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大使公邸突入 4時間生中継/潜水艦元艦長 謝罪日本語に(春川 正明)2025年6月

 「まだ現役でテレビやラジオでニュース解説をしているのに、なぜ私に原稿の依頼が?」

原稿依頼は嬉しかったが、「書いた話 書かなかった話」の原稿は、現役引退した一流記者が書くと思っていたので驚いた。

 

◆銃抜かれ、初めて死を覚悟

 「書かなかった話」といえば、4年間で海外生中継117回、VTRリポート116本を経験した激動のロサンゼルス特派員時代の二つの取材が頭に浮かんだ。一つ目は「ペルーの日本大使公邸人質事件」だ。1996年にペルーの左翼ゲリラ、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)が一時は約700人の人質を取り日本大使公邸に約4カ月間立てこもった。ペルー軍特殊部隊が公邸に強行突入し人質を救出して、電撃的に解決した。

 突然、爆発音が響き渡った強行突入の瞬間、公邸近くに居た筆者はすぐに顔出しでリポートし、発砲しながら大使公邸に向けて走りだした装甲車を追いかけようとしたが、「あまりに危険だ」とカメラマンに止められた。

 大使公邸を見下ろせるビルの屋上では24時間、カメラマンが撮影を続けており、そこから日本に向けて生中継でリポートをするために、無謀にも銃撃の中を自転車に乗って走り出した。しかしすぐに兵士に止められ顔を地面に押さえつけられた。ビルの前には規制線が張られ銃を持った男が行く手を遮った。他社の日本人カメラマンが制止を振り切って走り出したのに続いた。その時、男が銃を抜いたのに気付き人生で初めて死を覚悟した。私の頭の上ではカラーの走馬灯が回った。制止を振り切ったのには理由があった。

 ペルー取材のコーディネーターだった日系ペルー人のマリノ森川さんから何度も忠告を受けていた。「いいですか春川さん、大変な事が起きて危険な目に遭って行動を止められた時には冷静になって、相手が軍の兵士か警察官かを必ず見極めてください。警察官は『止まれ』と言ってから銃で撃ち、軍の兵士は銃で撃ってから「止まれ」と言います」。規制線を越えた時に銃を抜いた男の背中には「POLICIA(警察)」と書かれていたのだ。

 ビルの屋上に日本人記者として一番乗りした筆者は、日本に向けて約4時間生中継でリポートを続けた。屋上からは多くのペルー軍兵士が大使公邸の中に突入し銃撃するのが見えた。爆発は約40分間続いたが、そこはまるで戦場だった。

 ペルーには4年間で7回取材に行き、日系人のフジモリ大統領にも3度単独インタビューした。明治の日本人のような大統領の視線は鋭かった。日本語での私の質問を完璧に理解していて、時には通訳が訳す前に私の質問に答え始めた。

 

◆扉を開けたら大統領の背中

 一連のペルー取材で多くの成果を出せた裏には、大統領の姉であるファナさんの存在があった。大統領官邸での食事にも招かれカラオケもご一緒し、折に触れてファナさんからは貴重な情報を得た。特派員から帰国した後も、当時日本に住んでいたファナさんを訪ねて旧交を温めたこともあった。

 ある日、ファナさんの自宅に居た時に、大統領の多くの支持者が大統領官邸の前に集まっていて、フジモリ大統領が姿を現すかもしれないとファナさんが教えてくれた。取材のために官邸に大急ぎで向かう際に、ファナさんが自宅警護用のパトカーを使わせてくれた。官邸に到着すると、一緒に来てくれたファナさんの息子が、驚くことに我々を官邸の中に入れてくれた。彼に導かれて官邸の中を大急ぎで走り、あるドアを開けて外に出たところ、なんとそこにフジモリ大統領が立っていた。集まった多くの支持者を撮影するメディアのライトに照らし出された大統領の背中の真後ろに突然出ることになり、ひっくり返るほど驚いた。

 

