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INF交渉、プラザ合意を現地取材/脱冷戦めざし米ソが〝真剣勝負〟(岡部 直明)2019年2月

 晩秋のジュネーブは冷え込んでいた。冷戦末期、1983年11月23日の朝、レマン湖に程近い雑居ビルの前に各国の記者たちに交じって私は立ちすくんでいた。ここに米軍縮代表部が置かれていた。ブリュッセルからジュネーブに出張するのはたいてい関税貿易一般協定(GATT)の貿易交渉取材のためだが、この日は欧州中距離核戦力(INF)削減を巡る米ソ交渉の行方を探るのが目的だった。慣れない軍縮交渉の取材に加えてこの寒さである。分厚い靴底を通して大地の冷たさが伝わってきた。

 

 ◆ジュネーブでINF交渉決裂

 

 待っていたのは30分ほどだったが、1時間にも思えた。ようやく雑居ビルから大柄な男が出てきた。重なり合うように記者たちが追う。「また戻ってくるのか」との問いに、ほとんど倒れそうになりながら、この大男は「ノー」と言い放った。不敵な笑みを浮かべていた。INF交渉のソ連代表、クビツィンスキー氏である。

 ソ連外務省の重鎮であるベテラン外交官がなぜか粗野な大男にしか見えなかった。冷戦期に米ソ打開の頼みの綱だったINF交渉の決裂は、欧州を核の脅威にさらすことになる。

 ソ連の中距離核ミサイルSS20配備に対抗して、北大西洋条約機構(NATO)加盟の西欧諸国は米核ミサイルの配備を固めていた。INF交渉の決裂は、西独議会が米国の核ミサイル・パーシングⅡの配備を可決したことへの不満の表明だった。

 ソ連代表の「ノー」の一言に、各国記者は「パレ・デ・ナシオン」(国連)の記者室に走った。日本経済新聞は当時、ジュネーブには支局がなかった。各国記者の動きを横目に、ホテルへの坂道を駆け上がるしかなかった。

 欧州の核危機に、欧州通貨は売り浴びせられ、ドルは高騰する。国際政治と国際経済が連鎖危機を起こした。冷戦末期の米ソ緊張が頂点に達した瞬間である。

 もっとも、このINF交渉決裂にも冷静な人物がいた。米代表のポール・ニッツェ氏である。米軍縮代表部の小さな部屋で「これは完全な交渉停止ではない。ソ連が応じるなら、いつでもジュネーブに戻ってくる」と語った。クビツィンスキー代表との「森の散歩」で打開策を練っていた。「ソ連封じ込め」論のジョージ・ケナンの後継者に目される伝説の外交戦略家だ。そのニッツェ氏の予言は的中することになる。

 

 ◆反核運動と小国の苦悩

 

 核配備を巡る米ソ緊張の中で、西欧には反核運動が広がった。ブリュッセルでもハーグでも西独シュツットガルトでも反核運動が市民を巻き込んで盛り上がった。この反核運動については、ソ連の支援が背後にあったという情報が冷戦終結後に流れたが、そのただ中で取材している限り、ソ連の扇動などで動かされたわけでは決してなかった。核危機に西欧市民の不安感がいかに強いかを肌で感じた。それは成熟国の市民の静かな怒りでもあった。

 そんな反核運動とNATOの米核ミサイル配備決定のはざまで悩んでいたのがオランダである。唯一、配備の最終決断を延期することになる。この苦渋の選択について、ハーグの首相官邸でルベルス首相に聞いた。こぢんまりした執務室で若き首相は、私が入室したのにも気付かず頭をかきむしっていた。

 なぜ配備の最終決断を延期したのかを聞くと、言葉を選ぶように「ソ連にSS20配備の増強姿勢を変えさせるのがひとつの狙いだった。ソ連に対して、軍拡を抑制するよう信号を送ったつもりだ」と語った。欧州の小国だが、そのバーゲニング・パワー(交渉力)を精いっぱい使おうとしたのだ。小国の苦渋の選択がその後の米ソ緊張緩和の誘い水になったのは事実だろう。

