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周恩来首相と岡崎嘉平太/日中友好親善への固い絆(上田 克己)2026年10月

 日本は敗戦から四半世紀、1970年代に入って最も重要な政治・外交課題は「中国(中華人民共和国)との国交回復」だった。

 その懸案が大きく動き始めたのが72年7月の自由民主党大会。佐藤栄作首相の後継を福田赳夫と田中角栄が争い、田中が新総裁に選ばれた。総裁選の争点は「日中国交回復」。田中は促進派、福田は慎重派だった。

 僕は自民党大会のテレビ中継を当時、所属していた貿易記者クラブ(ジェトロ事務所内)で見ていた。新総裁に選出された田中のあいさつを聞き終え、徒歩5分の日中覚書貿易事務所へ向かった。岡崎嘉平太代表のコメントを取るためだ。

 岡崎は22年に日本銀行へ入行、中国・上海勤務を経験したが、戦後は企業再建や全日本空輸の社長を務めた経済人。国交のない中国との交易の必要を痛感、親中派政治家の松村謙三、高碕達之助らと共に62年に協定に基づく「LT貿易(中国側代表の廖承志と高碕の頭文字をとった)」を立ち上げ、日中経済交流のパイプをつないできた。

 僕は岡崎に会うなり「おめでとうございます。日中国交回復が実現しますね」と勢い込んで問いかけた。すると岡崎はいつもの穏やかな表情で「水の流れる方向は変わりそうだが、流れている水は濁るかもしれない」とクールに応じた。

2年半後、金脈問題が浮上し、田中は首相を辞任、76年7月にはロッキード事件で逮捕された。岡崎の慧眼通りとなった。

 

「井戸掘った人を忘れない」

 「コンピュータ付きブルドーザー」と言われた戦後最年少の首相の決断は速かった。田中は首相就任から40日足らずの8月15日、来日中の上海バレエ団の孫平化団長に会い、「周恩来首相の訪中招請」を受諾、9月下旬の訪中が固まった。その訪中団に民間人の岡崎は加われない。それを知った周恩来は「岡崎さんが国交回復の日を北京で迎えるよう招待しろ」と指示した。岡崎は田中首相より一足早く北京へ飛んだ。

 田中が北京入りする2日前、周恩来は岡崎と北京在住の日中双方の覚書事務所スタッフを招き、小宴を開いた。「水を飲む時には井戸を掘った人を忘れない」と周は述べ、覚書貿易関係者を労った。

 国交が回復すれば覚書貿易の使命は終わる。そこで周恩来は岡崎を「国交回復の民間人の最大の功労者」とたたえ、「最後の交渉が終わったら中国のお望みの所を旅行してください」と誘った。岡崎は「敦煌」を希望したが、その地域は「まだ」という事情で「三峡の嶮を通る長江下り」を勧められた。岡崎は松村謙三から「桂林からの漓江下り」の素晴らしさも聞かされていたので、それを話すと、周恩来は覚書貿易の中国側代表の劉希文へ「桂林も案内するよう」指示した。

 

代打で貿易交渉団に同行

 72年9月25日、田中首相、大平正芳外相らは北京へ到着、29日に田中角栄と周恩来は共同声明に調印し、日中国交回復が実現した。

 それを見届けて岡崎は帰国、最後の覚書貿易交渉の準備を進めた。交渉団には報道記者の同行が認められ覚書貿易事務所から貿易記者クラブの加盟各社へ同行記者1人を申請するよう要請が来た。

 ただし「日本経済新聞社だけは鮫島敬治記者を申請してほしい」が岡崎の意向だった。

 鮫島はLT貿易交渉の一環として64年9月に実現した日中記者交換により北京へ派遣された。ところが文化大革命の渦中、68年6月に「スパイ容疑」で逮捕された。1年半の勾留を経て釈放、国外追放され、帰国していた。岡崎は覚書貿易終了に当たって「唯一の心残り」だった「鮫島記者の名誉回復」を図ろうとした。

 しかし、中国から届いた同行記者の招待状に日経だけ除外されていた。やむなく日経は代わりの記者を申請することとなった。キャップに海外出張の予定があり、僕が指名された。入社5年目、記者団では最年少だった。

 72年10月23日、覚書貿易交渉団は団長の岡崎が社長を務めた全日空機で羽田から上海を目指した。まだ国際線に進出できてなかった全日空にとって上海乗り入れは初めて。周恩来の岡崎への配慮がうかがえた。

