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8・12日航ジャンボ機墜落事故 /御巣鷹山」の誤報 正せず悔い/1・7㌔の距離 報告したが――(滑志田 隆)2023年8月

 8月の空を仰ぐたびに、あのすさまじい現場を思い起こす。赤茶けた地面に焦げ跡が広がり、航空機の残骸が散乱していた。毛布にくるまれた遺体が次々に空輸されていく。1985(昭和60)年8月15日朝、私は群馬県上野村の日航ジャンボ機墜落事故の現場にいた。死者520人、生存者4人。未曽有の事故発生から4日目。写真部員と共に急ごしらえのテントで寝泊まりした。

 自分が今、どこにいるのかを正しく知ることが現場記者の第一の務めだが、その基本動作ができなかった。地図を持参したにもかかわらず、私はジャンボ機墜落の位置を「御巣鷹山」とする誤報を発し続けた。その修正に真摯に取り組まなかった。慙愧に堪えない。

 8月12日午後6時12分、大阪行きの日航123便が羽田を離陸した。12分後に相模湾上空で衝撃があり、垂直尾翼を失った。同6時56分30秒、群馬・長野県境の山に墜落した。第一報は時事通信。マスコミの初動ぶりは朝日新聞社会部編『日航ジャンボ機墜落・朝日新聞の24時』に詳述されている。

 私は13日深夜、毎日新聞の第2陣として群馬県上野村へ。翌14日未明から前線本部の高尾義彦キャップの指揮下に入った。村役場や県警の現地対策本部を取材し、ぶどう峠で無線連絡を中継した。すでに「現場は御巣鷹山」の誤解が蔓延していた。15日早朝、本社ヘリで山中の事故現場に降り、先陣の萩尾信也記者と交代した。

 

「蜜柑の皮むき」禅問答

 よく出来たテントだった。萩尾君が自衛隊から提供されたビニールシートやロープと焼けた木々を組み合わせて作った。その技に感心した。機体の残骸の中を歩き、遺留物の模様などを記事にした。コックピット近くの焦げたカラマツの根元に、少女のひらがなの名が書かれた白い帽子が掛かっていた。暗転して消えた「夏休み」に胸が痛んだ。

 その深夜、大型無線機の出力が急に改善し、社会部デスクと直接のやりとりが可能になった。「他社に気づかれないように行動し、現地の事故調に当たれ」との指示だ。漆黒の闇の中、ヘッドランプだけを頼りにスゲノ沢上流部まで下りた。その頃、東京本社では運輸省詰めの菊地卓哉記者らが「事故原因は後部隔壁破裂」の特報に取り組んでいた。「カクヘキ」という言葉を事故調に当て、「反応をうかがう」のが現場記者に与えられた任務だった。

 青シート張りの内側から出てきた事故調の二人組に食い下がった。やっと得たのは「蜜柑の皮むき」という禅問答のような答えだった。破裂してめくり上がった状態を意味していたが、実は私は「隔壁」がいかなるものかを知らなかった。本社の勝又啓二郎デスクに報告。同氏は「ウラがとれたかもね」と言ったが、詳しい内容を教えてくれなかった。

 

「ここはタカマガハラヤマ」

 夜が明けた。前日から再三、5万分の1の地図「十国峠」と2万5千分の1の「浜平」を参照していた。自分の位置が〝御巣鷹山〟のかなり南方であることを確信した。しかし、具体的に〝どこ〟なのか不明だ。そこは地図の端だった。

 現場を見に来た二人連れの森林組合の老人と遭遇した。「私たちはどこにいるのか。教えてください」と迫った。一人が「ここはタカマガハラヤマの東。御巣鷹山はずっと北だ」と言う。「ここは御巣鷹山ではないんですね」と念押しすると、他の一人が「この辺りのあちこちを、御巣鷹山と呼ぶ」と曖昧なことを言う。昔から献上鷹や矢羽根の採取を目的に鷹を捕獲する場所だったという。

 3泊を過ごした朝、米国運輸安全委員会(NTSB)やボーイング社の技術者が多数で現地入りした。B747型の事故機を製造し、修理したのは米国側である。原因解明に向けて重要な動きだ。後ろ髪を引かれながら、交代要員の記者と入れ換わりに本社ヘリに搭乗した。本当の御巣鷹山(標高1639㍍)が遥か北の方角に見えた。

