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孔子孟子の末裔を訪ねた頃(髙橋 茂男)2006年8月

中国・山東省と台湾
世の中に「孔子の○○代に当たる子孫」「孔子の直系、第○○代末裔」と称する人はいくらでもいる。中国大陸だけでも、孔という姓の人は少なくとも20数万人はおり、そのほとんどが孔子の子孫を自称している。「我こそは孔子の直系」と自称する人は日本にもいるし、韓国、アメリカなど、それこそ世界各地にいるようだ。

しかし、孔子一族の本家の主となると世界に1人しかいない。その人こそ、孔子77代の孔徳成さんで、現在台湾に住んでいる。

孔子は今から2500年ほど前の中国春秋時代の人で、孔子の200年ほど後に、孟子が現われた。孟子の家系も連綿と続いて現代に至り、孟子本家の主、孟子75代の孟祥協さんも台湾在住である。

孔子の故郷、中国山東省の曲阜県(今の曲阜市)を初めて訪れたのは、北京特派員当時の1980年のことだった。文化大革命が終息して間もない頃で、孔子一族の墓所である孔林などには紅衛兵による破壊の爪痕が生々しく残っていたし、文化大革命の中で旧思想の代表として批判にさらされた孔子とその教え=儒教は、未だ完全には復活を遂げていなかった。当時、曲阜の人口50万人のうち10万人が孔姓を名乗っていた。

孟子の故郷、鄒県(今の鄒城市)は曲阜の南隣にある。81年晩秋に訪れた時、孟子廟と孟子本家の主たちが代々住んできた孟府は、全体に黒っぽい色調で、「墨絵の世界」を思わせた。広大な孔子廟の建築群が黄色に輝く甍、朱色の壁と柱でキンキラキンの印象だったのに対して、孟子ゆかりの建物はちんまりとして、いかにも渋かった。

曲阜と鄒を訪問して分かったことは、孔孟一族の本家の主たちはどちらも、1949年蒋介石と共に台湾に渡ったまま戻ってきていないということだった。そして、孔子77代の孔徳成さんと孟子74代の孟繁驥さんは、いずれも台湾で健在であると教えられた。それ以来、台湾に行ったら孔孟の子孫を訪ねようと思っていたが、あの頃の中台関係は今と違って、中国大陸から台湾に行くことは事実上不可能だったことなどから、機会がないままに13年が過ぎてしまった。

香港特派員になった94年、私が初めて台湾の土を踏んだ時、孟繁驥さんはすでにこの世にはなく、子息があとを襲っていた。即ち、孟子75代の孟祥協さんである。

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孟祥協さんは、台北市郊外でひっそりと暮らしていた。賑やかな市場からちょっと横道に入った、とあるアパートの3階が住まいである。観音開きの門扉を開けてアパートに入る。エレベーターはない。祥協さんは白の開襟シャツに痩身を包み、布靴を履き、はにかんだような表情で私を中に案内してくれた。

独身を通してきた祥協さんはひとり暮らしのせいか、部屋に家庭の匂いといったものは乏しかった。居間で目に入るものといえば、壁に掛けられた陳立夫(蒋介石の側近)の一対の書、違い棚の上の孟子像、それに碁盤の置かれた小テーブルくらいのものだった。

祥協さんの職名は「亜聖奉祀官」、亜聖こと孟子を祀る行事をとり行う世襲の公務員である。サラリーマンのように毎日出勤する必要はないし、生活は台湾の政府が保障している。このように書くと、結構なご身分といわれそうだが、そうとばかりもいえないようだ。聖人の末裔に相応しい身の処し方を求められるし、他人に後ろ指をさされるような振る舞いは無論できない。自ずと、つき合う範囲も限定されてしまい、世間とあまりつき合わずに暮らすようになる。生きていく上で、窮屈なことが少なくないようだ。
 趣味は囲碁で、日本で活躍している王立誠9段は、小さい時、祥協さんに碁の手ほどきを受けたひとりだという。
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孟子直系を売り物にする孟蒙という名の画家が、山東省から香港にやってきて個展を開いたことがあった。香港各紙は「孟子73代直系来る」と書きたてた。孟蒙氏は香港マスコミのインタビューを通じて、文盲が少なくないといわれる大陸の孟子の子孫たちのために「孟子基金会」を作りたいと提案し、一族の「総帥」と仰ぐ祥協さんに協力を求めてきた。

驚いたことに、祥協さんは孟蒙氏を「73代直系」とは認めず、相手にしなかった。孟蒙氏が認めてもらえなかったワケは、名前の漢字にあった。孟子一族には「孟氏輩系表」というものがあり、はるか先の105代まで、代ごとに男子の名前に使う漢字が決められている。それによれば、73代は「慶」であり、系図には73代として慶桓、慶棠の2人の名前が載っている。73代直系を名乗るからには名前に「慶」の字が付いているはずで、これがなければ直系と認めるわけにはいかない、というのが祥協さんの論法であった。

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孔子の77代といえば、閑静な住宅街の奥まった一角に住んでいるものと、私は勝手に思い込んでいたが、台北南郊の住まいを訪ねてみると、その思いは裏切られた。孔徳成さんは交通量の多い大通りに面した高層アパートに夫人と娘さん、それにお手伝いさんと一緒に住んでいた。

1920年生まれの徳成さんはすでに政府の役職を退き、大学で中国の古典を教えていた。温和な学者といった印象を受けたが、人に会うのはあまりお好きではないようだ。日本贔屓で、坐骨神経痛を患う前はしばしば訪日したことがあり、「神保 町の古書店街が一番好きだな。銀座もよく散歩したなぁ」といって懐かしがった。銀座の街角で、ベレー帽を頭に載せた老紳士とすれ違っても、この人が孔子の77代と気付いた人はまずいないのではあるまいか。

趣味は読書、というより読書が生活そのものになっているようだ。部屋の至るところに『四庫全書補正』などの古書が積み上げられていた。散歩と読書のほかに、人生の楽しみは何かと問うたところ、「もともと煙草を吸っていたのですが、10年前にやめました」との答えが返ってきた。

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湾の人たちが大陸に住む親族を訪問できるようになってほぼ20年になるが、孔徳成さんも孟祥協さんも一度も試みたことがない。共産党の支配を逃れる形で台湾に渡って半世紀あまり、今の中国大陸については、2人とも「言い難い」として多くを語ろうとはしない。募る望郷の念を抱きながら、2人とも大陸への旅行申請を見送ってきたのは、たとえ一時帰国にせよ、中国が彼らの帰国を政治的に利用しようとしていることを知っているからだろう。「それに、申請したことが分かったら、台湾を棄てて大陸へ帰って住む気か、と台湾の新聞は書くでしょう。書かれたら大変ですから」と祥協さんは語ったことがある。

孔孟の末裔に、先祖が残した数多い教えの中で、現代社会に一番必要と思われるものをひとつだけ挙げて欲しい、と同一の質問をしたことがある。孔子77代の答えは「己所不欲、勿施於人」(自分がして欲しくないと思うことは、他人にしてはいけない)、孟子75代の答えは「人有不為也、而後可以有為」(してはならないことをわきまえてこそ、人はやるべきことをやり遂げられる)であった。

「得手勝手のまかり通る社会」という点で、孔孟の時代も現代もあまり違いはないようだ。



たかはし・しげお 1942年生まれ 69年日本テレビ入社 北京支局香港支局 解説室などを経て 02年退社 現在 文化女子大学教授 北京外国語大学客員教授 著書に『大陸・台湾・香港』 『香港返還』 (共著)など

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