取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
ゴルフ中継事始め異聞(本多当一郎)2003年11月
「神業であります」
日本テレビ設立の神事で、日枝神社の神官が、テレビを〝大和ことば〟でこう宣われたテレビ誕生からことしで50年。
そのテレビの初ゴルフ中継は1957年10月の第5回カナダ(現ワールド)カップ。日本のゴルフブームのさきがけになったのはご案内のとおりです。歴史を飾るビッグイベントです。各国強豪が顔をそろえ、霞ヶ関CC(カンツリー倶楽部)を舞台に、日本が個人、団体で堂々頂点にたち、関心は一気に沸騰しました。
カナダカップ育ての親、米国のJ・ホプキンス氏と正力松太郎氏が原子力平和利用の縁で親しく、ゴルフ文化の大衆化をめざす正力氏の熱意が誘致につながりました。また、この大会を機に、プロゴルフ界が一本にまとまって協会も発足。氏は日本プロゴルフの父でもあります。
正午のニュースなどのほかは、朝から夕方まで長時間の特別番組となりました。VTR発明前で、すべてリアルタイムのナマです。 ゴルフをたしなむ人はテレビ局内でもほんの数人。何も分からない無知の集団が、コトを始めるわけで、まずは、にわか勉強の特訓。距離はヤードで表現、しかしグリーンではメートル。なぜ?…ほら、真珠の取引は国際的にいまでも〝匁(もんめ)〟…。野っぱらでのプレーだから、これこそ野球なり…とにぎやか。
無知は当然ながら偏見を呼び、4日間、同じトコロをぐるぐる回って、1打か2打差の勝負。どこに感動があるノ? といぶかるムキもありました。
ウチの物置で木の柄(ヒッコリーシャフト)の道具を見た、というHアナウンサーがメーンに抜擢されました。放送は、いまのような方式ではなく、ティー、セカンドショット、グリーンと固定ポイントにそれぞれアナウンサーを配置しての密着型。やぐらに二人が背中合わせに立って、グリーンと次のティーショットを分担する念の入れよう。入社2年目の私にもご下命があり、世紀の放送に備えます。
カメラはやっと10台。午前のホールが終わるや、リヤカーに積んで、午後の位置へと運ぶのです。
いよいよ本番。Hアナは日ごろは、歌舞伎専門です。霞ヶ関CCは白いバンカーと松のコントラストが美しいコースです。例の黛敏郎さんの軽快なスポーツテーマに続いて、淡々と、渋いトーンで 「みなさん、こんにちは。ハクサセーショー(白砂青松)カスミガセキ……」 芝居の、仇討ちのムード。
コースに大布陣を張る面々も、相撲アナは、アドレスで 「足の位置が決まりました……。大胆かつ慎重、動と静、相撲の取り組みと一脈あい通じる……」
「短いクラブでも、軽く振って大ホームランの距離が……さあ、第一球、狙いはどこか、ふりかぶった」 と伝えたのは野球担当。とりあえず自分の城で闘う姿勢です。
新聞紙面に<バンカーとは>の解説が載るゴルフ黎明期です。用語も日本語が少なく、なじみのないスポーツを、少しでもやさしく興味深くと苦心さんたんでした。
ちなみにラジオのゴルフ放送は、72年ニッポン放送が初めて実施しました。たまたまプレーオフにもつれ込んでテレビは時間切れ、そこを見事に補完。というおまけがついています。
さて、外国代表の中には、日本にゲームができるコースがあるの、と半信半疑で来日した選手もいて、横文字の国名を背中に縫いつけ、歓迎出迎えの女性キャディーに、おおいに戸惑い、そして、コースの景観や整備具合に驚嘆するものも。しかし、初体験の高麗グリーンには手を焼いていました。
勝敗の明暗を分けたパット。カスミの名物でもあった高麗芝はグローバル・スタンダードを理由に、八六年にベントに張り替えられたと聞きました。
遠来の選手、役員は帝国ホテルに泊まり、バスの送り迎えはコースまで一時間半。東京の人口は850万人のころ。車も少なかったのですね。
♪有楽町で逢いましょう♪のメロディが街に流れる中、接待は銀座。一方、中村寅吉、小野光一組はコース近くの農家の納屋が宿でした。これも年代を感じます。
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練習ラウンドでスター選手たちは軽々と基準打数(パー)を。いかにもカンタンそうに見え 〝気軽な競技ネ〟 の感覚がみんなの頭の中にあるものですから、ミスが重なり、ダブルボギーが出た場面では、「技術的に、果たしてどんなものでしょうかねえ……」などと容赦なくキビシイ。
長い初日の放送が終わると、局の幹部(ハンディ18)の指示で全員練習場に集合させられました。また、講義かと思いきや、「どうも、ゴルフを誤解しているようだ」と、プロ室から道具を借りてきて、さあ、打て、というのです。
そんなわけで、わが記念すべき〝初打ち〟は天下のカスミ。しかも業務命令で─。てんでにクラブをもち、いざ、いざ。 それから先のオソロシイ光景は、会員諸兄姉のご賢察のとおり。一群の異様な騒ぎをよそに、あちらではスニード、ディマレー、そして若きゲイリー・プレイヤー。名手たちが秋の夕焼け空に、スコンスコンとコトもなげに快打を響かせています。
●無知より始末に悪いのが、ナマかじり
2日目の放送はガラリと変わりました。
「完璧な弾道です。曲がりません。まさに神業。神業であります。こんな正確に、こんなに遠く…神業としか、いいようがありません…」
いやはや、ざっと半世紀。懐かしくもおおらかな時代でした。
●ほんだ・とういちろう会員 1934年生まれ 1956年開局3年目の日本テレビに入社 スポーツアナウンサー ニュースキャスター 解説委員としてスポーツ全般 芸能 皇室 事故 選挙特番を担当 「日曜夕刊」キャスターを十五年 初期のケーブル・ニュースなど三十八年間伝え手一筋で定年の日本テレビ第一号現在 フリーアナウンサー 日本テレビアナウンスカレッジ講師