 もちろん時代の潮流を大きく変えたのは、1985年、ソ連にゴルバチョフ書記長が登場したことである。INF交渉は再び動き出し、1987年、米ソ首脳はついにINF全廃条約に調印することになる。外交戦略家、ニッツェ氏の予言は的中した。

 

 ◆脱冷戦めざしたプラザ合意

 

 1985年、欧州(ブリュッセル)から米国(ニューヨーク)に転勤してからも「ジュネーブの寒い朝」(INF交渉の決裂)は頭から離れなかった。米国は高金利・ドル高を背景に、財政と貿易の「双子の赤字」に苦しんでいた。レーガン政権はスターウォーズ計画(SDI)にまで手を広げた軍拡のコストに悩んでいた。軍縮をてこに財政赤字を減らし、高金利を是正してドルの軟着陸をめざす戦略を打ち出す必要に迫られた。

 それがドル高是正のための「プラザ合意」である。G5(日米独英仏)の蔵相・中央銀行総裁会議は、ドル軟着陸のために協調介入、政策協調で合意した。舞台はヒッチコック監督の映画「北北西に進路を取れ」の舞台にもなったこの由緒あるホテルである。しかし、開催を呼び掛けた当のベーカー米財務長官の到着は大幅に遅れた。緊急送稿用に用意した25セント硬貨をすり合わせる私を、ベーカー長官が神経質そうににらみつけたのを思い出す。

 プラザ合意は単なる通貨合意を超えていた。後に「核兵器なき世界」を唱えるシュルツ米国務長官の外交戦略と二人三脚だった。INF交渉など米ソ緊張緩和と連動する脱冷戦戦略だったのである。経済記者の範疇を超えて、国際政治と国際経済が密接に絡み合う歴史的現場に立ち会えたのは記者冥利に尽きる。

 

 ◆35年後のINF全廃条約破棄

 

 INF全廃条約は長かった米ソ緊張を経て、冷戦終結と核軍縮を導く歴史的条約である。そのINF全廃条約の破棄をトランプ米大統領が表明したのである。トランプ政権は2月1日、ついにロシアに条約破棄を通告した。ロシアが条約に違反しているほか、条約の枠外にある中国が核増強に動いているとみたからだ。

 これに対して、ロシアは抗議し条約破棄を表明した。中国もトランプ政権の姿勢に反発しており、このままでは、INF全廃どころか核軍拡競争が再燃する危険さえある。それはオバマ前米大統領がめざした「核兵器なき世界」を逆回転させるものである。

 欧州を核危機にさらした欧州INF交渉決裂から35年、暗い歴史は繰り返すのだろうか。

 こうした「核の危機」を日本は座視すべきではない。唯一の戦争被爆国として、「核兵器なき世界」の先頭に立つことが求められる。トランプ政権にはINF全廃条約の維持など核軍縮を迫り、ロシア、中国にも核軍縮を強く求めることが肝心だ。

 米朝首脳会談で合意した「朝鮮半島の非核化」を実現するのは当然だが、そこにとどまらず、これを「核兵器なき世界」への一里塚にしなければ歴史的意義は減殺される。

 6月末に大阪で開かれる20カ国・地域(G20)の首脳会議は、核廃絶への絶好の機会である。G20首脳を大阪から目と鼻の先にある広島に招いてはどうか。オバマ前大統領に続いて、G20首脳が広島を訪れることになれば、核廃絶への道が開ける。

 日本が「核兵器なき世界」を先導するうえで、核兵器禁止条約の加盟は必須である。核保有国と非保有国の「橋渡し役」をするなどというあいまいな外交姿勢は、唯一の被爆国としての「地球責任」から程遠い。

 冷戦終結から30年経ち、「新冷戦」の危険が高まっている。その中で、ジャーナリストの責任は重大である。唯一の被爆国に生まれ、欧州の核危機を目の当たりにした体験は語り継がなければならないと考えている。

 

おかべ・なおあき

1947年生まれ 早大政経学部卒 69年日本経済新聞社入社 経済部記者 ブリュッセル特派員 ニューヨーク支局長などを経て 取締役論説主幹 専務執行役員主幹 早大客員教授 明大国際総合研究所フェロー 現在は武蔵野大国際総合研究所フェロー

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