女性候補擁立と女性政策を求めつつ、「女性自ら政治に参加し、自分たちの力で政治を変えていくという意識で取り組んでほしい。誰にでも、社会を変える力があるのだから」と語った。初の女性首相が誕生した今も、いや、今だからこそ1票の重みと1人1人の意識の大切さにしっかり向き合いたい。

 

▼いなざわ・ゆうこ

1982年読売新聞社入社 社会部 生活部 経済部を経て 「大手小町」編集長 調査研究本部主任研究員を務め 2018年退社 昭和女子大学特命教授を経て 現在 昭和女子大学現代ビジネス研究所特別研究員 共著に『昭和時代』『企業力を高める一女性の活躍推進と働き方改革』など

 

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