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加賀田清子さん 胎児性水俣病患者/弱者へのやさしいまなざし(熊川 果穂)2026年2月

 大学生の時、ゼミ合宿で訪れたことがきっかけで、熊本県水俣市に通っている。もう12年になる。まだ水俣病担当になったことはないが、熊本の地方紙で働いていればいつかは…と通い続けている。交流している胎児性水俣病患者の方たちの中で特に心を寄せている人がいる。加賀田清子さんだ。

 

自分で決断して生きたい

 加賀田さんは水俣市月浦出身で、昨年古希を迎えた。水俣病の歴史とともに歩んできた人だ。7歳で患者認定を受け、10歳で水俣市立湯の児病院に入った。ここには水俣病の子どもたちが多くいて、小学校の分校も病院内にあった。16歳からは水俣病患者療養施設「明水園」で暮らした。25歳で自宅に戻って家族と暮らしたが、「家族に頼るのではなく、もっと自分で考えて、自分で決断して生きていきたい」という思いが強かった。自立したい、ほかの人と同じように仕事をしたいという思いを持った患者仲間とともに、支援者の力も借りて小規模多機能事業所「ほっとはうす」の開設や、熊本県出身の演歌歌手、石川さゆりさんのコンサートなどをやり遂げた。メディアにも出て、水俣病のことを伝え続けてきた。胎児性・小児性水俣病患者らが住むケアホーム「おるげ・のあ」の設立にも関わり、今はそこで穏やかに暮らしている。

 昔は歩けていた加賀田さんも水俣病の症状が進み、今は車いすで生活している。地元の子どもたちや、今通っている施設「きぼう・未来・水俣」に来た大学生たちに自身の体験を伝えているが、「体力的にしんどい」と県外など長時間の移動を伴う講演を避けていた加賀田さん。昨年、福岡県小竹町の「ちくほう共学舎 虫の家」が主催した講演に行った。久々の遠出だった。私も介助ボランティアとして同行した。

 

話せない仲間の言葉を代弁

 講演で加賀田さんは「もう一度仲間の車いすを押したい。私たちの歩ける足を返してほしい」と訴えた。歩けていたときは、仲間の車いすを押すのが加賀田さんの役割だった。そして、話すことができない仲間の言葉を代弁するのも加賀田さんだ。なんで気持ちが分かるのか尋ねられると、「OKの時にはニコニコして、違う時にはしょんぼりしています」と答えた。半世紀以上ずっと過ごしてきた、同じ水俣病だから分かる言葉が加賀田さんにはある。水俣病のドキュメンタリー映画を数多く作った監督も「加賀田さんの後を追いかけなかったら映画を撮れなかった」と話し、加賀田さんが話せない患者の声を伝えてくれていたという。講演の最後に加賀田さんは「保母さんになりたかった」と話した。子どもが大好きだからだ。仲間の車いすを押したり、言葉を代弁したりするのも、自分より弱い、小さい者へのやさしいまなざしがあるからだろう。

 水俣病は今年で公式確認から70年を迎える。本紙も現地支局や社会部記者を中心にチームを組んで年間の大型連載などを企画している。加賀田さんと同年代の患者は、鬼籍に入った人が多くなった。加賀田さんから「果穂ちゃんに自分のことを書いてほしい」と言われているが、まだ約束を果たせていない。彼女が元気なうちに、なんとしても生き様を紙面で紹介したい。

 

(くまがわ・かほ 2017年熊本日日新聞社入社 玉名総局 社会部司法警察担当などを経て 25年から球磨支局)

 

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