 上海は戦前、岡崎が日銀マンとして勤務、鉄道省から派遣されていた佐藤栄作と半年ほど駐在期間が重なった。 その頃、所用で日本へ帰る船の甲板で、岡崎は上海一の美人と評判の日本人芸者に会った。彼女は「佐藤さんが好き、箱膳を彼の前に持っていくと足が震える」と打ち明けた。後に「昭和の団十郎」と呼ばれた佐藤はモテた。「だから僕は昔から佐藤が嫌いだった」。岡崎は上海のホテルから夜景を懐かしそうに眺めながらいたずらっ子のような笑みを浮かべた。

 戦後も岡崎と佐藤の因縁が続く。岡崎が全日空の社長を務めていた66年に全日空機が松山市沖で墜落した。この時、岡崎は覚書貿易交渉の団長として中国へ渡り、日本を留守にしていた。それに当時、首相だった佐藤は激怒した。岡崎は事故の責任をとって社長を辞任した。 

 上海経由で北京入りした覚書貿易交渉団は交渉が終わった72年10月30日、中国側代表の劉希文らの案内で北京を出発した。周恩来「差し回しの専用機」で杭州を皮切りに上海、桂林、重慶、武漢、広州への旅へ向かった。旅のクライマックスは重慶から武漢まで、1300㌔を2700㌧の東方紅31号に乗り、2泊3日の「長江下り」。船は李白が詠んだ白帝城の山裾を通過、急流が200㌔も続く三峡を抜け、三国志の古戦場の赤壁を遠望して50時間、ようやく武漢長江大橋が見え、漢口に着いた。その間、1本の橋もくぐらなかった。それから半世紀、長江には三峡ダムが建設され、重慶と武漢の間の架橋は70基を超えるという。

 

鮫島記者の名誉回復が実現

 岡崎が「積み残した」と言う「鮫島記者の名誉回復」は文革の終焉を待って実現した。77年9月、李先念副首相が人民大会堂で鮫島に直接陳謝した。

 「鮫島逮捕」が報じられた時、岡崎は鮫島夫人から「助けてください」と泣きつかれた。そこで「男は大病する、浪人をする、監獄に入ると大成する。ご主人はきっと偉くなります」と励ました。88年に鮫島が日経の常務取締役東京編集局長に就任した時、岡崎は「僕の言った通りになっただろう」と得意げだった。鮫島は日経退社後、回想録を書き始めていたが、2004年に死去、未完に終わった。中国での「逮捕・勾留」が「書かなかった話」となったのが惜しまれる。

 岡崎は日中の国交が回復、覚書貿易交渉が終わった時、「次はインドだ」と語った。日本と中国とインドが連携して欧米偏重の世界でアジアの地位を高めるのが究極の願いだった。

 

互いに「兄弟」と呼び合う仲

 岡崎は戦後は62年にLT貿易交渉で初めて訪中し、周恩来に初対面。以来亡くなる4カ月前の89年5月の訪中が100回目だった。貿易交渉に伴う周恩来との会談は公式には18回だが、それ以外の訪中でも岡崎は、ほぼ毎回、周に面会した。会食、パーティーなどを含めると周恩来とは50回以上会ったと推測する。

 岡崎は周恩来を「私心のない人」と信頼し、敬った。岡崎が一つ歳上の同世代で、話が合い、互いに「兄弟」と呼び合う仲となった。岡崎が中国を頻繁に訪れたのは貿易交渉もさることながら「周恩来に会いたい」との動機が強かったのではないか。

 隣国同士とは言え、一国の「首相」が他国の「民間経済人」と、かくも固い信頼関係で結ばれ、両国の友好親善を推進した例を知らない。

 日中国交回復から54年、日中関係は「高市早苗首相の発言」もあって「人、モノ、文化の交流」が途絶え、最悪と慨嘆に堪えない。そうした状況をなぜ解消できないのか。幾つも理由はあるが、かつての「周恩来、岡崎嘉平太」のような人物が不在、「人的パイプ」が失われ、両国間のコミュニケーションが欠けているのが大きいのではないだろうか。

(敬称略)

 

▼うえだ・かつみ

1968年日本経済新聞社入社 大阪本社経済部 東京本社工業部を経て ロンドン特派員 西部支社編集部長 東京本社産業部長 編集局総務 出版局長などを経て 2001年テレビ東京常務取締役 04年BSジャパン(現BSテレビ東京)社長 07年テレビ大阪代表取締役社長 10年同代表取締役会長

 

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