 本社に上がり「現場は御巣鷹山ではない」と報告した。その時、サブデスクに言われた言葉を忘れない。「お前さんも面倒くさいことを言うじゃないか。一社で取り組む話ではない」。小さな金属破片と共にメモを提出した。①地図で確認する限り、御巣鷹山は現場から北に約2㌔(実際には1・7㌔)離れている。②現場は山頂ではなく、南から北に下る尾根。標高は1550㍍ぐらい。③強いて言えば三国山(標高1834㍍)から続く山系。④直近のピークは〝タカマガハラヤマ〟と呼ばれるが、地図に山名はない。⑤昔から鷹を捕獲する場所だったので、〝御巣鷹山〟と呼ぶ人もいる。

 

「県警は発表していない」

 デスクも困惑顔だった。「結局、警察は何て言っているんだ」と問う。「群馬県警は〝御巣鷹山と三国山の中間地点〟と言うばかり」と答えた。その時、現地の記者から「こちら山頂より」という無線が入り、私が原稿を取った。現場の呼称についてやりとりしたが、「警察が〝御巣鷹山〟と発表しているんだから」と怒った口調だ。サブデスクは「そら、見ろ」と言い、議論は終わった。

 「高天原山(標高1979㍍)」を確定し、地図付きで報告できなかったことは、現地から帰投した私の明らかな怠慢だった。架空の〝警察発表〟は現場の確認作業を回避する逃げ口上であり、私もそれに安居した一人であった。

 9月下旬、前橋支局長を通じ群馬県警から原稿を依頼された。墜落事故対策の教訓を特集するという。県警は「行方不明の記者の捜索」騒動に反省を求めたかったようだ。

 「現場を御巣鷹山と発表したのは群馬県警の痛恨のミス。歴史に残るほど責任は重い」と書いた。案の定、強烈な抗議電話があった。警務部の責任者は「あらゆる資料を総点検したが、群馬県警が事故現場を御巣鷹山と発表した事実はない。〝発表〟部分の削除を求める」と語気荒かった。けんかになった。「こちら(県警)が事実ではないと指摘しているのに、強弁するならば証拠を示してほしい」と迫られ、私は削除を応諾した。「御巣鷹山」発表は〝幻〟だった。

 その「上毛警友・日航機墜落事故対策特集」が出版されたのは11月。拙稿はファクスがにじんで日付に狂いが生じて惨憺たる内容だった。が、約50人が執筆した特集の内容は記録性にあふれる。中曽根康弘首相の「激励」も掲載してA5版130頁。現場の表記は「高天原山系の無名尾根」に統一されていた。

 当時の河村一男県警本部長は19年後の2004年8月、『日航機墜落――123便、捜索の真相』を出版した。「墜落現場は御巣鷹山ではない」と繰り返し訴えた。「(県警発表の)御巣鷹山と三国山の中間点は決して御巣鷹山ではないのである」「誤りも甚だしい。初歩的ミスもいいところである」「伝聞の過程で情報が歪んでいく様子がよくわかる」とマスコミへの怒りの言葉を連ねた。

 北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒。標高1565㍍。事故現場は黒澤丈夫上野村長の発案で「御巣鷹の尾根」と呼ばれている。しかし、国の運輸安全委員会が2011年に公表した「報告書解説」の表題は「御巣鷹山墜落事故」を踏襲し、況や「高天原山」ではない。

 

定着した誤報 正す難しさ

 事故現場の位置が人々に正しく伝わらなかったことは、世界最大の航空惨事のもう一つの不幸であろう。現場入りした報道関係者は1カ月間で約300人に上ったが、虚構の「御巣鷹山」を正すことができなかった。定着した誤報は修正し難い。視点を一寸変えると、まことに恐ろしく思われる。

 この夏もまた墜落事故で亡くなった方々のご冥福を祈る。新聞記者としての忸怩たる思いを抱きながら…。

 

 なめしだ・たかし▼1951年神奈川県生まれ 78年毎日新聞社入社 甲府支局 東京社会部(環境庁 通産省 農水省) 都内版デスク兼社会部編集委員 科学環境部 地方部副部長 山形支局長 人口問題調査会部長委員を経て 2008年退社 ~15年国立情報システム研究機構客員教授 国立森林総合研究所常勤監事 ~19年内閣府みどりの学術賞選考委員 現在 国土緑化推進機構事業評価委員 農水省国有林野技術開発検討委員 緑の認証会議評議員 Ph.Ð(政治学) 著書に『地球温暖化問題と森林行政の転換』

 

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