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作れなかった企画(木村栄文)2004年6月

「イサク・ベン・アブラハム」
RKBでの恵まれたドキュメンタリー制作の日々で、作りたい企画はほぼすべて作った。その中で、実現しなかった企画がある。それを紹介しておきたい。

●教会での出会い

宮崎滔天(とうてん=1861~1922)が、イサク・ベン・アブラハム(Isaak Ben Abraham=1821年1月29日生まれ)に出会ったのは、長崎市大浦のクリスチャン・スクール在学中のことである。
 
それは明治22年(1889)2月の、みぞれの降る朝だった。滔天は親友、植松通太郎とともに礼拝のため出島の教会へ行って、イサクと会った。異風の白人乞食で年齢は70歳ぐらい、ぼろぼろの洋服にハダシ。白髪に長い銀色のひげ、眼光鋭くタダ者でない。

やがて宣教師が現れたが、乞食の姿に顔をしかめ、「出て行け」と命ずると、乞食は「わたしにパンをくれ、二日間なにも食べていない」と答えた。

「ここは教会だ。霊魂の糧(かて)はあっても肉体の糧はない」  「では説教のあとで、君の家でパンとポテトをくれ」
 
うるさいと思った宣教師は、10銭銀貨を老乞食につきつけた。

「これは銀貨ではないか?」。乞食は宣教師の顔を怪訝そうに見た。「私は、この世で銀貨を食う動物を知らない。もし食えるものなら君が食ってみせよ。私が求めたのは銀貨ではない」。

宣教師は真っ赤になって、「出て行け」を連呼する。  「妻子にのみ親切であり、他人の子に不親切な宣教師よ、君はいにしえの使徒がどんな飢えのもとでキリスト教をひろめたかを思い起こせ。私は君の話を聞く気はない、さらば」と言い残して、乞食は悠然々と立ち去った。

●イサクへの傾倒

滔天と植松通太郎は、問答に感銘を受けた。二人とも、洗礼を受けたクリスチャンである。十善寺の廃屋の二階に住む乞食を見つけ、持参したパンと砂糖を与えた。そして、乞食の名を知った。

「あなたは何国人か?」。植松が問うと「知らない」。
「いつ日本に来た?」「忘れた」「まだ日本に滞在するつもりか?」「未来のことは分からん」
 
イサク・アブラハムは言葉を続けた。「私の両親と称する人は、私をスウェーデン人だと言い、ベンと呼んだが疑わしい。世の中にウソツキは多く、両親も不幸にしてその一人かもしれない。ただ明白なことは、私が世界に生まれ出たことと、牛馬の仔ではないことだ。従って私は世界人、もしくは人類の子と名乗るのが適切だと思う」。

ここで、愛国者の植松がにわかに怒り出した。「あなたは無政府主義者か。我が国には、あなたの党派を入れる余地はない」。 と、イサクは冷ややかに植松を見つめた。「君はクリスチャンらしいが、イエスは聖書のどこに『祖国を愛し、他国を愛すなかれ。おのれの両親に孝にして他人の親に不孝なれ』と述べているか。イエスは殺人を奨励したか。ところが君の言う国家は、戦争という殺人を奨励する。国家の恩恵とは、実は殺人的犯罪の恩恵ではないか。君はキリスト教の宗徒であってもイエスのしもべではないようだ」。

イサク・アブラハムと問答の後、滔天も植松もイサクに心服してしまった。噂では、長崎の梅ヶ崎警察署が彼を英語教師に月給十五円で雇おうとしたら、十円でたくさんだと五円返したという。鏡とハサミの研ぎ師で、手押し車に砥石を乗せ「カガミトギ、ハサミトギ…」という触れ声で坂道を往来している、ともいう。

植松通太郎はイサクに師事するようになった。その後、滔天と植松らは同志を募り、イサクの学校を作る計画を立て、滔天と親しい前田下学が、イサクを熊本市郊外の小天(おあま)村=現・天水町の屋敷に滞在させ、村の少年たちに英語と、精神教育を施すこととなった。

