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天皇〟と呼ばれたバンカー 磯田一郎氏を追った2年(瀬下 英雄)2017年5月

磯田一郎氏は住友銀行(現三井住友銀行)の頭取・会長を務め〝天皇〟と呼ばれた時期もあった。だが同時に〝天皇〟までの栄光と、それに続く没落をも併せ持つ、日本では類いまれな数奇な運命をたどったバンカーでもあった。私が2年間みたのは、栄光へと進む磯田一郎氏だった。

 

1976年、暮れも押し詰まったある夜。東京・帝国ホテルのスイートルームのドアの前に私は立っていた。室内にいるのは磯田一郎住友銀行副頭取(当時)。部屋から電話の声が聞こえてくる。相手はわからない。「瀬島がウンと言わないんだ」とは聞こえたが、後は聞き取れない。細かい数字の話をしているようだった。

 

瀬島とは瀬島龍三伊藤忠商事副社長(当時)。磯田氏と瀬島氏とはこの時、伊藤忠商事が関西の中堅商社、安宅産業を合併するかどうかで激しいつばぜり合いを繰り広げていた。

 

住友銀行をメインバンクとする安宅産業はカナダでの精油事業が73年の石油危機で破綻、その膨大な負債が安宅産業本体を倒産へと追いつめていた。

 

その金融的な影響はメインバンクだけでなく、他の大手銀行にも及ぶ「昭和金融恐慌」の恐れがあるとして、大蔵省(現財務省)も動き出していた。

 

こうした中、磯田氏は76年1月12日、安宅産業が伊藤忠商事と合併含みで業務提携に入ることを公表、同10月12日には合併案を提示した。だが、伊藤忠商事はけんもほろろだった。

 

最大の争点は合併後に巨額の債務が見つかった場合の対応だった。伊藤忠商事の経営陣は瀬島氏を中心に合併反対が根強かった。交渉決裂かと思われたが、同12月21日、磯田氏は瀬島氏との会談で合併後債務は銀行団で補填すると表明、事態は一気に動いた。

 

この頃、私の〝夜回り〟は磯田氏の東京の常宿、帝国ホテルのスイートルーム階のエレベーター前の椅子で待つか、時にドアをノックすることもあった。

 

ある晩、部屋に招き入れられた。〝住み慣れた〟部屋という感じで片隅に置かれたたんすから衣類がはみ出していたりした。磯田氏の語り口は自信に満ち、銀行団としての考えを明解に話した。もっとドンドン聞いてくれという雰囲気さえあった。

 

さて、磯田氏は安宅産業の破綻処理を〝勲章〟に77年6月頭取に就任、住友銀行は磯田〝天皇〟のもと快進撃を続けたが、時代は85年プラザ合意を機にバブルへと進む。

 

業績拡大に執念を燃やす磯田氏は、会長として86年、不良債権の塊とさえいわれた平和相互銀行の合併に踏み切る。この時から住友銀行と日本の裏社会との関係が始まったとされる。バブル本番。日本の金融機関はタガが外れたように、株や土地投機にさえ資金を提供していた。

 

そして90年10月5日、住友銀行大塚支店長が出資法違反で警察に逮捕されると、2日後、磯田氏は突然、会長辞任を表明した。住友銀行系の商社イトマンの経営陣に入り込んだ裏社会の人物と、磯田氏の家族とのスキャンダルもささやかれていた。

 

会長辞任から3年、磯田氏はこの世を去る。そしてバブルは崩壊へと向かっていた。

 

(せじも・ひでお 元NHK広報局長)

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