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女性記者第2号として入社(俵萠子)2005年5月

サリドマイドベビー報道での決意
1953年。敗戦から、わずか8年しかたっていない。6・3・3・4の新しい学校制度ができて、最初の大卒(当時は新制大学といった)が私だ。その年は、旧制大学も最後の卒業生を送り出した。

新旧両大学の同時卒業で、未曾有の就職難!といわれた昭和28年だ。考えてみれば、まだ焼け跡、闇市経済から抜け出せない日本に、2年分の大卒が就職を求めたのだから大変だった。

当時、大阪のメディアでは、女子の大学新卒を定期採用しているところは1社もなかった。朝、毎、日経、NHKはもちろん、わが産経も不定期だった。大阪読売は、やっと会社ができたばかり。民放はまだ1社も存在していなかった。

1953年、大阪のメディアで女子の大卒に、男子と同じ就職試験の機会を与えたのは、信じられないことだが、産経1社のみ。産経はその前年、旧制大学の新卒女子を一人だけ採用していた。石川美沙子さん(旧姓)という。おそらく全国的に見ても、旧制大学の新卒で、男子と同じ試験を受けて採用された日本最初の女性記者は、石川美沙子さんではないだろうか。

私および東西同期、少数の女性記者が第2号になった。

産経の面接で、最後まで私と一緒に残っていたもう一人の女子学生が私にいった。

「うちな、最後の面接を受けへんことにしてん。お父ちゃんが、新聞記者なんかにならんほうがええ。おんなの幸福は、べつのところにある──いうて、反対しはるから、受けに行かれへんネン」といった言葉が忘れられない。日本はまだ、そういう時代だった。

私自身も、両親が反対せずに試験を受けさせてくれること自体に感謝しながら、試験を受けた。そして何とか、第2号になったのだった。

入社して何より驚いたのは、先輩記者のセクシャルハラスメントだった。もうその人たちは、みなさんお亡くなりになったのでいまはじめて書かせていただく。ある朝、出勤すると、社会部の泊まりのデスクのWさんが「ちょっと、こっちへ来てみ」と私を手まねきする。 “何かしら?”と近づいていくと、いきなり手を伸ばして、私の鼻の頭を指で触り、くりくりと撫で回す。

「あっ、ここが二つに割れたァる。ここが割れてたら“処女”やないんゃ」

そして “ガハハ” と大口を開けて笑う。まわりにいる男性記者たちも、お追従笑いをする。

またある日、編集局の狭い通路に私が立っている。後ろを文化部の先輩記者がすり抜けていく。通りすがりに、彼の手が、私のお尻を撫でた。

「キャッ!」

叫び声をあげると、すかさず彼がいった。「サービスやでェ……」。

当時人気のあった映画「夫婦善哉」の森繁久弥を気取っている風であった。が、当時24歳の私には一向に通じませんでした。

またある日。

いや、もうやめよう。もっときわどいセクシャルハラスメントが、社内でも取材先でも、毎日のように横行しているのが当時の新聞社だった。同期の若い桜たちはまだいい。彼らは男女共学のおかげで、多少とも異性とのつき合い方を会得していた。箸にも棒にもかからなかったのが、当時の中年おじさんたちであった。彼らは、女性との会話は、妻か、夜のネオン街でしか経験がなく、キャリア・ウーマンと、どうつき合っていいのか、どう話していいのか、皆目わからなかったのであろう。それは、新聞社だけのお話ではない。取材先の警察でも、大学の研究室でも、役所の中でさえも同じだった。

入社後2、3年、私は、仕事よりも、セクシャルハラスメントに疲れ果てていた。社内結婚ではあったが、“ミセス” という呼称が付いた時、はじめて楽になり、仕事がしやすくなった、あの妙な感覚をいまでも覚えている。

社会部で一年間の訓練を受けたあと、女性は、家庭欄やラ・テ欄、文化面、子ども欄にしか配置されなかった時代だ。したがって歴史に残る大事件になんか遭遇するわけもない。毎日、毎日、身近なことばかり書いた東西本社13年の記者生活だった。むしろ、共働き夫婦に対する“子育て支援の必要性”を訴えた処女作「ママ 日曜でありがとう」を書いた(1965年)ことが、記者生活最大の事件だったのかもしれない。

記者としてもっとも心に残っている事件は、サリドマイドべビーの誕生と、サリドマイドべビーを殺した親を、無罪にしたオランダ法廷の判決だ。1962年だったと思う。

その時、私は2人目の子どもを妊娠していた。サリドマイドの薬害もショックだった。つわりの重かった私は、何度かサリドマイドを飲もうと思ったからだ。飲むか、飲まないかは、紙一重のことだった。紙一重の偶然で、サリドマイドを飲まなかった私は、サリドマイドベビー問題を他人事とは思えなかった。そこへ、オランダ法廷の無罪判決である。

──そんなことが許されていいのだろうか。それは、製薬会社の罪であって、親の罪ではないのだろうか。ならば、これから産まれてくる子がもしサリドマイドベビーだったら、私はわが子を殺しても無罪なのだろうか──

毎日悩みながら仕事をしていた私は、読者の意見を募ってみることにした。その結果、当時の日本では、オランダ法廷の無罪判決を支持する人の方が圧倒的に多かった。記者としては、何のコメントもつけず、結果をそのままのせるのが常道かもしれない。しかし、どうしてもそうすることが私にはできなかった。少数ではあるが「サリドマイドであれ、何であれ、すべての命は平等であり、親といえども、他者の命を奪うことは許されない」という意見があった。私は敢えて、少数意見だと断って、賛否両論を同じ大きさで紙面に出した。

そして、その時、ひそかに決意したことがあった。

──もし、今度生まれる子が、障害児だったら、私は産経新聞社をやめよう。やめて、どこかの福祉系新聞社に入って、福祉ライターになり、記事を書かせてもらおう──

そう決めたらなぜか心が落ち着き、私は無事出産の日を迎えることができたのであった。

生まれた子は一応傷害のない子であったから、私は即座に産経新聞をやめることはしなかった。しかし、べつの理由で2年後、私は退社してフリーになる。それから間もなく私はフェミニズムの運動に入っていった。

話は戻るが、あの時の障害児殺害の無罪判決問題は解決したといえるのだろうか。

あれから42年たつ。けれど、私はいまだに解決したとも、結論が出たとも思えない。なのに、最近、この種の問題を議論することがほとんどなくなった。なぜだろうと考える。

これは、私の推理なんだけれど、私が出産をした時代には、産まれるその日まで、子どもの性別や、傷害の有無はわからなかった。いまは妊娠中にすべてがわかってしまう。もし、いま障害児出産の悲劇が存在しないとしたら、妊娠中、すでに何らかの選択が行われているのではないか。そしてそれは人道上許されることなのかどうか。私が現役なら、そんなテーマを、もっともっと追いかけてみたいという気がする。

同時に、小泉総理や政治家の皆さんにお願いしておきたい。私の後輩のキャリア・ウーマンたち。彼女たちの子育てを、もっともっとしっかり支援してやってください。この程度ではまだ無理です。辛いです。彼女たちにかわってそう申しあげておきたい。


たわら・もえこ 1953年産経新聞入社 主として育児・教育問題などを担当し 65年退社 以来女性・家庭・教育問題を中心にした社会評論および作家として活動する 評論・エッセイ・小説など著作は60冊を超える 最近の主なものに「六十代の幸福」「生きることは始めること」「わたしの田舎暮らし」「癌と私の共同生活」「命を輝かせて生きる」などがある
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