●小天村の大騒動

当初は、順調だったのである。ところが、教師のイサクの言動はあまりに奇矯だった。イサクは、徹底した自然崇拝者で農本主義者だった。道で村人に会うと「ミカド、サンキュー」と敬礼した。彼には、農民こそ皇帝であった。威張って歩く村長や助役に村人がおじぎをするのを見ると、村長をつかまえ、逆に敬礼を強制した。

もっとも、その村人が馬に荷を引かせていると、「馬に何の罪があって荷を負わすか」と叱りつけた。

しかし、なにより村と前田家を混乱に陥れたのは、イサクの「極端なる自由恋愛主義」(亡友録)つまりフリー・セックスだった。彼は村娘はおろか、人妻も年寄りも見境なく追い回して、村は大騒ぎになった。

そのうち、長崎の同志から手紙がきた。「警察が、イサク・アブラハムを虚無党の一派とにらんで、ビザの更新を許可しない。いそぎ長崎へ帰せ」とある。
 
長崎に戻ったイサクは、知人のオランダ領事、英国領事らを通じて、日本への帰化願いを申請したが、外務省に却下された。

イサクは滔天のもとを訪ねて来て、秘蔵の金貨10数枚(銀行手形ともいう)を見せた。「君とともに、シルクロードに理想国を建設しよう。資金もここにある」。だが、青春の気に満ちた滔天は、この70歳の老人の言葉を断った。
 
結局、イサクはアメリカへと去り、それきり消息を絶った。

●革命家・宮崎滔天

『狂人譚』は宮崎滔天の文章ではあまり知られていないが、「滔天の思想がもっとも端的に現れた作品」という評価がある。『狂人譚』を、『亡友録 イサク・アブラハム』が補完している。

宮崎滔天は、中国・建国の父、孫文の革命運動をたすけた、数少ない日本人のひとりである。本名を宮崎寅蔵。熊本県荒尾市の豪士、宮崎長兵衛という剣客の家に生まれた。幼いころから、民権思想を抱く兄たちに深い影響を受け、やがて孫文と逢い、彼の革命運動に投じた。その献身的行動と無私の姿勢は、当時の「大陸浪人」らとは異質のものだった。

この宮崎滔天の思想に最も強い影響を与えた人物と言われるのが、イサクである。滔天の民権思想は、国権へ転向する同志たちと異なり、辛亥革命(中国革命)支援へとつながっていく。

しかも支援活動の挫折の後に、明治日本の膨張主義を肯定した自分へ、深い悔恨を抱くに至った。

「私をして最も悔恨の情に耐へざらしむるものは、(中略)支那人として支那革命に従事することをなさず、日本人としてその事に携わった一事である」(亡友録)。

滔天が『亡友録』でイサク・アブラハムを懐かしむのは、国家に捉われないイサクの思想であった。孫文が滔天を真の同志と見なしたのは、そういう滔天の無垢の精神であった。
 
イサクの人物像を描こうと思って、企画を練り、俳優の山本學さんと実現を計ったが、私の非力で頓挫して終わった。しかし、彼の思想は百年たっても古くならない。
 
外務省の公文書に、イサクの帰化申請書が残っている。と、ここまで書くと、ひとへ進呈するのは悔しい。やっぱりこの企画、自分でやろう。



きむら・えいぶん 1935年生まれ 59年RKB毎日放送入社以来 ディレクター プロデューサーとして数多くの話題のドキュメンタリーを制作 九五年度日本記者クラブ賞受賞をはじめ芸術祭大賞 文化庁芸術作品賞など受賞作多数 編著書に『記者ありき 六鼓・菊竹淳の生涯』『六鼓菊竹淳 論説・手記・評伝』『記者たちの日米戦争』など
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