◆独占1時間半 元艦長の涙

 もう一つの印象的な取材は、2001年にハワイで日本の水産高校実習船「えひめ丸」が、浮上してきた米海軍原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され沈没した事故だ。実習船の教員・乗組員5人と高校生4人が亡くなった。日本からも大勢の取材陣が応援に来て長期取材となった。

 日米メディアの焦点は、米海軍基地での査問会議で行う潜水艦のスコット・ワドル元艦長の証言だった。事故原因の詳細や、犠牲者や家族への謝罪の言葉に注目が集まった。日米の取材陣がワドル元艦長にインタビューどころか接触すらできていなかった中、ホテルで彼と食事する機会を得た。誘ってくれたのは、ロサンゼルスで4年間、公私共に大変お世話になった米テレビ局NBCのサラ・フルーマン氏だった。

 ワドル元艦長は結局、刑事免責を得られなかったが、査問会議で証言を行った。犠牲者の家族に対して真実を述べたかったからだろう。その後、NBCがワドル元艦長に独占インタビューし、筆者も日本のメディアとして唯一独占インタビューできた。ハレクラニ・ホテルで軍服を着たワドル元艦長へのインタビューは約1時間半に及んだ。筆者のキャリアにおいて、最もハードで長いインタビューとなった。衝突事故で何が起きたのか、それに対する彼の証言、そして犠牲者の家族に対する謝罪などについて聞いた。犠牲者と家族について聞いた時、彼は涙を流した。ワドル元艦長には犠牲となった高校生と同じ年頃の娘がいるのを知っていた。

 ワドル元艦長にはインタビューの直前にあることをお願いされた。犠牲者の家族に日本語で謝罪をしたいので、自らの謝罪の言葉を日本語に訳してくれないかと。彼の言葉を筆者が日本語に訳してローマ字で書き、日本語の発音も教えた。その言葉は「私にこの事故の全ての責任があります。命が失われたことについて、家族の皆さまに心からおわびします」だった。彼はそれを日本語で覚えてカメラに向かって謝罪した。

 

◆1年後の愛媛同行は辞退

 このインタビューには後日談がある。筆者が日本に帰国した翌年、ワドル元艦長は事故で亡くなった人たちの家族や関係者に謝罪するため日本へ来て、愛媛県の高校で慰霊碑に献花した。その際に、筆者に通訳として愛媛へ一緒に行ってほしいと頼んできたのだ。当時、筆者は大阪のテレビ局でニュース番組のプロデューサーだった。元艦長の来日は大きな注目を集めるニュースだったので、筆者が同行することで彼を独占取材すればいいのではという関係者からのアドバイスもあった。しかし、筆者が独占取材することが彼の謝罪の旅にとってはマイナスになるのではないかと考えて、最終的には元艦長の申し出を断った。テレビ業界の人からは「彼を独占できれば、おいしい取材だったのに」との指摘も受けた。ワドル元艦長が日本での全ての予定を終えてアメリカに戻る際には空港で直接会って言葉を交わし、妻と娘へのお土産を買う余裕も時間もなかっただろうと思い、日本の小さなお土産を手渡した。

 海外特派員、世の中にこんなに面白い仕事はないと思う。支えてくれる妻と子どもたちという家族の存在無くして、海外特派員の仕事は全うできなかった。家族を十分に顧みることなく好き放題に取材に走り回ることができたのは、妻が子どもたちをしっかり守ってくれたからだ。「また一緒に海外に住もうね」と約束していた妻・修子は、今年1月に突然帰らぬ人となった。

 

はるかわ・まさあき▼1985年読売テレビ放送入社 映像編集者 記者 NNNロサンゼルス支局長 チーフプロデューサー 報道部長 執行役員待遇解説委員長 読売巨人軍編成本部次長兼国際部長など歴任 現在 RSK山陽放送のテレビとラジオおよび 東京メトロポリタンテレビジョンでニュース解説 講談社オンライン「現代ビジネス」でコラム連載 現在 フリージャーナリスト 関西大学客員教授

 

 

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