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三陸臨時支局を支えた ホテル女将の気遣いと人柄(龍崎 孝)2016年7月

東日本大震災の発生からおよそ1カ月、私は気仙沼に恒久的な取材と放送の拠点、つまり支局を設置、運営するよう命ぜられ、来た。電気、水、ガスはおろか放送設備を構築する家屋すらないこの場所で、どうすれば放送拠点を設けられるのか。妙案なく、これから始まる厳しい道のりを思っていた私の前に現れたのは、田村恭子さんだった。

 

津波と火災で大きな被害を受けた気仙沼の港を見下ろす高台にホテルが立っている。安全が確保されつつも、いつ再び発生するか分からない地震と津波を撮影するのにふさわしいロケーションを兼ね備えている。そのホテルの女将が田村さんだった。2011年4月12日と記憶している。このホテルの一角に支局を設けたいという私の要請に、田村さんは怪訝な表情のまま尋ねた。

 

「どのくらいの期間ですか」。私が「最低でも1年」と答えると「はあ」と言ったきり押し黙った。自身の家も津波で全壊し、黒いトレーニングウエアに首からPHSをぶら下げている。被災した従業員とともにホテル内で暮らしながら、救援に当たる機動隊や、電気の復旧に携わる電力会社のスタッフの対応に追われていた。まもなく被災者の避難所としてホテルを開放する準備も進んでいたころだった。私の申し出は迷惑この上なかったに違いない。

 

一晩明けた13日に再訪すると「決めました、どうぞお使いください」と言ってくれた。田村さんの気が変わらないうちに、と5月に予定していた支局の開設準備を翌日から進め、数日のうちに気仙沼湾を見下ろす和室は、放送機材で埋め尽くされる「ミニ放送局」に変貌した。放送設備でびっしり埋まった和室に田村さんをお呼びした時の表情は、なんとも忘れがたい。「まあっ」と言ったあと笑い出したのだから。「こんなことになるとは。ねえ」

 

その日から1年、その部屋からニュースが発信されない日はなかった。JNN三陸臨時支局からは社会を揺るがすような特ダネはなかったが、一日一日の津波被害地の歩みが伝えられた。その全てが独自ネタだったと自負している。そして田村さんはその日以降、一度として部屋に来ることはなかった。「皆さんの仕事場にうかがうことはあってはならない」と思い続けていたのだという。どこで、何をやっているかを聞かれることもない。ただ、1日の取材や放送を終えて気仙沼に帰ってくると、エントランスで必ず待ち受けていた。「お帰りなさい。今日は○○にいらっしゃったんですね、放送、見ました」と笑顔で迎えてくれた。

 

気仙沼の県立女子高校を卒業し大学を出てから東京近郊で働き、結婚した。父親が営む水産・観光業の業務拡大で新しいホテルを開設することになり、急きょふるさとに戻ってきたのだという。

 

慣れぬ女将稼業を続けているさなかに、東日本大震災に遭遇した。付かず離れずの対応ぶりは、女将としての気遣いと同時に田村さんの人柄そのものだったような気がする。傍から見れば「傍若無人」な放送局の仕事ぶりだが、その使命が全うできたのも田村さんのおっとりと、しかし都会仕込みの理解があってのことだった。

 

自然の力は人智を超える。そうした力による被害を乗り越えていくのは政治や行政の力ではなく、そこに生きている人間の思いだと実感する。被災地における私たちの1年を、黙って支えてくれた田村さんの存在は、そのことをいつも思い出させる。

 

12年3月31日、1年の務めを終えて気仙沼を離れる私たちに田村さんは言った。

 

「泣きませんよ。いつまでも同じではいけないから」

 

(りゅうざき・たかし 元TBSテレビ政治部長)

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