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米俳優 ジョージ・クルーニーさん/南スーダン独立支えた腕の感触(大内 清)2021年6月

 南スーダンは現時点で、世界で「最も若い国家」だ。長い内戦を経て、2011年7月にスーダンから分離独立した。その半年前に独立を決定する住民投票が行われ、私も現地で取材していた。

 後に首都となるジュバで行われた記念式典には、独立を後押ししたアフリカ諸国や米欧の要人らが集まり、世界中から報道陣も詰めかけた。市民が太鼓をたたいたり踊ったりとお祭り騒ぎだ。

 

■バランス失った私の肩に

 

 その中に、ひときわハンサムな男性がいた。ジョージ・クルーニーさんだ。言わずと知れた米ハリウッドの大スターである。

 クルーニーさんは俳優業のかたわら、アフリカ支援などに熱心に取り組んできたことで知られる。この時期は、国連から任命された「平和のメッセンジャー」として南スーダンの独立問題にも関わっていた。

 私はコメントを求めようと急ぎ、クルーニーさんの真横のポジションを確保した。ミーハー心があったことは否定しない。みな考えることは一緒で、次々と報道陣が押し寄せてくる。押されてぬかるみに足をとられた私はバランスを崩してしまった。

 泥だらけになる―。そう覚悟した時、たくましい腕が私の肩に回った。「アー・ユー・オーケー?」。クルーニーさんだ。「南スーダンにとって重要な瞬間に立ち会えて興奮している」といったコメントをしてくれた横顔は、映画館で見る以上に格好良かった。

 1983年から2005年にかけて続いた第2次スーダン内戦では、アラブ人イスラム教徒を中心とする中央政府と、黒人キリスト教徒が多い南部のスーダン人民解放運動(SPLM)が戦闘を繰り広げた。全体で市民250万人が犠牲になったといわれる。

 南スーダン独立に向けた住民投票は、停戦合意の柱として、紛争の恒久的な解決を目指して行われたものだ。クルーニーさんはその機運を高めるのに一役買った。日本を含む先進国のメディアでは、「平和への一票」といった明るい論調が多かった。

 だが、ひと口に南スーダンといっても一枚岩ではない。数十の民族が混在し、内戦中はSPLM内でも戦闘が多発したほどだ。

 当時取材した中に、少年のころから兵士だという男性がいた。昼から酒を飲み、他民族との戦いになれば「いつでも戦うよ」とすごんだ目が恐ろしかった。戦うことしか知らずに育った彼らをどう武装解除し社会に統合するのか。私には、南スーダンの未来が明るいとは思えなかった。

 不幸にも予感は当たり、南スーダンは13年、民族間の権力闘争が内戦に発展。昨年までに数百万人が住む場所を失い、40万人以上が死亡した。こうした情勢に触れるたびに、独立は時期尚早だったのではないかとの疑問が頭をもたげる。

 

■いま問いたい「国家建設」

 

 クルーニーさんはその後、南スーダン高官の腐敗を告発するなど同国への関与を続けた。一方で、欧米の識者らから、安易に独立を後押ししたとの批判を浴びるようにもなった。

 あれから10年。「国家建設」というシビアな問題をどうとらえるようになったのかを聞いてみたい。泥だらけになるのを助けてもらったお礼を改めてお伝えした後で。

 

(おおうち・きよし 産経新聞社ワシントン特派員)

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